アウムの話
そのニルギリは、相変わらず役所に通い詰めていた。
小祭、大祭のときは、主だったすべての住民が村に帰ってきている。
通常は季節を通して、男たちは各地に出稼ぎにいっているような村なので、正確な戸籍を作るには7年に一度のこの機会を逃すわけにはいかないのだ、と彼は話す。
戸籍を作成しているのならば、アウムについても聞きたいところであったが、それは賢者から口止めされていた。
ニルギリが不在の際にさりげなく住民名簿をぱらぱらと開いてみたが、それらしき名前も見当たらなかった。
自由に動ける時間は、残りわずかとなっていた。
仕方なく、カイは、自分がいちばん話しやすい村の少女に、アウムを探していることを打ち明ける。
「アウムという人の家は、どこ?……あの、いま、たぶん70歳くらいの、ご老人って聞いたんだけど」
「アウム?どうして?」
「あ、えっと、賢者さまからの言付けがあって……」
「嘘ね」
「……、え?」
ノルはじっとりとした目つきでカイを見つめた。
「カイは、嘘が下手ね」
くるり、と、その場で一回転すると、布をたっぷりとった外套がふわりと舞う。
「アウムは集落には住んでいないわ。よすてびと?村はちぶ??っていうらしいわ」
そして、ノルは身を翻し、駆け出していってしまう。
カイは、嘘が下手、と言われたことに戸惑い、アウムの村での立場に思いを巡らせ、また、ノルに駆け去られていってしまったことに驚き、立ちすくむ。
ノルは集落の入り口で立ち止まり、ふりかえった。ぴょん、と飛び跳ねるさまは、小動物のようだった。
「なにぼーっとしてるのよ。アウムのところに行きたいんでしょ?こっちよ。ついてきて」
アウムの住居は、村の入り口、あの大吊橋の下にあった。
よく注意しないと見過ごしてしまいそうな階段が、谷を下る崖に刻まれている。
渓谷には、ところどころに藪や灌木が生えていて、なかば隠されたようなその中に、洞窟の入り口が顔を見せる。
「この村、洞窟が、多いんだね」
「そうね。人が利用しているものも一部あるけど。中が迷路みたいになっているものもあるから、ほとんどは立ち入り禁止なんだけどね」
アウムは、その洞窟のひとつを住処にしているとのことだった。
「アウム?いるよね?」
「ノルお嬢さん?」
ノルは小さなころから好奇心旺盛で、男の子に混じって、禁じられた洞窟探検に夢中になっていたらしい。
迷子になっていたところを保護されて以来、村はずれのこの老人のことを知ったという。
「こんなところに来てはいけません」
「平気よ。お客様をお連れしただけ」
アウムは、洞窟暮らしをしているとは思えないほど、清潔で知的な印象のある老人だった。
洞の中もこざっぱりと片付いて、清涼な香草の香りが漂っている。
昼とは思えないほど暗いが、ひんやりとした空気の中、「砂の国」製の畜光石のランプが、月のように柔らかい光を放っていた。
「お客様、とは?」
「カイ?」
「……、あの、これを」
カイは仕込み杖を開き、アルッカの老婆から言付かった手紙をアウムに渡した。
(そういえば、おばあさんのなまえを、聞いていなかったな)
アウムは手紙を受け取ると、引きちぎるように封蝋を剥がし、ランプを手元に引き寄せてそれを読み始めた。
羊皮紙をなでるように、長い時間をかけて丁寧に手紙を読み終え、アウムはカイとノルを静かに見やった。
※※※
星の神と月の乙女の神話はご存知でしょうか
南北大陸でそれぞれ見える星座は異なりますが、同じような話は各地にあると聞きます
新月の夜に、乙女は人に姿を変えられて、この地に降り立たれます
星の神は月の乙女を探すため、普段よりも一層、輝きを増して光られるのです
冬至とは、1年でいちばん夜が長い日のことですね
この地では、49年目の冬至に、神は乙女を見出された、と伝えられています
星の神は地に降りられ、月の乙女と一夜を過ごされます
神は夜明け前に、乙女の心臓を抉り、それを手に天へお帰りになる
その心臓をもちて、新たな月を再生されるのです
わたしは、49年前のあの年、神の依代として選ばれました
神は、船に乗り地に降り立たれます
星月の舞は、あなたも練習しているのでしょう、ノル
わたしは、銀のナイフを持たされ、祭りの夜の心得を説かれました
しかし、どうしても、巫女の心の臓にそれを突き立てることに、同意することができなかった
彼女が、わたしの恋人だったからです
わたしは、彼女とともに逃げました
冬の山です
あるいはそれも、想定されていたことだったのかもしれません
彼女は捉えられ、わたしの命を盾に脅されて、巫女の任務に戻りました
わたしの兄が、月の神の依代の、代役として船に乗ることに決まりました
抗いきれぬ運命ならば、せめてわたし自身の手で彼女を殺しておけばよかった
彼女の死を見届けたら、わたしも後を追おう
そう思い、祭りの日を待ちました
気が狂いそうな日々でした
兄は、星の神として彼女を抱きます。彼女の白い胸に、刃を突き立てるのです
その映像が、繰り返し、夢に出てきて、わたしを苦しめました
祭りの当日
彼女は、忽然と、船上から消えたといいます
ご覧になった通り、この村は盆地です。逃げ道などない
兄は沈黙を貫きました
人々は騒然となりました
どんなに探しても、彼女の遺体はあがらなかった
彼女は滝つぼに落ち、浮かび上がることはもうないだろう、と
むりやり結論づけて、その年の大祭は幕を引いたのです
※※※
「わたしは何年も、廃人のような暮らしをしていました」
アウムは目を閉じて、静かに語りおえた。
「いちど神の依代に選ばれた以上、村の人々はわたしを粗略には扱いませんでした。最低限の衣食を支給され、村はずれのこの地に隔離され、以来『存在しないもの』としてただ日々を過ごしてまいりました。自死はできなかった。彼女の死を、わたしはまだこの目で見届けたわけではなかったので。でも、ああ、」
アウムの手は、羊皮紙を何度も撫でる。
「……生きて、いてくれた……」
「――なによ、それ――!!」
ノルが叫ぶ声が、洞窟内に反響した。
「そんなの、知らない!巫女は星の神をお迎えし、歓迎の舞を舞うって、そう聞いてたのに!!神官のひひじじいに、だ、抱かれて、心臓を抉られて、し、死ななきゃいけない、だなんて……。そんなの、やだ!そんなの、聞いてないよ!!」
「ノル、落ち着いて!」
「カイは知ってたの?はじめから、知ってたの?」
カイはノルを後ろから抱きしめて宥める。
「あの……」
「なんだい?」
「49年前の、巫女の、お婆さんの話。賢者さまにも、話しました。僕、は、ノルを、助けたい。賢者さまは、アウムさんならば、何か知恵をお貸しくださるのでは、と」
「うーん、そうは言ってもね」
アウムは、ふたりに巫女の手紙を見せてくれた。
時候の挨拶、近況を問う定型文、自分は息災であること、など、あたりさわりのないことしか書かれていない。
カイはもちろん文字が読めるが、ノルも巫女として学んだのだろう、手紙を食い入るように読み込んでいた。
「わたしたちにはね、わたしたちにしかわからない暗号を持っているんだ。それによると、『もしも新たな巫女がアウムを訪ねてくることがあれば、彼女に伝えてほしい。「ぬくい水のほうへ」行くように』、と」
「『ぬくい水のほうへ』?」
「話せることは、すべて話した。わたしは村の幽鬼だ。表立ってはなにもできない。だけどノル、心を強く持って。もしも運命から逃れられたら、またここに来なさい」