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死人の花嫁  作者: 黒井雛
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 男と女は元々一つだったのだと、いつか誰かが言っていた。二人で一つの体であったのに、何らかの事情があって切り離されてしまい、それ故に半身を求めて男も女も彷徨うのだと、確かそんな話をしていた。

 ずいぶんロマンチストなことを言うと、その時早苗は笑い飛ばしてそのまま忘れてしまっていたが、啓介に出会ってから、その話を妙に思い出すようになった。

 もし、本当に自分に切り離された半身がいるのなら、啓介の他いない。そんなことを真面目に考えてしまうくらい、啓介という存在は早苗の中の空白を、すっぽり覆って埋めてくれた。

 無くしたものを、求めて得られなかったものを、求めることすら既に忘れてしまったものを啓介は惜しみなく早苗に与えてくれた。

 無償の優しさに怯え、与えられて、やがていつかそれを失ってしまう恐怖故に啓介を拒絶しようとする早苗に、何度も何度も根気強く愛を囁いてくれた。ずっと傍にいると、自分が幸せにすると、そう言ってくれた。

 そんな真摯な啓介の態度に、頑なだった早苗の心は徐々に絆されていった。


(――もう、例え騙されてても、いいや)


 夜の仕事を辞めて、結婚を前提で交際して欲しいと乞うた啓介に、早苗は泣きながら頷いた。


(例え嘘だとしても、私はこの人を信じたい)


 忘れていた胸の温かさを、人を愛するということを教えてくれた啓介を、早苗は信じたかった。

 どうせ一度どん底まで堕ちた身だ。例え、仮に啓介の愛が何かの罠だとしても、これ以上に失うものなんて、きっとない。

 来るかも分からない不幸な未来を憂うよりも、今はただ目の前の幸福に浸っていたかったのだ。

 だけど、啓介は全てを任せて身を委ねた早苗を、裏切らなかった。

 恋人として、未来の旦那として、相応しい行動を示してくれた。そしてとうとう、早苗が10年以上も避けていた、実家へまでも共に足を運んでくれたのだった。


 早苗をどん底から救い上げてくれた、感謝してもしきれない、愛しい半身。――だけど、そんな啓介にすら、早苗はこんな土壇場まで、過去のことを話せなかった。

 過去を話して、啓介に嫌われることを恐れたわけではない。そんなことで、啓介が自分を嫌う筈がないと確信できるくらいには、早苗は最早啓介の自分への愛情を信じ切っている。

 ただ、早苗は怖かったのだ。過去を口にすることで、既に一度捨てた筈の過去が、自らの空白の元凶が、現代の物として鮮明に蘇ってくることを早苗は恐れた。過去を話すことで、また自分が、惨めでひとりぼっちな自分に戻ってしまうような、そんな気がしたのだ。

 過去はずっと、早苗と共にあった。10年間ずっと早苗のうちで燻り続けて、常に早苗を苛み続けた。それは時には、優子や自分を虐げた者達に対する怒りであり、惨めに虐げられていた過去の己に対する絶望であり、村八分の状況のまま置いて来てしまった両親に対する罪悪感でもあった。

 忘れようといくら努めても、ふとした拍子に鮮明に蘇る、過去。しかし、そんな過去も、啓介と話している時だけは忘れられた。啓介といる時だけは、早苗は全てを忘れて、ただ幸福な女として過ごすことが出来た。それも全ては、啓介が早苗の過去を何もしらないからこそだ。

 啓介が過去を知れば、そんな幸福な時間が終わってしまう。それが嫌で、早苗は今の今まで、啓介に過去を話せなかった。




(…ああ、とうとう言ってしまった)


 啓介に包み隠さず全ての過去を語った早苗は、拳を握って、そっと目を伏せた。

 啓介がどんな反応を示すか、早苗には想像がつかなかった。

 俯いて震える早苗の体を、啓介はただ黙って抱きしめた。


「…啓介?」


「…大丈夫だよ。さっちゃん、大丈夫」


 安心させるような優しい声音で囁きながら、啓介はあやすかのようにポンポンと叩く。


「さっちゃんの過去がどうであろうと、そのせいで村の人たちがどんな反応を見せようと、俺には何も関係ないから、大丈夫だよ。さっちゃん。…言ったでしょ?どんな結果になろうと、俺はさっちゃんを攫うだけだって。俺にとって大事なのは、今の、そして未来の俺たちの幸福であって、過去なんてどうだっていいんだ。俺たちの関係は、なあんにも変わらないんだよ」


 啓介の言葉に、早苗の目からは涙が零れた。

 いつだって啓介は、早苗が一番欲しい言葉をくれる。


「だけど過去が今のさっちゃんを苦しめ続けるのなら…そうだな、俺も全部それを背負うよ。さっちゃんの苦しみも、それが罪だというのなら罪も、全部俺にわけて。俺と、半分こしよう?俺は昔のさっちゃんにはなれないけれど、当時のさっちゃんの気持ちに寄り添うことは出来るから」


「啓…介」


「俺達は夫婦になるんでしょう?じゃあ、幸福も不幸も全部わけあわなきゃ、ね?」


 そういって初めてあった時と同じ笑みを浮かべる啓介に、早苗はしゃくりをあげながら、しがみ付いた。

 そして子供のように声をあげて泣いた。

 誰かが来るかもしれないのに、いい大人がみっともない。そんな風に思う余裕は無かった。

 啓介の言葉が嬉しくて仕方なかった。


(この人を選んで、本当に良かった)


 そう、心から思った。



「…あーあ。さっちゃん、顔化粧取れてぐっちゃぐちゃ。マスクも鼻水だらけで使えないし」


「…うっさい。マスクはちゃんと代えがあるわよ。化粧もなおすもん。てか、またサングラス掛けてマスクしたら、顔なんてろくすっぽ見えないもん」


「ならもう化粧なんていっそ落としちゃえばー?俺、さっちゃんのすっぴんも好きよ。目ぇ一回りちっさいけど」


「いいの!!化粧は人に見せる為というよりも、気合入れる為なんだから!!てか、目ぇちっさいとかちょっと人が気にしてること言わないでよ」


「えー。なんてか小っちゃくて黒目がちだから、子リスみたいで可愛いのに」


 早苗はぎろりと啓介を睨んでから、そそくさと手鏡と化粧ポーチを取り出して崩れた化粧を直す。

 啓介に言われたからではないが、特にアイラインはしっかりと太く描いた。

 顔の赤みも涙の筋もすっかり隠れた顔を鏡で睨んで、早苗は一つ頷いた。

 化粧は女にとって、戦装束のようなものだ。やっぱりこうでないといけない。特に、10年ぶりに音信不通の両親と再会するような、そんな時は。


「…ねぇ、さっちゃん。本当に行くの?」


 先程のふざけた口調から一転して、啓介は酷く心配そうに早苗に問いかけた。


「別に無理して行くことないんだよ?あくまでただのけじめだし。今ならまだ、引き返せる…俺、無理した結果、さっちゃんが傷ついたら嫌だよ?」


 どこまでも優しい啓介の言葉に、思わず苦笑が漏れた。確かに、引き返すなら今しかないだろう。

 両親とは10年も会わないまま生きて来たのだ。ならばこれから一生会わなくても、何も変わらない気もする。

 ――だけど。


「――行くわ」


 早苗はパキリと音を立てて手鏡を閉じると、不敵な笑みを浮かべて啓介を振り返った。

 啓介に過去を話すまでは、正直悩んでいた。だけど、全てを話した今、決心はついた。


「行って両親に会ってけじめをつけるわ――それが良い結果であれ、悪い結果であれ、けじめをつけて全部受け止める。だってそうしなければ、私は過去と本当の意味で決別できないもの」


「さっちゃん…」


「私はね、啓介…全てと決別してまっさらな気持ちで、啓介の奥さんになりたいの」


 それがどんな結果であっても過去を清算して、新たな気持ちで啓介と共に新しい人生を歩みたい。それを思えば、早苗はどんな恐怖も耐えられる気がした。

 啓介と生きる為に、早苗は過去と決別するのだ。


「わかった…でも無理はしないでね。やばそうだったら、一緒にとっととずらかろう?」


「うん。もちろん。その為に今日はヒールはやめて、ぺったんご靴履いて来たんだから」


「…そんなこと言って仕事の時以外、いつもその靴な癖に」


 二人で顔を見合わせながらくすくすと笑って、そして、どちらからともなく手を繋いだ。

 どんな未来が待ち受けていても怖くない。啓介と一緒ならば。

 早苗は啓介の手を引きながら、かつて知ったる家までの道路を進み始めた。


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