七
はじまった虐めが一体どんなものだったか。
正直それはもう、思い出したくはない。
子どの無邪気な残酷さと、大人の狡猾さを併せ持った思春期の高校生による遊戯は、早苗の心を、体を、尊厳を、ずたずたに傷つけた。
誰も早苗の味方になってくれる人はいなかった。担任の教師だって、早苗に対するいじめを知っていながら見て見ぬふりを決め込んでいた。日を追うごとに、いじめはますます悪化していった。
家に帰れば毎日のように来る母親からの着信や、メールが早苗を一層追い詰めた。
母親は、父親は、翔太に謝ってよりを戻せば解決すると言うが、そんなことなるはずがないと早苗は悟っていた。
例え、翔太が許しても、優子はけして早苗を許さない。許す筈がないのだ。
だって、優子が本当の意味で早苗を怒っている理由は、早苗が翔太の心を弄んだからではない。それはただの大義名分に過ぎない。
翔太の心を奪ったこと。翔太に愛されたこと。――それこそが、優子にとっての「早苗の罪」だ。
そして、早苗が翔太をフッたことで、早苗を批難できる口実を得ることが出来た今、優子が再び早苗が翔太に近づくことを許す筈がないのだ。
事実、翔太と携帯番号も、メールアドレスも、受信拒否がされて繋がらなくなっている。翔太が自らそうした可能性もあるが、早苗はそれは優子の手によるものだと確信していた。
学校も、家も、どこにも早苗の安息の場は無かった。
どこにも逃げ場なんか無い。誰も助けてなぞ、くれない。
(――死に、たい)
思いつめた早苗が、死を望むようになるのは当然の流れだった。
当時の早苗にとって、死は酷く甘いもののように思えた。
死んだら全てから解放される。
溜まらない孤独感からも、肉体的な、精神的な苦痛からも、どこまでエスカレートするか分からない恐怖に満ちた未来からも、全て。
明日が来るのが、怖かった。明日が、今日より酷くなるとしか思えない現状が、苦しくて息が詰まりそうだった。
とうとう耐えきれなくなって、よく切れる、カッターナイフを買った。死に方は、ネットで調べた。
動脈を深く切って、血が固まらないように、風呂場に張った水に手をつけて――ただ、それだけ。たったそれだけのことで、早苗は全ての恐怖から解放される。
全ての準備は万端だった。遺書も書いた。何を書いても恨み言になりそうだったので、ただ一言「さよなら」とだけ、両親にあてた。
そして早苗は、覚悟を持って手首にカッターを当てた。全てを終わらせる、そのつもりで。
「――あ…」
だけど、カッターの先は僅かに早苗の皮膚を切っただけだった。手が震えて、深く切ることが出来なかった。
切った皮膚から、血が滲んで来た。真っ赤なそれを見た瞬間、早苗は手からカッターを取り落とした。
「…あ…あ…あ…あ…」
血が、手首から流れている。血管を通って、今もなお、早苗の全身を巡っている。
「――…あああ―――っ!!!」
生きて、いる。どんなに死にたいくらい辛くても、自分の体はちゃんと、生命維持活動を続けているのだ。
そう思ったら、嗚咽が止まらなかった。
「…死にたく、ね…死にたくなんかねぇず…っ!!」
自分は生きたいのだと、早苗はその時になってようやく気が付いた。どんなに孤独で苦しくても、生きたくて、生きたくて仕方ないのだと。生きることを諦めることなんか、出来やしないのだと。自分がこんなに生き汚い人間であることを、早苗は初めて知った。
「…だけど、きっと、今のまんまじゃ、死ぬしかねーは…」
きっとこのままじゃ、生きられない。早苗がどんなに生きることを渇望しても、今の環境のままでは、早苗はきっとまた死を望む。環境が、早苗を殺す。
なら、どうすればいいか。
一瞬で、答えは出た。
環境が早苗を殺すなら、環境を変えればいい。
逃げれば、いいんだ。…全てを捨てて、優子の手も、いじめっこの手も届かない、遠くへ。
早苗は、財布と銀行カードを持つと、そのまま寮を飛び出した。携帯電話は、両親に別れメールを打って、すぐに捨てた。
カードで口座の貯金を全て引き落として、そのお金で東京行きの切符を買って電車に乗った。
東京に行って、その先のあてなんか何も無かった。だけど、それでも、このまま郷里に居続けて死を待つよりは、よほどマシな気がしたのだ。
17歳と、9か月目のその日、早苗は郷里を、過去を、全てを捨てたのだった。
都会というのは、家出少女にも優しいところだ。職を選ばなければ、身分証明が怪しい早苗でも、お金を稼ぐことが出来る。
当然ながら、そんな仕事は夜の仕事であったが、早苗は躊躇わなかった。
あのまま学校にいれば、小遣い稼ぎがしたい生徒達によって、それこそ噂が真実になるような行為だってさせられていたのだ。本番をさせられないだけ、稼ぎがちゃんと自分の物になるだけ、よほどマシだ。早苗は早々とそう、割り切った。
仕事は苦痛ではあったが、それでもお金になったし、かつての地獄を思えば耐えられた。
それでも、日に日に心の中が乾いて行くことは止められなかった。
淋しい 淋しい 淋しい 淋しい
身を切るような寂寥が、常に早苗の心の中を渦巻いていた。
親戚も、友人もだれもいない、故郷の言葉を聞くことすら酷く稀な、大都会。
同僚はライバルで、気を抜けば足を引っ張られる為、けして心を許すことは出来ない。
淋しさから、幾人もの男と付き合ったが、早苗の外見や金に魅かれて近寄ってくる男は、一様にろくでもない男ばかりだった。早苗の胸の空白は、満たされるどころか、付き合えば付き合う程、ますます広がって言った。
乾いて、堕ちて、諦めて
そんな時だった。早苗は一人の青年と出会ったのは。
「…あなた、私と似てるね」
仕事の同僚に無理矢理連れられて店にきた青年に、何故初対面でいきなりそんなことを言ってしまったのか今となっては分からない。一見の客相手に、そんな馴れ馴れしい言葉なんて、今まで一度だって口にしたことはなかったのに。
けれど一目見た瞬間、何故かそう思ったのだ。自分に、似ていると。
「――すごく、淋しそう」
自分と同じような孤独を抱えていると、そう思ったのだ。
早苗の言葉に、青年は酷く驚いた顔をした。当たり前だ。無理矢理連れて来られて困ったと言いながらも、それでも青年は酷く朗らかに笑っていた。軽薄だと、そう思ってしまうくらいに彼は明るかった。淋しさなんて、微塵も感じられない。
(…何を言っているんだ。私は)
言ってしまってから、早苗は我に返った。
「ごめんなさい…変なこと言ってしまって、その…」
慌てて謝罪の言葉を口にして俯く早苗の顔を、次の瞬間青年は下から覗き込んでいた。突然詰められた距離に、早苗はぎょっとして顔をあげるが、青年はそんな早苗の行動を気にするでもなく猫のように目を細めた。
「…ねぇ、君、名前は?」
「え…あ…【冴子】です」
狼狽えながら源氏名を口にした早苗に、青年は思案気に顎に手を当てて暫し考えこむ。
「…じゃあ、さっちゃん、かな?」
「え…」
至極いいことでも思いついたとでもいうように、青年は満面の笑みを浮かべた。
「さえこだから、さっちゃん。ね?そう呼んでいいでしょ?」
懐かしい、渾名だった。
思い出すのは、早苗が全てを捨てるきっかけになった幼馴染。
『俺、さっちゃんが好きだよ…』
不意に、いつぞやの翔太の言葉が脳裏に蘇った。
だけど、同じ渾名でも、翔太が呼ぶそれと青年が呼ぶそれは、不思議なくらい全く違った響きを持って早苗には聞こえた。
「…嫌だった?」
不安げに眉を八の字のして早苗を覗きこむ青年に、思わず早苗は噴き出す。
ころころと表情が変わる、どこか少年のような雰囲気を持つ人だ。
「いえ…今までお客さんに、渾名で呼ばれていたことなかったので、びっくりしただけです。そう呼んで貰えるなら嬉しいです」
「なら、良かった!!ねぇ、さっちゃん。じゃあ、仲良しの印に俺のことも名前で呼んでー」
そう言って青年は、にこにこと人差し指で自らを差した。
「俺ね、啓介っていうんだ。啓ちゃん…って言われるのはちょっと恥ずかしいから、そのまま啓介って呼び捨てでお願いしマス!!」
――それが、早苗と啓介の馴れ初めだった。