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死人の花嫁  作者: 黒井雛
32/33

三十二

 走る。走る。走る。

 ただ一心不乱に、光に向かって駆けて行く。


『さっちゃん…さっちゃん…さっちゃん』


 背中から聞こえてくる啓介の声は、遠ざかれば遠ざかるほど、なぜか大きくなっていったが、それでも早苗は振り返らなかった。


『さっちゃん…俺を置いていかないで…』


 聞こえる啓介の声は悲痛に満ち溢れていて、罪悪感で胸が押しつぶされそうになるが、それでも唇を噛みしめて走り続けた。

 生きると、決めた。

 もう、迷わない。


『早苗…早苗…早苗…』


 光に近づくにつれて、自分を呼ぶ母の声も同様に大きくなっていった。

 耳が潰れんばかりの大きさで、二つの声が早苗を呼ぶ。


(…違う。二つじゃ、ない)


 母の声に重なるもう一つの声に気付いた早苗は、一層足を速めた。

 母の声に重なって早苗を呼ぶ、この声は。この、低い、優しい声の主は。

 いつの間にか、早苗の耳には啓介の声が届かなくなっていた。

 前方から呼ぶ、二つの声しか、もう耳に入らない。

 光が強くなっていく。

 早苗は全身を包む光に、躊躇うことなく身を投げた。




「…っ早苗!!」


 目が醒ますとそこには、泣き腫らした顔の母が、早苗を覗き込んでいた。


「…お母ちゃん」


 早苗が呼びかけると、その顔は瞬時に歓喜の涙で濡れた。

 早苗は視線だけで、もう一つの声の主を探す。

 その人は、すぐに見つかった。


「お父ちゃん…目ば醒ましたんだね…」


 頭と腕に包帯を巻きながらも、それでもちゃんとベッド脇に立って早苗を見つめている父の姿に、早苗の目からもまた涙が零れ落ちた。


「お前が目ば覚ましてけて、本当に良かった…」


 病院のベッドの上。親子三人で抱き合いながら、声も憚らずに皆で泣いた。




 放火による、火災。一家一棟、全焼。

 不幸中の幸いか、早苗の家は近所の家から少し距離があったため、近隣住宅に被害は無かった。

 早苗は天井が落ちてきた時に偶然窓を破って外に投げ出された為、腕に大きな火傷の痕を負ったくらいで助かったが、優子と啓介は焼け跡から遺体で見つかったという。

 息子の死によって精神を病んでしまった母親による凶行は、一時期ワイドショーを騒がせたが、早苗が思っていたよりも大きな扱いにはならなかった。

 早苗は知らなかったが、優子の常軌を脱した行いはあちこちで噂されていたようで、周囲の人間は早苗を完全に被害者として扱い、ただひたすらに同情されるだけで、下世話な勘繰りをされることは少なかった。

 啓介の所業が、警察によって解明されなかった部分も大きい。

 啓介の指紋はすっかり焼け焦げてしまい、また指紋が警察機関に残されているような前科も無かった為、父親の車に対する細工は、優子が誰か人を雇って行ったことだろうという見解で落ち着き、啓介もまた、早苗同様被害者という立場に括られた。

 早苗は啓介の狂気を、他の誰にも話す気は無かった。

 ワイドショーを通して早苗は、病死とされていた翔太の死が、本当は自殺であったことを初めて知った。翔太の自殺を認めたくなかった優子が、医者に金を払って、病死という診断にさせたらしい。

 そんな事実をゴシップ誌の紙面越しに知るのは、酷く不思議な気分だった。

 この事件を通して、早苗は様々な物を失った。

 愛した婚約者は、変貌の末に死んでしまったし、幼い頃可愛がっていた愛犬も、懐かしい家も、失った。腕に負った火傷の痕は、おそらく一生残るだろうと医者には言われた。心も酷く疲弊し、傷ついた。

 けれども、この事件を通して得た物もあった。


「…もともと俺が、こだな家さしがみ付いていたのが、悪かったんだ。燃えてしまって、ようやく踏ん切りがついたは」


 そう言って父は目に決意を宿しながら、笑った。


「三人で心機一転してやり直すべ…こっから離れた、新しい別の土地で。新しい場所で、嫌な思い出全てを忘れて、皆で一からやり直そう」



「お前が死ぬかもしんねぇと思った時、何でお前たちば家さ帰したんだって、心から後悔したんだ…」


 そう言って母は目に涙を貯めて、早苗を抱き締めた。


「お前が生きてさえいてけたら、他には何もいらねぇ…どんな苦難だって耐えられるって、ようやく気付けたは」


 早苗は事件を通して、一度失った確かな家族の絆を再び得ることが出来た。




 世間がすっかり事件を忘れた頃。

 引っ越しの準備を全て終えた早苗は、一人で郷里の神社へと向かった。

 きっと、これが懐かしくも忌まわしいこの神社への、最後の参拝だ。

 早苗は郷里を離れる仕上げとして、今回の事件の始まりとも言える婚姻絵馬を、こっそり燃やしてしまうつもりだった。

 長い石段を一段上がる度、火傷を負った皮膚が服に擦れて引きつれ痛みが走ったが、それでも早苗はけして足を止めなかった。絵馬を燃やしてしまわなければ、全てを終わらせることは出来ない気がしたのだ。

 階段を登りながら、早苗は病院で目が醒める前に見た夢を思い出す。

 あれは、本当のことだったのだろうか。

 啓介は、今も透明な鎖に縛られたまま、孤独に苛まれながら早苗を呼んでいるのだろうか。

 そう思うと、ちくりと胸が痛む。

 リュウを殺し、父親を意識不明の重体に追いやり、最後には早苗までも殺そうとした啓介。

 憎んで嫌悪してもおかしくは無い筈なのに、なぜか全てを終えた後に思い出すのは、郷里に帰る前に啓介と過ごした楽しい思い出ばかりで。


「…愛して、たんだよ…私も、ちゃんと…啓介と同じような、愛し方は出来なかったけれど」


 生きることを選んだことに、後悔はない。けれども時々思う。

 あの時、啓介の所に行くことを選んでいたら、どうなったのだろうと。

 啓介を孤独から救ってあげることは出来たのだろうか。


 気が付けば、既に石段はもう終わりそうになっていた。

 早苗は大きく息を吐き出して、啓介のことを頭から振り払う。

 全てを捨てて、東京でも郷里でもない場所に行ったら、きっとこんな気持ち忘れることが出来る。

 新しい仕事をして、新しい環境に馴染んで、新しい人たちと出会って。

 そんな日々の積み重ねが、辛い過去の記憶を全てとは言わずとも、それなりに押し流してくれる筈だ。十年前のトラウマに囚われながらも、それでも早苗が十年間生きてきたように。記憶は時間に伴って、風化されるものだから。人は忘れることが出来る生き物だから。

 そうなったらまた――恋が、出来るかもしれない。また、誰かを愛せるかもしれない。

 一人ぼっちで荒みきっていた十年前とはちがう。今の早苗には、自分を愛してくれる両親がいる。

 愛されることを知っている今の自分なら、いつか胸の痛みを乗り越えて、また誰かを愛せるはずだ。早苗はそう、信じている。


 石段を登り切った早苗は、鳥居を潜った後、一度後ろを振り返った。

 石段の下に広がるのは、懐かしい郷里の風景。忌まわしい思い出がたくさんある場所であるのに、いざ離れるかと思うとそれでもやはり少し寂しい。今はこの景色を目に焼けつけておこうと思う。

 早苗は大きく深呼吸をすると、再び前を向いて境内を横切り、神社へと向かう。

 先に賽銭箱に小銭を入れて少しお参りをして、神鏡に郷里を離れる報告を行うと同時に、勝手に絵馬を焼き捨てる無礼を詫びる。

 そして靴を脱いで、神社の中へ上がった。絵馬がある場所は覚えている…筈だった。

 しかし、早苗が件の絵馬を取り外すことは叶わなかった。


「――いやああああああああ!!!」


 絵馬を見た瞬間、早苗はその場に崩れ落ちて絶叫した。

 早苗の目に映る、一つの絵馬。袴と白無垢をそれぞれ身に纏って、仲良く寄り添って微笑みあう結婚式の夫婦の姿。

 本来なら翔太の顔があった新郎の顔の部分には、歪に切り抜かれた啓介の顔写真が上から貼りつけられ、早苗に向かって幸福そうに微笑みかけていた。


 【完】


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― 新着の感想 ―
素敵な作品です。 ずっとホラーに苦手ですが、この作品は最初から面白かったで思わず読んでしまい、止まなくなっていたのです。 絵のような綺麗な文章、繊細な心理描写。 読んだ後、私が感じられたテーマは二つ。…
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