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死人の花嫁  作者: 黒井雛
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三十一

「ここさ、留まる…?」


 早苗は予想外の三つ目の選択肢に眉を顰めた。

 翔太が早苗に生か死を選択させようとしていたのは分かる。だが翔太曰く、あの世とこの世の境目であるこの場所に留まるとは一体どういう意味なのだろうか。


「啓介は…死んでねぇの…?」


 ここに来る前の状況から、早苗は啓介が既に死んでいる物だと思っていた。優子に刺された出血に加えて、崩れて来た天井の状況を考えても、啓介が助かるとは思えなかった。

 けれど、あんな状況にも関わらず啓介が助かっていたのなら…。

 その事実を恐れればいいのか、喜べばいいのか、今の早苗には分からなかった。

 そもそも自分自身、生と死の境界にいるのだから、啓介の生死をどう捉えればいいのか分かるはずもない。


『いや、残念ながらあの男は、死んでる。死んでっからこそ、あいつはここさ留まることしかできねぇ…さっちゃんみてぇに、生か死か、それを選ぶ選択肢はあいつにはねぇんだ』


 翔太の言葉に、早苗は安堵にも失望にも似た、複雑な気分を味わった。

 そして同時に、啓介が立たされている状況が、ますます状況が分からなくなってきた。

 何故、死んだはずの啓介が、この場所に留まらないといけないのか。

 同様に死んだ翔太自身は、あの世にいけると言っているのに。


『目を凝らして見てみっといいは…あの男の回りば』


 促されるままに、未だ泣きながら早苗を呼び続ける啓介に視線をやり(それは今の啓介の現状を直視したくない早苗にとって、非常に辛い行為でもあった)そして息を飲んだ。

 啓介の周りには、透明な太い鎖が、幾重にも雁字搦めになって巻き付いていた。

 鎖の先はどこからか消えてしまっているが、その先はきっとこの空間そのものに繋がっているのだろうと、なぜか理解出来た。


「あれは…何?」


『…生きているうちに犯した罪とか、背負い込んだ負の感情とか、そういうもんでねぇの?…本当の所は、俺もわかんねけど』


 ふと視界を動かすと、空間に埋没して気付かなかっただけで、啓介の他にも同じように鎖で雁字搦めになっている人たちが点在していることに気付いた。

 そしてその人たちは皆、それぞれに悲痛な表情で、何か呪詛のようなものを口にしていた。

 ただ眼を向けるだけで、その人たちのそれぞれの纏う闇が伝わってきて、早苗はひっ、と小さな声をあげて思わず翔太の方へ体を寄せた。

 脅える早苗の様子に翔太は、小さく笑みを零しながら、説明を続けた。


『鎖は時間を掛ければ勝手に消えるみてぇだけど…それが消えるまでにどれくらいの歳月が掛かるかは、わかんねぇ。ただあれだけ鎖が強固だと、そう簡単にはほどけねぇべな』


「……」


『鎖に縛られている間は、安息の地さはいけねぇ。こことこの世を繋ぐような何か特殊な媒体でもない限り、この世に彷徨い出ることも出来ねぇ…ただ、自身の一番強い感情に囚われたまま、この何も無い場所に居続ける』


 翔太の声に、早苗はこくりと喉を鳴らした。

 果てしない、孤独。

 啓介は、ただその一つの感情だけに包まれて、途方もない長い年月をここで過ごさないといけない。どこにも行くことが叶わず。一人ぼっちで。

 それは早苗にとって、地獄に堕ちたのと同じ意味に思えた。


『…さっちゃんが傍に行ってやれば、あの男も救われっかもしれねぇね』


 ぽつりと翔太が零した言葉に、どきんと早苗の胸が跳ねた。


『さっちゃんさえいればいいって言ってるあの男は、さっちゃんが行きさえすれば、それで幸せかもしんねぇね。例えそれが、この何もねぇ空間に居続けることだとしても…けれど、そんな状況、さっちゃんは耐えられる?』


「…っ」


『さっちゃんが耐えてける程、あの男さ価値があるの?…誰かに取られるのを恐れて、さっちゃんの家族や、さっちゃん自身を傷つけた、あの男さ』


 真っ直ぐに向けられる翔太の目は、早苗の中の醜い部分を見透かしているようだった。

 利己的で、気が付けば自分のことばかりを考えてしまう、そんな醜い早苗の本質を。


『ねぇ、さっちゃん…多分さっちゃんは、おばさんのこととか、あの男のこととか気にしてるのかもしんねぇけど、そんなことは考えねぇでいいんだよ?自分の思うままの選択ばすれば。…だってさっちゃんの命は、さっちゃんのもんなんだもは。んだから、さっちゃんが一番楽な道ば選べばいいんだは』


 翔太の言葉に、早苗の心は揺れる。

 生きる道を選ばなければ、残された母が、ただ一人で辛い現実と闘わなければならない。

 ここに留まる道を選ばなければ、啓介はただ一人で何もないこの場所で、長い長い年月を孤独に縛られなければならない。

 翔太に着いてあの世に行けば、全ての苦痛から解放される代わりに、全てを捨てなければならない。

 早苗は大きく息を吸って目を瞑って、考える。

 自分が今、本当に望む道は――。

 次に目を開いた時、早苗の心はもう決まっていた。


(――ごめん、啓介)


「…例え、その先にあるのが、どんなに苦痛に満ちた未来だとしても」


 早苗は、笑う。泣きそうになりながら。それでも確かに決意が篭った表情で。


「――そんでも私は、生きたいんだ。もっと生きたいって、望んでしまうんだは」


 早苗が下した選択はけして、母親の為だけの選択ではなかった。

 目を瞑った瞬間思い出したのは、啓介と優子に命を狙われた、あの時の記憶。

 極限の状態で、愛した啓介に裏切られてもなお、早苗は死を受け入れようとは思わなかった。ただひたすら生きることを切望していた。…それが、答えだ。

 本当に自分はどこまでも生き汚い女だと、思わず苦笑が漏れる。束の間死を望んでしまっても、根本ではいつだって生きることを望み続けている。

 早苗は、生きる。

 それがどんなに辛いことでも、どんなに罪深いことだとしても、生きられる選択肢がある限り、生きて生きて生きぬいて見せる。

 それが、早苗が真実望んでいることだから。


『――そう』


 不思議なことに、翔太は早苗の選択に少し淋しげに笑うだけで、それ以上死の誘惑を口にすることはなかった。

 もしかしたら翔太は、早苗がどれを選ぶか最初から分かっていたのかもしれない。


『んだら、ここでお別れだ…俺は、おばさんの声がする方向さは行けねぇから』


 ゆっくりと早苗から離れた翔太は、束の間目を伏せて唇を噛んでから、再び母親の声がする方向を指差した。


『この方向場真っ直ぐ進んで、光の中さ入ったら、元の世界さ帰れるよ。…一度あっちさ向かったら、例えどんなことがあっても振り返ったら駄目だ。振り返った瞬間、この空間とこの世ば繋ぐ光は、消えてしまうから』


 翔太の忠告に、早苗は頷いた。


「分かった…さよなら。翔ちゃん」


 そして早苗は、翔太の言葉も待たずに駆け出した。

 母親が自分を呼ぶ声に向かって、ひたすら真っ直ぐに。

 早苗を呼ぶ啓介の声を、必死に振り切りながら。




『さようなら…さっちゃん』


 僅かな躊躇を見せることもなく駆け出した背中を目で追いながら、翔太は小さく別れの言葉を告げた。

 この声は、きっと早苗の耳には届いていないだろう。けれどもそれで良かった。その言葉は、早苗に向けたと言うよりも、寧ろ自分自身に向けた言葉だったから。


(さようなら…俺の初恋)


 翔太の初恋の相手は、弱いように見えて、実はすごく強い。どれほど絶望の淵に晒されても、必死に生きて幸せを掴もうとする。きっと、待ち受けている苛酷な現実も、傷つきながらも歳月をかけて自身の中で昇華出来る。…そう分かっているのに、未練がましく共にあの世に行くことを望んでしまったけれど。

 自分にはない、そんな彼女の強さに惹かれた。息子の全てを管理しようとする母親に従い、感情を押し殺して生きるのが普通だった翔太にとって、早苗の強さは酷く眩しかった。眩しくて、憧れた。憧れが恋に変わるまで、時間はかからなかった。

 翔太にとって、早苗は光だった。早苗といる時だけ、翔太は母親といる息苦しさを忘れられた。

 だから、早苗がいなくなってしまった時、翔太は自分の全てを捨てたのだった。それは自身を縛り、早苗を傷つけた母親に対する復讐でもあった。


(ああ…んだけど)


 早苗の背が見えなくなり、一人であの世へ続く道を踏み出しかけた翔太は、すぐに足を止めた。

 声が、聞こえる。

 必死に自分を呼ぶ、母親の声が。

 声の方向へ視線を向けずとも、分かる。優子もまた、啓介同様に太い鎖に雁字搦めになりながら、必死に翔太を呼んでいるのだ。


(んだけど、俺は。結局は母ちゃんば、捨てらんなかった…)


 全てを捨てたつもりでいた。全てを捨て、ただ早苗の想いだけを胸に抱いて死んだつもりでいた。

 それでも、結局翔太は本当に優子を切り捨てることは出来なかったのだ。独善的で歪んでいたが、それでも全身全霊で翔太を愛し続けた、母親のことを。

 だからこそ、翔太は婚姻絵馬という媒体を持ってしても、郷里を離れることは出来なかった。翔太の霊体は無意識の呪縛に縛られ、早苗が郷里に戻るまで接触すら叶わなかったのだ。


『もし、俺が完全にお母ちゃんば切り捨てることが出来たなら、俺はさっちゃんとあの世さ行けたのかなぁ…』


 今更考えても仕方がないことだ。早苗はもう、生きる道を選んでしまったのだから。

 翔太は大きく息を吐き出すと、あの世へ続く道に背を向けて、優子の声がする方向へと歩き出した。


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