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死人の花嫁  作者: 黒井雛
30/33

三十

『…いいこに、するよ…もう泣かないし、いたいっても言わない…いっぱい、いっぱい、いいこにするよ…だから、おかあさん、置いていかないで…迎えに来て…』


 それは聞いている早苗の胸が潰れそうになるくらい、悲痛な叫びだった。


『どうかおれを、ひとりにしないで…!!』


 母を求め、全身に孤独を纏って泣き叫ぶその幼子を、早苗は抱きしめてやりたいと思った。

 抱き締めて、その頬に口づけて、私がいるよと、そう言ってあげたかった。

 私がいるから、君は一人じゃないよ、と。


『――駄目だよ』


 しかし一歩踏み出しかけた体は、背後から伸ばされた手によって止められた。


『そっちさ行ったら、もう二度と帰れなくなるよ』


 耳元で囁かれる、翔太の声。

 早苗はいつの間にか現れた翔太によって、背後から抱きしめられていた。

 突然の翔太の登場。だが不思議なことに、今の早苗には、あれほど翔太に抱いていた筈の恐怖は感じなかった。


「でも、あの子が泣いている…」


 そんなことよりも、今は早くあの子の傍に行ってあげなければ。

 そんなどこから湧いたか分からない、奇妙な使命感が早苗を急き立てる。

 しかし、翔太はゆっくり首を横に振るだけで、早苗の拘束を解いてくれない。


『しー…黙って、暫く見てっといいは。そしたら、俺の言っている意味が分かっから』


 促されるままに口を噤んで、(それもまた、今までの早苗からは考えられない奇妙な行動であったが、その時の早苗は何故かそのことに違和感を感じなかった)泣いている少年を眺めた。

 見つめるうちに少年の輪郭がぼやけ、ゆっくりとその形を変えていく。


『おかあさん…お母さん…さん…ん…っちゃん…さっちゃん…』


 少年の姿は徐々に成長していき、それに伴い声も低く変わっていった。

 そして少年が大人に近づくに連れて、早苗が良く知る彼の姿に近づいて行く。


『さっちゃん…俺を一人にしないで』


 そして最後には、早苗が最後に見た血まみれの姿のまま、啓介は膝を抱えて早苗を呼んだ。

 その背に、果てしない孤独を背負いながら。

 それは、どうしようもないくらいに、悲しい光景だった。


『…分かったべ。さっちゃん。あいつがさっちゃんが思っていたような男でねぇってこと』


 早苗の耳元で、翔太はどこか嬉しそうな声で囁きかける。


「さっちゃんが愛してたあいつの姿あで、結局全て幻想なんだ…全部、全部作り物だったんだは」


 翔太の言葉を、早苗は否定できなかった。

 今見ている啓介も、早苗を殺そうとした啓介も、そちらも早苗が知る啓介の姿とは全く違っていたから。

 早苗が知る啓介は、穏やかで、お調子者で、優しくて、へなちょこだけどいざという時には頼りになって…。

 早苗を奪われる不安から、動物や人を殺傷したり、母や早苗を求めて孤独に泣いたりなど、しない。

 けれども本当に全てが作り物かと言ったら、それはそれで頷けない自分もいた。

 きっと、全てが本物なのだろう。それらの要素を全部ひっくるめて、啓介なのだろう。

 ただ早苗が、その一面しか知らなかっただけで。


『ねぇ、さっちゃん。…もう、さっちゃんが愛した婚約者はいねぇよ?さっちゃんの、一番の心の支えだった男は、もうどこさも存在しねぇよ?』


 口元に弧を描いて、翔太は哂う。


『そんでもさっちゃんは、まだ生きたいと思っているの?』


「――え…」


 突然の胸に突き刺さるような翔太の問いかけに、早苗は息を飲んだ。


『愛した婚約者は犯罪者で。家は焼かれて。お父さんは生死の境を彷徨ってて。…さっちゃんが生きることば望んでいても、戻った先さあんのは、そだな苦しい現実だよ』


「…あ…」


 そこで早苗は思い出す。自分の今の絶望的な状況を。

 少年の姿だった啓介を見る直前、天井が落ちてきて衝撃で投げ出されて…それから…


「私は…火事で…」


『死んでは、いねぇよ…まだ、ね』


 そう言って翔太は目を細め、どこか芝居がかった仕草で、真っ白い空間へ片手突きだした。


『ここはあの世とこの世の境目。そしてさっちゃんは、まだ、生きるも死ぬも選べる立場にある。…んだから、俺はさっちゃんば、案内しに来てけたんだよ』


「…案、内?」


『そう。俺がさっちゃんば、案内してけるよ…さっちゃんが、望む道へ』


 小首を傾げながら告げられたそれは、酷く胡散臭い筈の言葉であったが、なぜか早苗には翔太が嘘を言っていないことが確信出来た。

 翔太は嘘を言っていない――けれど、同時に早苗が死を選ぶことを望んでいることも分かる。

 早苗が心から生を望めば正しく道を示してくれるが、少しでも心に隙があれば、そこに付け込んで死の道へ誘うのだろう。駅のホームで、早苗を誘惑した、あの時のように。


「…私が、死の道を選ぶわけ、ないでしょう?…」


『本当に?本当に、死にたくねぇと、そう思ってんだか?』


 虚勢を張って睨み付けても、翔太は早苗の心を見透かしたように言葉を紡ぐ。


『さっちゃんが、生きて帰った先さ待ってんのは、きっと死ぬことよりも辛い地獄だよ…十年前と違って、今回はれっきとした事件だから、さぞかしマスコミも騒ぐべな…被害者の筈なのに、私生活が晒されたうえに、あることないこと書きたてらって…周りの人間の好奇の的にさって…』


「…っ」


『そんでも、誰もさっちゃんば守ってける人はいねぇんだ…さっちゃんは、一人でそんな苛酷な現実と闘わねといけねぇんだ』


「…やめて…」


『一人ぼっちで、皆から傷つけらって、ぼろぼろになって、自分ば責めて、世界ば呪って…最後には、』


「やめてけてよぉぉ!!」


 いくら耳を塞いでも、まるで心に直接話しかけてくるかのように、翔太の声ははっきりと早苗の耳に届いた。この空間では、現実における物理的な問題は全て意味を成さないかもしれない。

 早苗は翔太が語った未来に、体を震わせて脅えた。

 マスコミや周囲の人間の視線に追いつめられて、一人でボロボロになって行く自分の姿を、早苗はありありと想像出来た。そしてその末に、死を選択する自分の姿も。


『ねぇ、さっちゃん。今の話を聞いてもまだ、さっちゃんは生きてぇって言うの?』


「私は…私は…」


『――もう、いいんじゃねぇかな?』


 翔太は包み込む様な柔らかい笑みを浮かべながら、そっと早苗の頭を撫でた。


『さっちゃんは、頑張った。十分頑張ったっけよ。頑張って生きてたっけ。…んだから、さ。もう休んでもいいんでねぇの?』


「休、む…」


『んだ…ゆっくり休んでいいんだず。何もかも忘って、辛いことから解放さって、ゆっくり休めばいーべした。さっちゃんはこだい頑張ってきたんだから、その権利はあるよ。――俺が、連れてってける。さっちゃんが、うんって言いさえすれば、俺がさっちゃんば、安息の地さ連れてってけっから』


 安息の地――それが、すなわちあの世の意味だということは容易に推測出来た。翔太が甘い言葉で、早苗を死へ誘おうとしていることも分かっていた。

 理解している筈なのに、早苗の心は酷く揺さぶられた。

 疲れていた。苦しみの連続ばかりの生に。

 啓介が現れて、その苦しみから解放される光が差し込んだと思っていたのに、その希望の光はもう失われてしまった。

 生きて帰った先に待ち受けている、一層苛酷な現実。

 本当に、そんな辛い生を生きる意味などあるのだろうか。もういい加減に解放されてもいいのではないだろうか。


 早苗の心が、死の誘惑に染まりかけた時、不意に啓介の声と重なって、別の声が聞こえて来た。


『さっちゃん…さっちゃん…さっちゃん…』


『…早苗…早苗…早苗…』


「っお母ちゃん…!?」


 それは必死に早苗を呼ぶ、母親の声だった。

 翔太は、母親の声に我に返った早苗の姿に小さく舌打ちをすると、ゆっくり声の方向を指差した。


『おばさんの声がする、あっちの方向。…あっちさ行けば、さっちゃんは生きられる』


 そして差した指を胸元に持って行くと、立てた指を三本に増やした。


『さっちゃんの選択肢は、三つある…おばさんの声がする方向さ行って、苦痛に満ちた生の道を選ぶか。俺と一緒に、安息の地さ行くか。…それとも、あの男と一緒に、ここさ留まるか』


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