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死人の花嫁  作者: 黒井雛
29/33

二十九

 向けられた啓介の目は、白目が血走り焦点が合っていなかった。

 声は抑揚がなく、奇妙に間延びしている。


「…っ」


 どこまでも狂気に満ちたその姿に、早苗は世界で一番憎い女の幻影を見た。


『…許されるわけねぇんだ…重婚あで…お前はもう、とっくに嫁いでるんだから、許されるわけねぇんだ…もう一回結婚するなんて…』


「――触らないでっ!!」


 気が付けば早苗は、全ての力を振り絞って勢いよく啓介を突きとばしていた。

 体勢を崩しながら唖然と目を見開く啓介から、早苗は後ずさる。


「…気持ち、悪ぃ」


 気持ち悪い。悍ましい。吐き気がする。

 早苗の頭の中は、ただ啓介に対する罵倒でいっぱいになる。

 その言葉から齎される結果等考えることもできないまま、早苗は衝動的に叫んでいた。


「気持ち悪ぃんだず!!これ以上、私さ近づかねーでけて!!」


 もし早苗が、最初から一人ぼっちだったら、啓介の言葉に頷いたかもしれない。あるいは、早苗が孤独になった原因がただ両親のみにあったなら、例え十年後にその関係が改善したしたとしても、それでも最初に孤独を癒やしてくれた啓介を選んだだろう。それくらい、早苗にとって、啓介の存在は大きくなっている。

 けれども、早苗の孤独の根本は、優子の息子に対する歪んだ愛情にあった。優子があれほど異常のまでの翔太に執着が、早苗と早苗の家族を追いつめ、不幸に追いやった。

 啓介の自分に対する異常な愛情が、優子のそれと重なった時、早苗の脳裏には十年間の孤独で辛い日々がフラッシュバックした。


 寂寥が、悔しさが、惨めさが、涙が、罪悪感が、憎悪が、憤怒が、


 全て昨日のことのように、ありありと早苗の胸の中に蘇ってきた。

 受け入れられるはずがない。受け入れたくない。

 人を愛するが故の狂気が、幸せだった早苗の日々を滅茶苦茶に壊した。

 本当にその感情を向けるべき相手は優子だったのかもしれないが、膨れ上がる拒絶の感情に我を忘れた早苗には、最早関係なくなっていた。


「……さっちゃんも、俺を、捨てるの?」


 そしてそんな早苗の拒絶は、啓介の心を決定的に破壊した。


「…ぐっ!!」


 体勢を持ち直した啓介が、今度は早苗を突きとばすと、畳の上に叩きつけられて呻く早苗の上に馬乗りになった。

 頭を打って一瞬昏倒しかけた早苗が我に返った時、啓介の手が早苗の首元に伸びた。


「…あ…ぐ…」


「さっちゃんも、俺を捨てるの?お母さんみたいの俺を置いて行くの?俺を要らない子だって、そうやって拒絶するの?俺を愛してくれないの?」


 虚ろな表情で早口に捲し立てながら、啓介は早苗の首を折らんばかりの力で締め上げて来た。


「いやだいやだいやだいやだいやだ。さっちゃんは、俺の、俺だけの、なんだ。やっと見つけた、俺だけのなんだ。誰にもあげない。どこにも行かせない。ぜったいに」


 啓介の口調はいつの間にか、駄々をこねる子どものような舌ったらずなものに変わっていた。

 無表情のままに見開かれた焦点が合わない目からは、滝のように涙が零れ落ちている。

 それは早苗が初めて見る啓介の涙だったが、今の早苗にはそんなことを考える余裕などなかった。

 ぱくぱくと口を動かして酸欠に喘ぎながら、必死に啓介の手から逃れようと暴れるが、啓介の下から逃れることは出来ず、締め付ける手は増々強くなる一方だった。

 目からは生理的な涙が零れ、開いた口の端からはだらだらと唾液が流れた。

 もがき暴れる手足が、徐々に力を無くして痙攣しだし、重力に従い畳に近づいていく。この手足が畳の上に投げ出された時、自分は死ぬんだと、どこか冷静な部分で思った。

 意識が薄くなり、視界が白濁していく。

 暴れる気力がなくなりつつある早苗の姿に安堵したのか、啓介の目に僅かに光が戻った。

 もしかしたら、我に返って首を絞めるのを止めてくれるかもしれない。そんな期待が一瞬過ぎるが、すぐさま打ち砕かれた。


「…愛してるよ。さっちゃん。――もうすぐ、俺だけのものだね」


 首の締め付けが緩まることもなく、額に落ちてくる柔らかい感触。

 それは、親が子どもに落とす就寝前の口づけに似ていた。

 霞みがかった視界に映った啓介の顔は、幸せそうに笑っていた。

 絶望が、早苗を襲った。


(…もう、駄目だ)


 早苗が意識を消失しかけたその瞬間、不意に啓介の手の締め付けがなくなった。

 何が起こったのか等、考える余裕は無かった。

 早苗は最後の力を振り絞って啓介の下から這い出すと、咽こみながら必死に酸素を求めた。

 心臓が煩いくらいになって、全身から冷たい汗が噴き出る。

 それでも、早苗は生きていた。まだ生きることが、出来る。

 けれども生の歓びに浸っている余裕などない。死神の鎌は、未だ早苗の首元に突きつけられたままだ。

 そして酸素を取り戻した早苗は振り返った先にあったのは、とんでもない光景だった。


「お前にあで…お前にあで、わたさねぇ…その娘を殺すのは、私だ…!!」


 そう言って叫び声をあげながら、倒れた啓介の背中にナイフを突き立てているのは、死んだとばかり思っていた血まみれの優子だった。

 その顔は悪鬼のように怒りで歪んでいた。


「私が、殺すんだ…私が殺して、翔太の嫁さしてけるんだ…邪魔ばすんでねぇっ!!」


 しかし再び振り上げた優子の手は、今度は啓介の手によって阻まれる。


「…邪魔はどっちだよ…死にぞこない」


 形勢はあっという間に逆転した。

 ナイフを奪った啓介が、今度は優子に向かって振り上げた。


「もう少しで…もう少しでさっちゃんは俺だけのものだったのに…」


「そだなこと、絶対させねぇ…!!」


「…っ」


 しかし、啓介がそのナイフを刺すこともまた、敵わなかった。

 優子が勢いよく啓介に飛び掛かって、その手に噛みついたからだった。

 啓介の手から、ナイフが落ちて畳の上を転がる。


「さっちゃんは、翔太の嫁だ。翔太だけの嫁だ。私が殺してちゃんと翔太のとこに送ってけんだ!!」


「ふざけるな…さっちゃんは俺のだ…俺だけ物だよっ!!死人だろうが何だろうと、絶対に渡さない…っ!!」


 それは悪夢のような光景だった。

 揉みあって暴れる二人の最終目的は、どちらも早苗を殺すことにある。

 今は互いに互いを殺すことで躍起になっているが、どちらかが倒れた時、次の矛先は早苗に向く。


(今のうちに逃げなくては)


 そう思うのに、すっかり力が抜けた体は上手く言うことを聞いてはくれなかった。

 立ち上がれないまま、必死に逃げようと手を使って早苗が後ずさる間に、決着はついてしまったらしい。

 充満しつつある煙でハッキリと姿は見えないが、動かなくなった方を置いて立ち上がったどちらかが、早苗の方へ近づいて来るのが分かった。

 その手には、何か光る物が握られていた。――ナイフだ。

 今度こそもう駄目だと早苗が目を瞑った瞬間、めきりと何かが割れるような音が頭上から聞こえてきた。

 頭上を仰ぎ見た早苗の視線の先にあったのは、燃え焦げて崩れ落ちる天井。

 それは真っ直ぐに、早苗と起き上がった誰かの元へ落ちてきた。


 激しい衝撃音と、一層強く燃えあがる炎。ガラスが割れた音。投げ出され、叩きつけられる体。


 そこからは、もう覚えていない。




『…さん…あさん…』


 声が、聞こえる。


『…おかあさん…おかあさん…おかあさん…』


 泣いている、子どもの声だ。


 徐々にはっきりしていく意識と、鮮明になっていく視界。

 遠くに、膝を抱えて泣いている、小さな男の子の姿が見えた。


『…おかあさん…どうして、おれを置いて行ったの…おれがわるいこだから?泣いちゃいけないって、いたいって言っちゃいけないって言われてたのに、がまんできなかったから?…』


 初めてみる筈のその男の子を、早苗は知っている気がした。


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