二十九
向けられた啓介の目は、白目が血走り焦点が合っていなかった。
声は抑揚がなく、奇妙に間延びしている。
「…っ」
どこまでも狂気に満ちたその姿に、早苗は世界で一番憎い女の幻影を見た。
『…許されるわけねぇんだ…重婚あで…お前はもう、とっくに嫁いでるんだから、許されるわけねぇんだ…もう一回結婚するなんて…』
「――触らないでっ!!」
気が付けば早苗は、全ての力を振り絞って勢いよく啓介を突きとばしていた。
体勢を崩しながら唖然と目を見開く啓介から、早苗は後ずさる。
「…気持ち、悪ぃ」
気持ち悪い。悍ましい。吐き気がする。
早苗の頭の中は、ただ啓介に対する罵倒でいっぱいになる。
その言葉から齎される結果等考えることもできないまま、早苗は衝動的に叫んでいた。
「気持ち悪ぃんだず!!これ以上、私さ近づかねーでけて!!」
もし早苗が、最初から一人ぼっちだったら、啓介の言葉に頷いたかもしれない。あるいは、早苗が孤独になった原因がただ両親のみにあったなら、例え十年後にその関係が改善したしたとしても、それでも最初に孤独を癒やしてくれた啓介を選んだだろう。それくらい、早苗にとって、啓介の存在は大きくなっている。
けれども、早苗の孤独の根本は、優子の息子に対する歪んだ愛情にあった。優子があれほど異常のまでの翔太に執着が、早苗と早苗の家族を追いつめ、不幸に追いやった。
啓介の自分に対する異常な愛情が、優子のそれと重なった時、早苗の脳裏には十年間の孤独で辛い日々がフラッシュバックした。
寂寥が、悔しさが、惨めさが、涙が、罪悪感が、憎悪が、憤怒が、
全て昨日のことのように、ありありと早苗の胸の中に蘇ってきた。
受け入れられるはずがない。受け入れたくない。
人を愛するが故の狂気が、幸せだった早苗の日々を滅茶苦茶に壊した。
本当にその感情を向けるべき相手は優子だったのかもしれないが、膨れ上がる拒絶の感情に我を忘れた早苗には、最早関係なくなっていた。
「……さっちゃんも、俺を、捨てるの?」
そしてそんな早苗の拒絶は、啓介の心を決定的に破壊した。
「…ぐっ!!」
体勢を持ち直した啓介が、今度は早苗を突きとばすと、畳の上に叩きつけられて呻く早苗の上に馬乗りになった。
頭を打って一瞬昏倒しかけた早苗が我に返った時、啓介の手が早苗の首元に伸びた。
「…あ…ぐ…」
「さっちゃんも、俺を捨てるの?お母さんみたいの俺を置いて行くの?俺を要らない子だって、そうやって拒絶するの?俺を愛してくれないの?」
虚ろな表情で早口に捲し立てながら、啓介は早苗の首を折らんばかりの力で締め上げて来た。
「いやだいやだいやだいやだいやだ。さっちゃんは、俺の、俺だけの、なんだ。やっと見つけた、俺だけのなんだ。誰にもあげない。どこにも行かせない。ぜったいに」
啓介の口調はいつの間にか、駄々をこねる子どものような舌ったらずなものに変わっていた。
無表情のままに見開かれた焦点が合わない目からは、滝のように涙が零れ落ちている。
それは早苗が初めて見る啓介の涙だったが、今の早苗にはそんなことを考える余裕などなかった。
ぱくぱくと口を動かして酸欠に喘ぎながら、必死に啓介の手から逃れようと暴れるが、啓介の下から逃れることは出来ず、締め付ける手は増々強くなる一方だった。
目からは生理的な涙が零れ、開いた口の端からはだらだらと唾液が流れた。
もがき暴れる手足が、徐々に力を無くして痙攣しだし、重力に従い畳に近づいていく。この手足が畳の上に投げ出された時、自分は死ぬんだと、どこか冷静な部分で思った。
意識が薄くなり、視界が白濁していく。
暴れる気力がなくなりつつある早苗の姿に安堵したのか、啓介の目に僅かに光が戻った。
もしかしたら、我に返って首を絞めるのを止めてくれるかもしれない。そんな期待が一瞬過ぎるが、すぐさま打ち砕かれた。
「…愛してるよ。さっちゃん。――もうすぐ、俺だけのものだね」
首の締め付けが緩まることもなく、額に落ちてくる柔らかい感触。
それは、親が子どもに落とす就寝前の口づけに似ていた。
霞みがかった視界に映った啓介の顔は、幸せそうに笑っていた。
絶望が、早苗を襲った。
(…もう、駄目だ)
早苗が意識を消失しかけたその瞬間、不意に啓介の手の締め付けがなくなった。
何が起こったのか等、考える余裕は無かった。
早苗は最後の力を振り絞って啓介の下から這い出すと、咽こみながら必死に酸素を求めた。
心臓が煩いくらいになって、全身から冷たい汗が噴き出る。
それでも、早苗は生きていた。まだ生きることが、出来る。
けれども生の歓びに浸っている余裕などない。死神の鎌は、未だ早苗の首元に突きつけられたままだ。
そして酸素を取り戻した早苗は振り返った先にあったのは、とんでもない光景だった。
「お前にあで…お前にあで、わたさねぇ…その娘を殺すのは、私だ…!!」
そう言って叫び声をあげながら、倒れた啓介の背中にナイフを突き立てているのは、死んだとばかり思っていた血まみれの優子だった。
その顔は悪鬼のように怒りで歪んでいた。
「私が、殺すんだ…私が殺して、翔太の嫁さしてけるんだ…邪魔ばすんでねぇっ!!」
しかし再び振り上げた優子の手は、今度は啓介の手によって阻まれる。
「…邪魔はどっちだよ…死にぞこない」
形勢はあっという間に逆転した。
ナイフを奪った啓介が、今度は優子に向かって振り上げた。
「もう少しで…もう少しでさっちゃんは俺だけのものだったのに…」
「そだなこと、絶対させねぇ…!!」
「…っ」
しかし、啓介がそのナイフを刺すこともまた、敵わなかった。
優子が勢いよく啓介に飛び掛かって、その手に噛みついたからだった。
啓介の手から、ナイフが落ちて畳の上を転がる。
「さっちゃんは、翔太の嫁だ。翔太だけの嫁だ。私が殺してちゃんと翔太のとこに送ってけんだ!!」
「ふざけるな…さっちゃんは俺のだ…俺だけ物だよっ!!死人だろうが何だろうと、絶対に渡さない…っ!!」
それは悪夢のような光景だった。
揉みあって暴れる二人の最終目的は、どちらも早苗を殺すことにある。
今は互いに互いを殺すことで躍起になっているが、どちらかが倒れた時、次の矛先は早苗に向く。
(今のうちに逃げなくては)
そう思うのに、すっかり力が抜けた体は上手く言うことを聞いてはくれなかった。
立ち上がれないまま、必死に逃げようと手を使って早苗が後ずさる間に、決着はついてしまったらしい。
充満しつつある煙でハッキリと姿は見えないが、動かなくなった方を置いて立ち上がったどちらかが、早苗の方へ近づいて来るのが分かった。
その手には、何か光る物が握られていた。――ナイフだ。
今度こそもう駄目だと早苗が目を瞑った瞬間、めきりと何かが割れるような音が頭上から聞こえてきた。
頭上を仰ぎ見た早苗の視線の先にあったのは、燃え焦げて崩れ落ちる天井。
それは真っ直ぐに、早苗と起き上がった誰かの元へ落ちてきた。
激しい衝撃音と、一層強く燃えあがる炎。ガラスが割れた音。投げ出され、叩きつけられる体。
そこからは、もう覚えていない。
『…さん…あさん…』
声が、聞こえる。
『…おかあさん…おかあさん…おかあさん…』
泣いている、子どもの声だ。
徐々にはっきりしていく意識と、鮮明になっていく視界。
遠くに、膝を抱えて泣いている、小さな男の子の姿が見えた。
『…おかあさん…どうして、おれを置いて行ったの…おれがわるいこだから?泣いちゃいけないって、いたいって言っちゃいけないって言われてたのに、がまんできなかったから?…』
初めてみる筈のその男の子を、早苗は知っている気がした。




