二十八
※虐待の表現があります
「変わっ、た…?」
「変わったよ…故郷に帰ってきて、さっちゃんは一人ぼっちで、無くなった」
背中に回された啓介の指先が肉を抉らんばかりに食い込み、早苗は思わず痛みに顔を歪めて身じろきした。しかしそんな早苗の反応を意に介した様子も無く、啓介の拘束は増々強くなっていく。
「俺は、一人ぼっちのさっちゃんが好きだったのに…一人ぼっちで、頼れる存在が俺しかいないさっちゃんが好きだったのに…俺と、同じ、一人ぼっちのさ」
啓介の言葉には、親に置いてかれた子どもが途方にくれているような、悲痛さが滲んでいて、早苗は息を飲んだ。
『…あなた、私と似てるね』
『――すごく、淋しそう』
初めて会った時、啓介に向かってそう口にしたのは早苗だった。
実際、啓介と早苗は同じ孤独を抱く、同胞だった。同じ傷を背負い、互いに傷を舐めあいながら、碌な友人もいない東京で二人ぼっちで生きていた。
互いしか、いなかった。互いしかいらなかった。
しかし早苗は郷里に帰ったことで、早苗は再び家族の絆を得ることが出来た。家族の愛を知り、大切な物が増えた。
嬉しかった。そして啓介もまた、そのことを我が事のように喜んでくれているのだと思っていた。
自分が孤独で無くなったことが、こんなにも啓介を思いつめさせていたなんて、少しも気づかなかった。
「…でもね。俺だって最初から大それたことを考えてたわけじゃない。だけど、そこのおばさんが嫌がらせで入れた切り抜きの話を聞いて、思ったんだ。これに賭けてみようって」
「…賭、け?」
「俺がリュウ君を殺した後に、さっちゃんが、俺と自分自身のことだけを考えて東京に帰ることを選ぶなら、それでいい。…でも、両親の安全を考えて、ここに留まることを選ぶなら――」
消シテシマオウト思ッタンダヨ。サッチャンヲ縛ル物ヲ全テ。
その言葉は無機質な機械音のように、早苗の脳裏に響いた。
頭の中が真っ白になり、言葉を発するつもりもないのにあ、あ、と意味がない単音が震える唇の間から漏れる。
そんな早苗を真っ直ぐ見ながら、啓介は寂しそうに微笑んだ。
「――そして俺は、賭けに負けたんだ」
「…ああああああああああああ――」
早苗は叫んだ。叫ぶ以外の何も出来なかった。
(私が…私がここにいることを選んだせいで…みんなが)
啓介がこんな風に変貌したのも。父親が瀕死の重体を負ったのも、全てが早苗の選択の結果だった。全てが早苗のせいで…十年前の過去の自分ではなく、今現在の早苗のせいで起ったことだった。
その事実は、予想していた以上に、激しい衝撃を早苗に与えた。
早苗の目からは次々に涙が零れ、視界が曇る。
燃えあがる炎の輪郭も、啓介の表情も、全ては涙に滲んで霞みがかって見えた。
啓介はそんな早苗を慰めるかのように、そっと背中を撫でた。
その手がこんな状況にも関わらず、あまりにいつも通りな啓介の姿に、早苗は一層混乱する。
条件反射のように、その温かい手に縋りたくなってしまっている自分自身に気が付き、早苗はゾッとした。
この手の持ち主こそが、リュウを殺し、父親を傷つけた張本人であるというのに。
「…私は…私は…」
「うん」
「…私は…私と啓介が結婚すれば、私のお父さんとお母さんは、啓介のお父さんとお母さんにもなると思ってて…だから…啓介も私の決断を受け入れてくれると…」
言い訳のように紡いだ言葉と共に、早苗の脳裏に、最初に故郷に帰って時の夜の会話が過ぎる。
早苗はあの夜言った。早苗の両親は、結婚すれば啓介の両親にもなるのだと。そして早苗は妻となり、一番近い家族になって、そして子どもを産むのだと。啓介の家族は、そうやって増えていくのだと、そう言った。
そうやって家族を増やすことで、啓介を孤独から解放して、幸せにするつもりだと、早苗は自分の気持ちを精一杯伝えた。啓介もまた、そんな早苗の言葉に笑って、同意してくれていたのに。
「うん…でも、俺はそんなの、要らなかったんだ」
啓介はあの時、「二人一緒に幸せになろう」と言った同じ口で、同じ声で、早苗の言葉を否定する。
「俺はね。そんなの要らない。両親なんていう、どう接すればいいのかの想像もつかない家族、欲しいとも思わない。俺には最初からいなかったも同然の存在だから。この歳でいきなり与えられたところで、困るだけだ。…さっちゃんの関心を、両親以上に俺から奪うかもしれない子どもなんて、もっと要らない。例え血を分けた存在でも、俺がその子を愛せるとも思えない。だって俺は、親が子供に向ける愛情を知らないから。――他の家族なんて、要らない。俺はさっちゃんだけが、欲しい。さっちゃんがいれば、他に誰も要らない」
啓介が早苗に向かって語るそれは、あまりに排他的で歪つな愛情だった。
互いの存在さえあれば、他には何も要らないという、酷く狭い世界の中での愛し方だ。
鳥籠の中で、外の世界を全て断絶して、ただ互いだけを見つめて時を重ねるような、そんな愛し方。
それは人によっては、耽美で清らかな至高の愛し方なのかもしれない。
けれども早苗には、それが酷く歪んだ悍ましい物にしか思えなかった。
「…そんなの、おかしいよ…間違っている…」
掠れた声で告げた言葉に、啓介はずっと浮かべていた微笑を消した。
「間違っている?…じゃあ、教えてよ。正しい愛って、何?」
一切の感情を感じさせない能面のような無表情で早苗を見据えながら、啓介は抑揚がない声色で早苗に問いかける。
「俺の血縁上の母親は、俺を反吐が出るまで殴り続けるのも、血で背中が真っ赤になるくらいまでナイフで切り刻むのも、押さえつけた腕に火が付いた煙草を押し付けるのも、全部愛情だってそう言ったよ?愛しているから、これは躾なんだって。全部お前が悪い子だからいけないんだって、そう言って笑ったよ?…俺が知る親が子どもに向ける愛情は、それだけだよ?これは、正しいの?」
「…っ」
啓介の告げた悲惨な虐待の実態に、早苗は思わず言葉に詰まった。
啓介が過去に虐待を受けていたことは察していたが、実際にその内容を聞くと余りの痛ましさに、胸が締め付けられる。
「…そんなの、間違っている…愛じゃ、ない…そんなの正しく、ないよ」
「…さっちゃんにとってはそうかもしれないけど、あの人とっては違ってたかもしれない。あの人は本当に正しいと思ってやっていたのかもしれない…それならば、あの人にとって俺を虐待することが正しい愛情だったともいえるんじゃない?」
それは違うと言いたかった。
けれども、ならば何が正しい愛かと言われたら、咄嗟に応えられない自分がいた。
何が間違っているかは、判断できる。けれども正しい愛の定義を口にすることは出来ない。
唇を噛みしめて黙る早苗に、啓介は再び口元を緩めた。
「くだらないよ…何が正しいか、間違っているかなんて話。だってそんなの、人によって違うんだ。同じ行為を愛だと言う人もいれば、違うという人もいる。個人の価値観によって異なる定義に、正しいも間違っているもないでしょう?…だから俺は、誰が間違っていると言っても、俺がしたい愛し方を貫くよ」
そう言って、啓介は早苗の顎を取って、顔を覗き込んだ。
薄茶色の啓介の瞳に、脅える早苗の顔が映し出される。
「俺はさっちゃんが、好きだよ。さっちゃんだけを愛している。もしさっちゃんが俺を…俺だけを選んでくれるなら、俺はどんな事をしてでもさっちゃんを幸せにする。…だから、さっちゃん、俺を選んでよ。郷里も両親も全てを捨てて、俺に着いて来てよ。――俺以外要らないって、そう言ってよ」




