二十六
明日になったら、啓介が寝ているうちにこっそり家を抜け出して一人で優子に会いに行こう。
優子が何のために、このような恐ろしい嫌がらせを繰り返しているのか明確な理由は分からないが、それでも最終的な目的はきっと早苗の命だろうという確信はあった。ならば、家族を巻き込まずに、自分一人で優子に立ち向かおう。
もし、例えその結果自分の命を失うことになったとしても。
恐怖がないと言えば、嘘になる。明日を思えば、怖くて体が震える。けれども、それでも早苗は逃げずに優子に立ち向かうことに決めた。一緒の部屋に寝てしまえば、啓介に何もかもを打ち明けて縋ってしまいそうになるから、今もこうして部屋で一人で寝ている。
十年前のように逃げて、一生後悔を背負って生きていくのは、嫌だから。愛する者達を、自身で守ると決めたから。
早苗は涙を拭って小さく微笑んだ。怖いのに、それでもどこか穏やかな気持ちだった。
寝れば、きっとまたいつもの悪夢を見る。自身の死を誘う翔太の夢を。実際に翔太の霊が存在するかも、それが早苗以外の家族に害を与えているかもわからない。全ては早苗の妄想の結果かもしれない。
だけど、少しでも早苗が愛する者達を翔太が傷つける可能性があるのなら、翔太にだって立ち向かう決心はついている。――今日の、夢の中で。
早苗は大きく息を吸いこむと、覚悟を決めて目を瞑った。そしてその時、ふと、昼間ポケットの中に入れっぱなしだったゴミの存在を思い出した。
早苗は眠るのを中断して、履きっぱなしだったズボンのポケットを探った。
「…これは…絆創膏?」
それは、くるりと輪状に貼りあわせられた使用済みの絆創膏だった。使用者の怪我が酷かったのか、元は茶色い筈のその色は、染みこんだ血が変色したようにどす黒い色をしている。
何で、こんなものがリュウの犬小屋の中に落ちていたのだろうか。嵐のせいで紛れ込んだのだろうか。
早苗はどこか腑に落ちないものを感じながらも、それをゴミ箱の中へ投げ捨てた。
なんてことない。…ただの、ゴミだ。気にすることはない。
早苗はさっさと絆創膏のことを頭から消し去り、再び布団に包まった。
張りつめている精神状態とは裏腹に、すぐにあらがい難い眠気が早苗を襲い、瞬く間に早苗は眠りの淵を沈んでいった。
すっかり人気が無くなった、深夜。
優子は身を隠していた物陰から、姿を現した。
待っていた。ずっとこの時を。十年ちかくもの間、ずっと待ち続けていた。
優子は周囲に誰もいないのを確かめると、ポリタンクの中に詰めていた液体を、目的の家の周辺にそっと撒いた。普段なら不愉快でしかない、鼻に着くオイルの臭いが、今の優子にはまるでアロマのように心を安らがせる香りに感じた。
ずっと物陰から見張っていたから、家の中に目的の相手がちゃんといるのも分かっている。
そこに母親の陰がなかったことに、優子は少しだけ安堵の気持ちを感じていた。今さら巻き込むことに罪悪感など感じはしないが、それでも余計な被害は少しでも無い方がいいとは考えられるくらいには、まだ優子の理性は残っていた。けして好きだとは思わないが、それでも一応、何十年も付き合いがある相手であることには変わりない。ひとかけらの情くらいは優子にもある。
優子は玄関へと足を進めると、入り口の扉に背を向けるように振り返り、ライターで火をつけた乾いた紙を面へと投げ捨てた。火は瞬く間に撒いたガソリンに引火し、あっという間に家は火の海に包まれた。
燃える炎は優子に、過去の記憶を思い出させた。火葬場で、花を敷き詰めた棺桶の中で、炎に包まれていく最愛の息子の姿を。
本当はあの時、自身もまた一緒に燃えてしまいたかった。あのまま燃える棺桶の中に飛び込んで、翔太の遺体と一緒に燃やされて、混じりあった一つの遺灰になってしまいたかった。
けれども、最後まで優子を憎みながら死んだ翔太は、きっとそんなことは許してくれないだろうから、優子は湧き上がる衝動に耐えた。
それからずっと死んだように、生きてきた。息子の翔太が全てだった優子にとって、翔太がいない人生なぞ無意味で無価値なものだった。そんな人生を終わらせることに、僅かな躊躇いもない。
「翔太…今、お前の願いば叶えてける…叶えてけっから、今日こそお母ちゃんば許してけてな…」
優子は炎を見ながらひとり呟くと、事前に郵便受けから拝借した鍵から複製したスペアキーで、玄関を開いた。
その手には、一振りのナイフが握られていた。
『さっちゃん…さっちゃん…さっちゃん…』
声が、する。
自分のすぐ近くから、嬉しげに早苗の名を呼ぶ声が。
『今日でようやく、さっちゃんは俺の物だ…』
花婿装束を身に纏った手が、ふわりと早苗を包む。
気がつくと目の前には、早苗の背に手を回しながら愛おしげに眼を細めている翔太の姿があった。
『俺のものだ…俺の、花嫁だ』
翔太は歓喜に満ち溢れた声で、早苗に囁く。
『大好き…大好きだよ、さっちゃん…愛している』
早苗は恐怖で固まる口を動かして、きつい眼差しで翔太を睨み付けた。
「…私は、翔ちゃんば、嫌いだ」
怖い。本当は怖くて堪らない。この言葉が翔太を怒らせて、襲い掛かってきたらと思うと、すぐにでも言葉を撤退したい。
けれども、引くわけにはいかなかった。…それが、愛する人たちを守ることに繋がるなら。
「嫌いだ…私の気持ちをちっとも考えず、一方的に私を殺して花嫁にしようとする翔ちゃんあで、大っ嫌いだ…!!」
叫びながら早苗は、抱きしめるその手を振り払う。夢の中だからか、翔太の体はきちんと実態を持っていて触れることが出来た。
「殺したければ、殺せばいい…私一人を、今すぐ殺して連れていけばいいは…けれども私は、死んでも絶対に翔ちゃんの物にあで、ならない…!!翔ちゃんの花嫁あで、絶対ならねぇから…!!」
早苗の言葉に、翔太は傷ついたかのように目を見開いた。
そして振り払われた手を切なげに眺めてから、そっと息を吐いた。
『…さっちゃんが、そだいに俺を拒絶するのって、婚約者がいっから?』
「…っ啓介に、啓介に手を出したら絶対ゆるさねぇから…っ!!」
咄嗟に噛みついてから、早苗はすぐに後悔する。これでは翔太の問いに肯定したも同然ではないか。
もし翔太が嫉妬に来るって啓介に手を出したら、どうすればいい。それか、啓介を人質にとるようなことをすれば?
また啓介を巻き込んでしまう。そう思うと胸が酷く苦しくなった。
しかし、翔太から返ってきたのは予想外の言葉だった。
『…馬鹿だなぁ。さっちゃん。…あだな男に、騙さって』
「…え?」
『あいつは、さっちゃんが考えているような男でねぇのに』
(何を言っているの…?)
戸惑う早苗の様子に、翔太は肩を竦めて首を横に振った。
『信じられねって顔してんね…でも本当のことだよ。あだな男と、結婚したらさっちゃんは不幸になるよ』
「…っでたらめなこと、言わないで…!!」
翔太は嫉妬心から、根拠もなく啓介を中傷しているのだ。
そう思うのに、何故だか早苗の心は酷くざわめいた。
胸の奥に引っかかった棘のような何かが、早苗に翔太の言葉を心から否定させてくれない。
『…じゃあ、確かめてみる?』
翔太が口端を吊り上げて、にんまりと笑った。
生を感じさせない死人の瞳が、不気味な色を灯して爛々と光っていた。
『本当は、このままでいいって思ってたけど…このままさっちゃんを俺の嫁さんさしようと思ってたけど、さっちゃんがそだいあの男ば信じてるなら、いいよ。…目を、醒ましても』
「それって…どういう…」
『あの男はまだ茶の間にいるよ…目を醒まして、自分の目で確かめればいい。残酷な真実を』
次の瞬間、早苗は母のベッドの上で目を醒ました。
起きた瞬間、鼻孔に入る煙の臭い。
家で火事が起こっているのだと気が付くまで、時間はかからなかった。
「…啓介…っ!!」
慌てて部屋を飛び出して、燃える炎の間を駆け抜けた茶の間の扉を開いた。
扉を開いた途端、早苗の目に飛び込んで来たその光景は。
「…さっちゃん」
――血染めのナイフを握って、血まみれで横たわる優子を見下ろす、啓介の姿だった。




