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死人の花嫁  作者: 黒井雛
25/33

二十五

 早苗が別の部屋に寝ることを提案してから、急に啓介は押し黙った。

 反応を返さない啓介を怪訝に思いながらも、せっかく得ることが出来た沈黙を甘受したい早苗は、敢えてそのことに突っ込まなかった。正直、今の早苗に啓介の気持ちを思いやれる余裕など、全くなかった。

 そのまま互いに黙りこくったまま、家に到着した。家の周辺に異変がないことを確かめて、ホッと安堵の息を吐く。

 開いた郵便入れの中にも、先日のような嫌がらせの紙が入っていることはなく、しまい忘れた夕刊が挿さっているだけだった。

 郵便入れの中には、以前は入れっぱなしだった鍵はもう置いていない。リュウが死んだ時から、用心の為にその予備の鍵は必ず持ち歩くようにした。早苗は夕刊を抜くと、鍵を開けて室内へと入った。

 両親の気配がない暗い室内は、がらんとしてどこか不気味で、まるで別の家のように思えた。早苗はうちに湧き上がってくる恐怖を打ち消すように必要以上に電気をつけると、茶の間へと向かった。

 畳んで隅に置いたままの客用布団から、掛布団と枕を引っ張りだす。そして少し考えた後、毛布も持っていくことにした。春とはいえ、北国の夜はまだまだ寒い。

 そんな早苗の様子を、啓介は茶の間の入り口で複雑そうな表情で見つめていた。


「…本当に、別の部屋で寝るの?」


「うん…リビングのソファで寝よっかな」


 啓介は何かを言うように数回口を動かした後、そっと目を伏せた。


「――そう」


 どうして。別に俺の怪我なんか、気にしなくていいのに。


 啓介が本当はそう言おうとしたのが分かった。

 そう言おうとしながらも、本当は早苗が別々の部屋で寝たいと言った理由が啓介の怪我の為でないと気付いていることも、分かった。


「…ありがとう」


 分かっていて敢えて何も言わないでくれる啓介に、聞こえるか聞こえないかの声で感謝を述べて、脇をすり抜けた。

 啓介の視線が縋るように向けられているのを背中に感じていたが、早苗は振り返らなかった。



 リビングに向かって、そう言えばまだ手つかずの夕飯がテーブルの上に出しっぱなしだったと、気が付く。夕飯は何も食べていないが、今の気分じゃとても何かを食べる気になんかならない。持ってきた布団をソファの上に置くと、手つかずの冷め切った夕食にラップを掛けて、冷蔵庫にしまって簡単に片づけた。

 全てをしまい終えて、ソファに寝転んだ。リビングのソファは3人掛け用で、早苗の身長ではしっかり背中を伸ばすと足が少し飛び出る。先程まで出しっぱなしだった夕食の残り香も鼻についた。それでも三十分くらいそのままでいたが、とても落ち着いて眠れそうにないと、早苗は畳んだ布団をそのままに、リビングを後にした。

 向かう先は、決めていた。早苗は扉の前で少し躊躇した後、ゆっくりとドアノブをひねった。中には誰もいないことなど分かり切っているのに、それでも悪戯をする子供の様な緊張感があった。

 部屋主が不在の部屋の電気をつけると、丁寧に整えられたベッドへ向かった。そのまま布団に顔を埋めるようにベッドの中に飛び込んだ。

 甘いシャンプーの香りと、どこか優しく懐かしい香りが、早苗を包み込む。


「…お母ちゃん」


 母親のベッドの香りは、母に抱きしめられて笑っていた、幼い頃の記憶を思い起こさせた。

 ただひたすら、無邪気に、ひたむきに、母親を慕っていた、あの頃を。

 ほろりと、早苗の頬に涙が伝った。

 そして脳裏に蘇ってくる、病院での母親の姿。母親が、泣きながら早苗に言った、あの言葉。

 早苗は小さく唸りながら、布団をぎゅうぎゅうに抱き締めながら、一層涙を溢れさせた。

 だけど、それは、けして悲しみから来る涙ではなかった。


『…ごめん…早苗…啓介さんと帰ってけろ…これ以上、私が、お前ば傷つける前に…』


「…お母、ちゃん…っ!!」


 早苗はあの時、嬉しかったのだ。母親が、自分自身の理不尽な糾弾から、早苗を守ろうとしてくれたことが、そんな状況でないと分かっていても、ただひたすら嬉しくて仕方なかったのだ。


 病院に行った時、早苗は母親から責め立てられる未来を確信していた。お前のせいだと、何で家に帰って来たのだと、理不尽に詰られる心の準備は出来ていた。そしてそれが仕方がないことだとも思っていた。

 早苗の中で、一番強い母親に関する印象は、十年前の疲れ果てノイローゼになった姿だ。あの時、責め立てられた言葉の数々は、一見一句違わず今でも鮮明に思い出せる。

 だからこそ、実家に帰って来た当初、早苗は現在の母親の様子と、過去の母親に対する印象とのギャップに、どこかで戸惑っていた。愛されていなかったと思い続けた日々の反動のように、今母親から向けられる愛情を素直に受け入れようと思った矢先、自分が翔太の婚姻絵馬の相手にされた事実を突きつけられ、早苗の心は混乱した。


 自分は母親から愛されているのか。――それとも、本当は憎まれているのか。


 諦めたふりをして。自分は啓介がいるから、別に母親から愛されていなくても構わないと自分に言い聞かせて。敢えて考えないようにすることで、早苗は自分自身を守っていた。

 そうやって気持ちを誤魔化しながら、それでも本心では十年前に失った、母親の愛情を必死に求めていた。当然父親に対しても同様な部分はあったが、それでも過去の拒絶の大きさの分、よけいに母親に対する想いの方が激しかった。

 そして早苗は今日、胸の内にあり続けていた問いの答えが分かった気がした。


(お母ちゃんは…私をちゃんと愛してくれていた)


 母は、弱い人だ。どんな逆境にも耐えて、ひたすら娘を愛し抜くことなんか、きっと出来ない。今は受け入れてくれても、さらに苦しい状況になれば、今度こそ早苗のせいだと激しく責め立てるかもしれない。

 けれども、自身も結婚し母親になってもおかしくない年齢になったからこそ、分かる。何があっても、自分を殺して、子どもを愛し守り続ける母親――そんなものは、幻想だということを。ただ母親になったからと言って、人間はそうそう強くはなれはしないのだと、今の早苗ならば理解出来る。

 母親だって、人間だ。自分が一番可愛いと思ってしまったりもするだろうし、感情のままに理不尽に子どもを傷つけることだってあるだろう。それが、普通だ。

 もし、子どもの為に自分の全てを捨てられるなら…それは寧ろ狂気に近いのかもしれない。そんな人間、滅多にいない。…夢見がちな高校生だったあの頃から十年経って、早苗はようやくそのことに気が付いた。

 弱い母親が、十年前はその弱さが故に感情のままに早苗を責め立てた母親が、父が意識不明の重体というより深刻な状況であるにも関わらず、必死に湧き上がってくる感情を抑えようとしてくれた。十年前のことを心底後悔し、きっといっぱいいっぱいであっただろうあの状況で、それでも精一杯早苗の気持ちを思いやってくれた。――それだけで、早苗にはもう十分だった。

 胸の中で、べったりと貼りついていたどす黒い何かが、今剥がれて溶けていく。

 母親に対する憎悪が。悲哀が。渇望が。

 十年間という歳月をもってしても風化することがなかった想いが、昇華されていく。

 そしてそんな重苦しい気持ちがなくなっていくうちに、早苗の決心は固まって言った。

 寝返りを打って、仰向けで天井を見上げながら、早苗は一人呟く。


「…守って、みせるよ…」


 母親も、啓介も…そしてもし叶うことなら、意識が回復した父親も。

 早苗が今、愛しいと思う人々を、絶対に守って見せる。

 例え相手が優子だろうと――幽霊、だろうと。


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