二十四
集中治療室前の待合室で、早苗達はそれぞれ一言も発することもなく、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
電話が終わってすぐ、母親の車で中心部の大学病院に来てから、どれくらいの時間が経っただろう。なんだか酷く時間感覚が麻痺している。
未だ父は、意識不明の昏睡状態のまま、目を醒まさない。
父は、会社から帰る際に乗った車のブレーキが利かず、ガードレールに追突したらしい。不幸中の幸いか、周囲に他に車は無く、直接的な被害は父だけだったという。
まだはっきりしたことは分かっていないが、ブレーキに何らかの細工がされていた可能性があると、警察の人が言っていた。単なる事故ではなく、事件性が高い、と。
早苗は虚ろな眼差しでぼんやりと、病院の白い天井を眺めた。
ついに、ここまで来てしまったと、そう思った。父の事故は単なる嫌がらせの範疇を超えている。たまたま父は意識不明とはいえまだかろうじて生きてはいるが、一歩間違っていたら即死していた可能性もある。周りの車や人を巻き込んで、全く関係の無い人々の命まで奪っていたかもしれない。
最早、優子はそんな風に、他人の命を奪うことを躊躇しない段階まで来てしまっているのだ。そう思ったら、喉の奥が詰まったように息が苦しくなった。
父は、ちゃんと目を醒ますのだろうか。
ちゃんと目を醒ましたとしても、酷い障害を負ったりはしていないだろうか。
父をこんな目に遭わせる要因となった自分を、酷く恨んでいるのではないだろうか。
頭の中で、そんな問いがぐるぐると回っているが、いくら考えても答えなんか出るはずがない。早苗が出来ることは、ただ時間を待つことだけだ。
泣きだしたかった。子どものように大声で泣き喚いて、啓介に縋りたかった。大丈夫だよと、さっちゃんは悪くないよ、と優しく慰めて欲しかった。父が死ぬかもしれないという不安と、それが自分のせいだという罪悪感と、そして純粋にただ父を心配出来ない自分自身に対する嫌悪感で、早苗はいっぱいいっぱいであった。
けれども、早苗が啓介に縋ることは出来なかった。出来るはずがない。この待合室には母親もいるのだから。
早苗は離れた隅の席に座っている母親の方をひっそり盗み見た。母は祈るように両手絡めたまま俯いていて、早苗が見ていることには気づいていない。
父が病院に運ばれたという電話があっていこう、母親は早苗に対して必要最小限の言葉しか掛けて来ない。表情も最初に取り乱して以降は、感情が伝わらない無表情を崩さず、早苗には今母親が何を考えているのか分からなかった。何度も何度も何か口を開こうとしては、結局何も言えないまま口を閉じるという好意を、もう一体何度繰り返しただろう。
母は今、一体何を考えているのだろうか。何を思っているのだろうか。そう思った時、不意に母親が顔をあげて、真っ直ぐに視線が合わさった。
「…早苗」
「…ひゃい!!」
驚いて声が裏返り、変な声が出た。思わずハッとして口に手を当てるが、母親はそんな早苗の態度に少しも動じることもなく、静かに言葉を続けた。
「早苗…お父ちゃん、いつ目ぇ醒めっかわからねし、私の車乗っていったん啓介さんと家さ帰って休めは」
(――え)
言われた言葉の意味が解らず、早苗は一瞬呆然とする。
「家さ帰れって…なして…」
困惑を隠せない早苗に、母親は僅かに口端を上げて笑った。いや、正確に言うならば、それはちゃんと笑みになってはいないような僅かな変化だった。それでも、母は自分ではきっとちゃんと笑みを作ったつもりだったのだろう。
「こだな待合室で寝ても、疲れあで取れねぇべ。何か容態に変化があればすぐに電話で知らせっから、家で寝ろは。そんでまた、朝来っといい」
「そだなの…何かあってもすぐに駆けつけられねでないの…」
「…駆け付けたって、それで何か変わるわけでねし。いいべ。わざわざ三人してここさいねぇでも」
「でも…」
「――頼むから、一回家さ帰ってけて…!!」
なおも言い募ろうとした早苗に焦れるように、母は声を荒げた。そして声を荒げてから、すぐに母親の顔には後悔が浮かぶ。
母親は途端にくしゃりと顔を歪めると、唇を噛んで俯いた。
「早苗…お願いだから、啓介さんと二人で帰ってけろ…ここさ、いねぇでけろ…でないと…でないと、私は…」
「………」
「…でないと…お前がいっと私は、理不尽にお前ば責めそうになる…」
母親の目から、とうとう耐えきれなくなったかのように涙が零れ落ちた。
「お前は何にも、悪くね…分かってる…分かってんだ、そだなこと…それでも、分かっているはずなのに、さっきから何度もお前のせいだって口にしそうになっている…お前が来たからこだなことになってんだって、そう…それが、溜まらなく、苦しいんだ」
「お母、ちゃん…」
「…お前が家を出てから、何度も何度も何度も後悔した。なして、お前ば守ってやれなかったんだと。なして、辛いお前の状況も気づいてやれず、お前ば追い詰めるようなことばしてしまったんだって、何十回も何百回も自分ば責めた…母親が…」
言いかけた母親の言葉は、しゃくりあがった喉に邪魔され、すぐには出てこなかった。
何度も身を震わせてしゃくりあげた後、母親は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を早苗に向けた。
「…母お…やが、娘、ば守らんで…娘の…味方…になってやらんで…どう、するって…思った…思った、のに…!!思ったのに…私は、また繰り返しそうになってる…!!」
母親の悲痛の叫びは、早苗の胸に突き刺さった。
不安と罪悪感と憎悪と自己嫌悪と。様々な感情が入り混じった母親の表情は、早苗が初めてみた表情だった。
いや、もしかしたら、母親は十年前も同じような表情をしていたのかもしれない。ただあの頃の早苗が気付かなかっただけで。
どくん、と心臓が一際高く脈打った。
「…ごめん…早苗…啓介さんと帰ってけろ…これ以上、私が、お前ば傷つける前に…」
そう言って啜り泣く母親に、早苗は是という以外の何が出来ただろう。
早苗は今自身の胸に芽生えた感情を噛みしめるように、着ている服の心臓のあたりを握り込んだ。
「…さっちゃん、お義母さん、あんなこと言ってたけど、あんまり気にしないで」
母親から鍵を受け取った啓介は、念のため車に細工がないことを確認した後、怪我をしていない方の手でボンネットを閉じながらぽつりと言った。
「やっぱり色々なことがあって、お義母さんも混乱しているだろうし…その、多分きっと本心じゃないから…」
どうやら啓介は、母親と別れて以降押し黙っている早苗が、母親の言葉に酷く落ち込んでいると思ったらしい。
早苗は小さく笑いながら、ゆっくり首を横に振った。
「大丈夫。気にしてないから…」
「…お義父さんだって、きっとすぐ目を醒ますよ。絶対。俺が、保障する。絶対に大丈夫だから、元気だして…」
「………」
怪我人に運転をさせるわけにもいかないので、これくらい平気だと言い募る啓介から鍵を奪って、運転は早苗がすることにした。
助手席に乗り込んだ啓介は、運転する早苗の脇で、何度も早苗を安心させるような言葉を繰り返し口にした。
大丈夫。何も心配することはない。俺がいるから。
普段は感謝を覚える筈の優しい言葉の数々は、今の早苗にはどうしようもなく煩わしく感じられた。
今はただ、静かに一人で考えたかった。母のことも。父のことも。優子のことも。翔太のことも。そして勿論、啓介のことも。
全て、一人で考えなければいけない気がしたのだ。
「…ねぇ、啓介」
「啓介さ手怪我してるから、さ。安静の為、今日は別々に寝ようか?ほら、私が寝てる時にうっかり啓介のひび入ってるとこ押し潰しちゃったりしたら、怖いし。…私、寝相、けしてよくないしさ」




