二十三
間一髪だった。
啓介が一瞬、早苗の腕を引くのが送れていたら、今頃早苗の体は電車に轢かれて四散していただろう。
早苗は勢いのあまりホームに尻もちをついた啓介の腕の中で、電車が止まって扉が開く様を目にした。
血相を変えた係員が走り寄ってきて、啓介と何かを会話していたが、早苗の耳には聞こえなかった。
ただ自身の心臓の音と、背中ごしに伝わる啓介の心臓の音だけを感じていた。
(――私は、今、何をしようとした?)
自分がしでかしたことが信じられなかった。
「…さっちゃん、何でこんなこと…」
「違うの…」
違う。違う。違う。こんなのは、自分の意思じゃない。
「死のうだなんて、私、本気で思ってなんかないの…!!」
早苗は振り返って、必死に啓介に縋った。自分が死のうとしただなんて、啓介にだけは思われたくなかった。
早苗の右腕には、無数のリストカットの痕がある。高校の頃の最初の一本は、十年の間にいつのまにか何倍にも増えた。
何度も何度も、死のうとした。何度も何度も自分は生きてはいけない存在なのではなのかと、自問自答した。けれど、それでも早苗は死ねなかった。
早苗は、知っている。自分は生き汚い女だ。どんなに深く絶望しても、どれだけ孤独に苦しんでも、それでも最後は生を望んでしまう。死ぬのは怖いと、生きたくて仕方ないと、そう思ってしまう。
高校時代の、最初に自身の手首を傷つけた時の想いは、今も変わらず早苗の胸の中にあるのだ。
「信じて…啓介、私はちゃんと生きたいの…どんなに辛いことがあっても…啓介と二人で生きていきたいと、本当に、思っているの…」
早苗は涙声で、必死に啓介に訴える。先程までの自分は本当に、何かに憑りつかれていたのだとしか、思えなかった。
「私じゃない…私じゃない…私が自分の意志で死のうとしたわけじゃない…信じて…啓介…信じてよぉ」
子どものように泣きじゃくりながら口にした言葉は、自分でも分かるくらいに稚拙で荒唐無稽なものだった。
こんな言葉、もし逆の立場だったら、早苗は信じられない。それでも早苗は他に言葉を紡ぐことも出来ずただ信じてと繰り返すことしか出来なかった。
嫌悪していた自身の生き汚さに、早苗は啓介と出会って初めて感謝した。啓介に愛される、啓介を愛する喜びを知って以降、早苗は、一時期は癖のようになっていたリストカットをきっぱりやめた。
生きていて良かったと、心から思った。どんな辛いことがあっても、啓介と二人だったらきっと乗り越えられると、そう信じた。喜びも苦しみも分け合って、二人で生きていくことを望んだ。啓介もまた、早苗と同じ気持ちだとそう言ってくれた。
そんな早苗にとって、自身が死を選ぶことは、啓介に対する裏切りに他ならなかった。
荒唐無稽な、信じられない話だ。自分の意志ではなく、電車に飛び込もうとしただなんて。そこに霊的な何かが介在していたなんて、フィクションだけのお話。あまりにも非現実的過ぎる。
それども、啓介には信じて欲しかった。早苗は死のうとなんて思っていないと、啓介を裏切ってなどいないと、そう信じて欲しかった。
「――信じるよ」
そんな早苗を抱きしめながら、啓介ははっきりとした口調で告げる。
「信じるよ。信じてるよ。…さっちゃんが、俺を置いて一人で逝くはずがないって、ちゃんと信じているよ」
けれども口調とは裏腹に、早苗を抱きしめる啓介の体は、酷く震えていた。腕の中の早苗の存在を何度も何度も確かめるようにかき抱きながら、啓介は懇願する。
「信じているから…これから何があっても、どうか俺のそばにいて。さっちゃん――俺を置いて、どこにもいかないで…」
その姿はどこか、去っていく母親に縋る幼子のそれと似ていた。
結局待っていた電車は行ってしまい、せっかく中心部に来たのだからという啓介の希望もあり、ふたりで中心部の観光をすることにした。
観光と行っても、この辺りに目立った観光名所などない。ただどこに行くでも無く、二人で手を繋ぎながら、駅の周辺をぶらぶらと歩きまわった。
早苗と啓介。どちらも、先程のホームでの出来事はまるで無かったかのように、普段通りの様子で振る舞った。今は触れるべきではないと、お互いにそう思っていたのかもしれない。
ふと思いついて、駅を歩いて暫くしたところにある早苗の父親の会社に足を運び、外側から二人で眺めた。啓介は、早苗が拙い説明で父親の仕事について話すのを、笑いながら眺めた。
駅へ戻ってもまだ時間があったので、駅の傍の喫茶店でコーヒーを飲んで時間を潰した。ご当地デザートを啓介がはしゃぎながら注文して、一口食べてすぐ微妙な表情を浮かべていたので、思わず早苗は噴き出した。
帰りの電車で見る窓の光景は、最初に実家に帰った時と、啓介を迎えに来た時、そして今と、全て同じ光景である筈なのに、早苗の目には全て違った光景のように見えた。
帰宅すると、母親は既に家に帰っていた。リュウの死も、早苗に対する気まずさも、全て無かったことにように振る舞う母親に、早苗も調子を合わせながら、夕飯の支度を手伝った。啓介はソファに座って、時おり早苗と母親の会話に口を挟みながら、テレビに流れるニュースを観ていた。
穏やかな時間だった。それは、まるで作り物のように、いつ崩壊してもおかしくない、不自然な穏やかさであった。まるで嵐の中の小休止とでもいうような。
だから、三人の会話を割るように、リビングに電話の音が響いた時、そこにいる全員の顔が引きつった。どうしようもない程、不吉な予感が早苗の胸を過ぎった。
電話に出たのは、母親だった。母親は固い表情で、二、三の受け答えをした後、悲痛な声をあげてその場に崩れ落ちた。
「お父ちゃんが…お父ちゃんが、事故で病院さ運ばって…意識不明の重体だって…」
薄暗い夕暮れの田舎道を、優子は一人車を走らせていた。
この辺りはいり組んだ坂道が多い。普段は然程支障がないが、今日のように荷物が多い時は、軽自動車だとアクセルの効きが悪い。勝手にギアを変えてくれるAT車は、以前優子が使用していたマニュアル車のようにエンストをしないだけ、まだましだろうか。
そんな風に考えてから、優子はすぐに自嘲の笑みを浮かべた。もう二度と買い替えることもない車のことを考えたって意味がないことだ。
早苗はちらりと後部座席に並べられたタンクに視線をやる。準備は、全て整った。あとは今夜、行動に移すだけだ。
優子は首に掛けていたチェーンを指で辿っていった。チェーンの先には複製したばかりの真新しい鍵と、ロケットが繋がっていて、優子は胸元にしまっていたそれらを取り出した。
開いたロケットの中にあるのは、優子が全身全霊を掛けて愛し慈しんできた、今は亡き愛息子の写真。
「翔太…待たせたな。…今夜、お前の嫁さんばお前の所に連れてってけっからな…」
優子の目から一筋涙が零れた。
「そしたら翔太…お前はお母ちゃんば許してけっかな…?…また、お母ちゃんって、呼んでけっかな…?」
『絶対に、許さねぇから…俺、お母ちゃんを、絶対に許さねぇから…!!』
生まれて初めて見る険しい表情を浮かべて、優子に憎悪に満ちた目を向けた翔太は、言葉の通り、死の際でさえも優子を拒絶し続けた。
死んだ後も、翔太は夢の中ですら、優子に会いに来てはくれない。その事実は優子にとって、死ぬことよりも辛いことであった。
どんなことだって、する。今は亡き愛おしい息子が自分を許してくれるならば。
優子は握ったハンドルにぎりと爪を立てた。
優子の中には、早苗達に対する罪悪感など微塵もない。ただただ、亡くなった息子に対する狂気にも似た、深い深い愛情だけが、優子を突き動かしていた。




