二十二
リュウの鳴き声である筈がない。リュウは今朝、死んだのだから。
そう理解しているのに、気が付けば早苗は縁側へ向かっていた。
鍵が閉められている窓の前で一瞬躊躇して立ち尽くしてから、玄関へと向かうと、嵐の為引っ込めてあった縁側用のサンダルを手にした。
馬鹿なことをしている自覚はあった。それでも早苗は、何故か庭へと向かわずにはいられなかった。
鍵を開けて、サンダルに足を通す。自身の心臓がいつもより早く脈打っているのが分かった。くるりと庭に視線を巡らせても、とくに変わったところは見当たらない。早苗の視線は、リュウの犬小屋の所で止まった。
一歩、また一歩と慎重に足を進めながら、早苗は犬小屋へと近づいて行く。犬小屋が近づくたびに、どくん、どくんと心臓の音が大きくなっていった。
犬小屋の前で、早苗は足を止めた。犬小屋の中は薄暗く、覗きこまなければ中の様子は分からない。早苗は大きく息を吸って気持ちを落ち着かせると、意を決したように中を覗き込んだ。
「……何も、いるわけないか」
犬小屋の中は、当たり前だが空っぽだった。死んだ筈のリュウは勿論、リュウを殺した犯人が潜んでいるわけでもない。もう主人がいない、ただの空っぽの犬小屋だ。
(何を馬鹿なことを考えたのだろう)
早苗は小さく、自嘲の溜め息を吐いた。先程見た悪夢のせいで神経過敏になっていたのかもしれない。
家に引き返そうと早苗が踵を返しかけた時、ふと早苗の目にあるものが止まった。
「…何か、落ちてる」
犬小屋の中に、何か小さいゴミの様なものが落ちているのが見えた。嵐のせいで、中に入り込んだのだろうか。
何の気なしにそれに手を伸ばした時、不意にポケットの中のスマートフォンが鳴った。
「――啓介…っ!!」
手に取ったスマートフォンの液晶に啓介の名前が映し出されているのを見るなり、早苗は咄嗟に見つけた何かを上着のポケットに入れて、電話に出た。
一刻も早く帰って来ない啓介の安否を確かめたかった。
「啓介!?大丈夫なの!?今、どこにいるの!?」
『あー…その…とっても、言いづらいんだけど…』
電話口で、どこか言いよどむように啓介は切り出した話は、とんでもないものだった。
「――病院…?」
早苗が駆け足で電車の扉を抜けた時、反対側のホームで一時間に一本の電車を待っていた啓介は、手を振って自分の居場所を早苗に示した。
「思ってた通り、さっちゃんが来るころには処方も全部終わっていたんだから、わざわざ電車賃かけてここまでくること無かったのに」
そう言って頭を掻く、啓介の右腕はプラスチックのようなもので固定されていた。
「いやあ、まいった。まいった。あの辺ってお医者さんって全くないんだね。まさか中心部まで出てこないといけないとは思わなかったよ。でも、不幸中の幸いって奴?肘の骨にひびが入ったくらいで済んで良かったよ。結構痛かったから、骨折れちゃってないか心配だったんだ」
何でもないことのようにヘラヘラと笑う啓介を、頭が沸騰する
「…何で、笑えるの…」
次の瞬間、早苗は感情のままに啓介に掴みかかっていた
「…何で、あの人から石段を突き落されて、笑っていられるの…!!」
怪我人相手に、だの、啓介を責めることじゃない、だの、頭では分かっているのに、体が勝手に動いた。
こんな状況に置いても、早苗が自分自身を責めないように気遣い、明るく振る舞う啓介の姿が逆に早苗にとっては苦しくて仕方なかった。
「…さっちゃん?人が見てるよ」
「そんなこと、どうでもいい…!!」
「いやいやいや、さっちゃん良くないから。良くないよ。人目は大事デス。…それに俺、突き落されたなんて言ってないじゃん。俺はただ、強風に煽られて、間抜けにも石段の一番上から転げ落ちただけだって。だからさっちゃんが心配するようなことは、何もないよ」
早苗を安心させるように啓介は笑って首を振る。けれどその視線は、困ったようにあちこちに彷徨っている。嘘がつけない人だ。
早苗が掴みかかったまま、黙ってじっと至近距離で見つめていると、啓介は観念したように肩を落とした。
「…後ろから、誰かの手で押されたような気はする。けれど、気のせいかもしれないし、実際押した人物の姿は見てない。石段を降りようとする前に、優子さんって人がいないか、神社中見たけれど、誰も見つけられなかった。…これは、本当」
小さな声で躊躇いがちに告げられた言葉は、今度は嘘は無いようだった。
早苗は啓介の胸元から手を離すと、目を瞑って唇を噛みしめた。
(やっぱり、私のせいだった)
その瞬間、胸の奥が鉛を呑み込んだように重くなった。
「ごめんね…啓介」
「…っ何で、さっちゃんが謝るの!?」
「だって…だって、私がいなければ、啓介がこんな風に怪我をすることも無かったもの…」
【疫病神】
そんな言葉が、早苗の脳裏に過ぎる。
『――お前はいるだけで周囲の人間を不幸にする疫病神なんだよ!!』
フラッシュバックする、過去の凄惨な虐めの記憶。
でたらめな噂から始まった高校時代の苛めで、その言葉を口にされたきっかけを早苗は覚えていない。
それは早苗の本当の事情を知らないいじめっ子にとっては、単に早苗を嬲る為の言葉のバリエーションの一つで、多分そこに深い意味なんか無かった。
けれどもその言葉は、どんな罵りの言葉よりも鋭く早苗の胸に突き刺ささった。十年経った今も、ちょっとしたきっかけで簡単に瘡蓋が剥がれ落ちて血を噴きだすくらいに、深く、深く。
疫病神。まさに自分は疫病神という言葉が相応しい人間だ。十年前、両親の生活を滅茶苦茶にしただけではなく、また今度も同じ不幸を伴って故郷に帰ってきた。
早苗のせいでリュウが殺され、今度は愛する人まで傷を負った。早苗は存在するだけで、ただ周囲の人間を傷つける、疫病神そのものだった。
(こんな風に周りの人間を不幸にするだけの私なんか、死んだ方がいいんじゃないか)
そんな風に早苗の思考が、負の方向へと傾いた時だった。
『――んだね。死ねば、いいんだは』
その声は、耳にではなく、脳に直接響くように聞こえて来た。
『辛いべ?苦しいべ?逃げたいべ?自分のせいで、周囲の人間が傷つくのはやんだでしょう?…だったら、さっちゃんが死ねばいいんだは。さっちゃんが死ねば、もうこれ以上だあれも不幸になんねぇんだから』
早苗は目の前が真っ白になるような感覚に陥った。
頭の中の全ての意識が、ただ聞こえてくる声に集中して、自分がいる場所がどこなのかも分からなくなる。
歌うように、笑うように、声は優しく言葉を紡ぐ。
『ねぇ、さっちゃん…今はまだ皆、さっちゃんを責めねけど、この先もっと不幸が続けば、きっと皆さっちゃんば嫌んだくなるよ。さっちゃんが、いなければ良かったと、そう言うようになるよ。…そんだら、さっちゃん、一人ぼっちになっちゃうね』
遠くで、啓介が何かを言っている。アナウンスが、何かを言っている。だけど早苗の耳には声しか聞こえない。
気が付けば、足が勝手に動いていた。
『一人ぼっちは、淋しいよ。怖いよ。悲しいよ。…んだから、さっちゃん、そだなことになる前に、死ねばいいんだず』
声に促されるままに、早苗の頭の中は「死」という文字で埋まって行く。
一人ぼっちは、嫌だ。一人ぼっちは、淋しい。
今の早苗には、「死」がこれから訪れるであろう永劫の孤独を回避するための、唯一の救いの手段のように思えた。
あと、三歩。
あと、二歩。
あと、一歩。
――はて、自分は何をカウントダウンしているのだろう。
『大丈夫。さっちゃん、怖くないよ。俺がいっから』
自分は今一体、どこへ足を進めているのだろう。
『俺がこの先ずっと傍にいっから、大丈夫だよ。――安心して、あの世さおいで』
「――さっちゃんっ!!」
「…っ!!!!!」
啓介の叫びで我に返った瞬間。
早苗は迫りくる電車に向かって、一歩足を踏み出していた。




