二十一
「…俺はね、さっちゃん。さっちゃんがリュウくんを助けに行かなくて良かったと思っている」
後悔に苛める早苗に向かって、啓介はぽつりと呟くように言った。
「犯人があのおばさんかは分からないけれど、リュウくんをここまで酷い方法で殺す相手だよ?もしさっちゃんが外に出てたら、さっちゃんも襲われてたかもしれない…」
そう言って、啓介もまたリュウの墓の前にしゃがみ込んで、早苗を後ろから抱き締めた。
昨日の夕方、リュウを抱きしめている早苗を抱きしめたのと同じように。
昨日と全く同じ体制で、早苗と啓介は庭にいるのに、ただリュウだけは生きていない。
そのことが一層早苗の涙腺を緩ませた。
「俺は、さっちゃんを一人で危険な目に遭わせたくない。例え、自分がどんな目に遭ったとしても…きっと、リュウくんも同じ気持ちだったんじゃないかな?」
詭弁だと、思った。リュウが本当にそんなことを思っていた筈がない。
十数年もずっと世話をしてきた両親ならともかく、たった一年ちょっと傍にいた筈のリュウがそこまで早苗の為に身を挺して犠牲になるとはとても思えなかった。
(血を分けた肉親ですら、子どもの為に全てを捨てられるわけではないのに)
けれど、早苗は笑った。
「…ありがとう、啓介」
笑いながら、啓介にもたれ掛り、その温もりを甘受した。
啓介が、心から早苗を思いやってくれての言葉だと分かっているから。
そして、それ以上に、再びひねくれ、ねじれた思考に傾く、自分自身の醜さを知られたくなかったから。
啓介は早苗の涙が止まるまで、暫くそのままでいてくれた。
「――ねぇ、さっちゃん。俺さ、ちょっと一人で神社を調べに行こうと思うんだ」
腫れた眼を擦りながら、ぼんやりと涙の余韻に浸っていた早苗は、突然の啓介の言葉に弾かれたように身を起こした。
「…っ何で!?そんな…」
「だって、その優子さん?って人、暫くは神社の管理の当番なんでしょ?だったら、今日も神社にいる可能性が高いんじゃない?もしあの人が犯人だったら、今日もう一度会ってみてどこか不審な点がないか確かめたいんだ」
「そんな…!!あんな頭がおかしい人相手に、危険だよ…!!」
「大丈夫。大丈夫。…俺は、よそものだからね」
狼狽える早苗を宥めるような柔らかい笑みを浮かべながら、啓介は首を横に振った。
「さっちゃんやお父さん達にとっては、逆らったら怖い地域の権力者かもしれないけど、俺にとってはあの人は、ただの異常に老け込んだ、少しおかしいおばさんでしかないんだ。だからこそ、俺が調べるのが適任だと思う」
「…でも…」
「心配しないで。万が一向こうが錯乱して襲い掛かって来たとしても、あれくらいの細い体、簡単に押さえ込めるよ。俺だって成人した男だもの。それなりに力はあるよ」
口調は軽い調子だったが、啓介の目は酷く真剣で、そこには早苗が何と言い募ろうが譲らないであろう強い意志が垣間見えた。
早苗は脳内で必死に啓介を説得する言葉を探したが、結局何も言うべき言葉が見つからないまま、早苗は黙って俯いた。
「……何が力がある、よ。石段を上るのですらいっぱいいっぱいな、運動不足なヘナチョコの癖に…」
結局口から出たのは、可愛げが欠片もない憎まれ口だった。
言ってしまってからすぐに後悔する。
こんなことを言いたかったわけではないのに。
だけど啓介は早苗のそんな言葉を微塵に気にする様子もなく、きししと歯を見せて笑った。
「昨日の俺は本気じゃなかっただけなんですー。というか、石段は足の筋肉の問題だけど、いざという時に役立つのは腕力だし。…見よ!!この、力こぶしをっ」
そう言って啓介は腕まくりをして、力こぶを作って見せる。
だけどその力こぶは、どう贔屓目に見ても一般男性の平均的なくらいの大きさくらいにしか見えなかった。
「…全然貧弱じゃない」
「大きさは大事じゃない!!大事なのは、大きさじゃなくて硬さなんだ!!…ん?この言葉ってなんかエロくない?ほら、さっちゃん触っていいんだよ?…ああ!!さっちゃん、そんな蔑んだ目で俺を見ないで!!」
品の無い洒落に、冷たい眼差しを送っていた早苗だったが、これはさっちゃんを和ませようと…など慌てて弁明をする啓介の言葉に、結局噴きだしてしまう。
本当、啓介には敵わない。
「…もし、優子さんがいなかったとしても、一回神社に行ったら、すぐに帰ってくる?」
「もちろん!!何時間もさっちゃんを放っておいて、淋しがらせたりはしないさ」
「じゃあ…待ってる」
そう言って早苗はそっと睫毛を伏せた。
本当は、一緒に行くと言いたかったし、そう言うべきだとは分かっていた。
啓介一人を、優子に会わせるべきではないと、そう理解してはいた。
だけど、神社に行くことを考えただけで震えだした体が、早苗にその言葉を呑みこませた。
今の早苗にとって、あれほど好きだった神社は最早恐怖の対象そのものだった。
それに早苗は優子と会って平静でいられる自信がなかった。激高して、今度こそ優子に手をあげてしまうかもしれない。そうなってしまえば、途端に被害者と加害者の立場が逆転する。本間家に言いなりの警察が、どちらの肩を持つかなんて、火を見るよりも明らかだった。
「待ってるから…早く帰って来てね」
「うん。勿論――行って来ます」
笑って手を振って家を出た啓介を、早苗は玄関から複雑な表情で見送った。
声が、する。
声が、聞こえる。
『…もうすぐだよ』
熱がない、血の通ってない体が、早苗を包み込む。
『もうすぐだ…さっちゃん』
耳にかかる吐息は、まるで冬の冷気のように冷たい。
寒い。寒い。寒い。
まるで内側から全身が凍り付いていくかのように、寒くて仕方がない。
『もうすぐ、さっちゃんば迎えに行ける』
吐息は凍えそうなくらい冷たいのに、聞こえてくる声は酷く熱を持っていた。
冷たい指先が、愛おしむように早苗の髪を梳く。
『もうすぐ、さっちゃんを迎えに行けっから…ちゃんと、花嫁さ出来るようになっから、待っててけてな』
そういって早苗を抱きしめる翔太は、酷く愛おしげな笑みを浮かべた。
(また、翔ちゃんの悪夢か…)
夢から醒めるなり、早苗は身を小さくしながら、冷え切った全身を掌で擦った。
いくら布団を掛けないで寝てしまったからと言って、今日のように温かい日中の体温だとは思えないくらい、早苗の体は冷たかった。
啓介を持つうちに、気分が悪くなってソファに横になっているうちに、いつの間にか転寝をしてしまったらしい。壁にかかった時計に目をやると、思った以上に時間が経過してしまっていた。
「啓介も…お母ちゃんも、帰ってきてないか」
早苗は家の中に自分以外の気配が感じられないことを確認して、溜息を吐いた。
母親に関しては、別に心配していない。恐らく母は本当に用事があったわけではなく、単に早苗と顔を合せることが気まずいから、理由をつけて外出している。きっとどんなに早くても、夕方までは戻ってこないに違いない。母は、そういう人だ。
問題は、啓介だった。
「いくらなんでも…遅すぎない?」
早苗は慌てて自身のスマートフォンを手に取って、啓介から何か連絡が来てないか確認するも、フォルダにはただ一件、非現実な配当の投資プランを提案する迷惑メールが届いているだけだった。
電話を掛けても、数コール後に、留守番電話のメッセージに繋がってしまう。
もしや、啓介の身に、何かあったのだろうか。
胸の奥が酷くざわめいた。
いてもたってもいられず、早苗が立ち上がった、その時だった。
「――リュウ…?」
既にいない筈のリュウの鳴き声が、庭から聞こえて気がした早苗は、玄関へと踏み出しかけた足を止めた。




