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死人の花嫁  作者: 黒井雛
19/33

十九

 起き上がった早苗は、昨夜同様に全身が汗で濡れていた。

 ただ昨夜と決定的に異なるのは、目を醒ましてもまだ夜が明けていなかったこと。

 視界の暗さが、より先程の悪夢の恐怖を増長させた。


(振り返った先にいたのは…あれは、翔ちゃんだった)


 早苗はがたがたと震える自身の体を、両手で抱きしめた。

 まるで、昨日見たあの絵馬の中に入ったかのような、悪夢。

 もし自身が目を醒まさなかったらどうなっていたのかと思うと、震えが止まらなかった。


「啓介…啓介、寝てる…?」


 縋るように、啓介の布団に手を這わせても、手は空の布団にただ触れるだけだった。

 こんな夜中に、啓介は一体どこに行ってしまったのだろうか。

 啓介が傍にいないという事実が、一層早苗の不安を煽った。

 早苗は慌てて手を伸ばすと、茶の間の中央に垂れたスタンドの紐を引っ張った。慌てて引っ張り過ぎてしまい、電気が付いたかと思えば薄明りに変わって、再度暗くなってしまったりと一巡してしまったが、最終的にはちゃんと電気を灯すことが出来た。

 明るくなった部屋の様子に、少しだけ安堵を覚えてホッと胸を撫で下ろした。


「夢だわ…あんなの、ただの夢に決まっている…」


 自分に言い聞かせるように呟きながら、唾で乾いた唇を湿らせた。

 もしかして寝相が悪くて遠くに転がっていたのではないかという期待を込めて、部屋中を見渡したが、それでもやはり啓介の姿はどこにもなかった。


「…こんな時にどこにいるのよ、馬鹿啓介…守るって言った癖に…」


 早苗は泣きそうになりながら、立てた膝を抱いた。

 寝る前より強くなったらしい、風の音が騒がしくて、酷く不気味だった。

 何だか世界で一人きりになったような、そんな気がした。

 膝の間に顔を埋めて身を知事ませている早苗の耳に、不意に騒がしい犬の鳴き声が飛び込んで来た。


「…リュウ…?」


 滅多にない嵐のせいで、興奮しているのだろうか。リュウの鳴き声はまるで怪しい人物を吠え立てるかのように大きく、そしてどこか切迫した雰囲気を感じさせた。普段は大人しい犬なだけに、ここまでリュウが騒がしく鳴く所を早苗は聞いたことがない。


(やっぱり家の中に入れてあげるべきだったかな…)


 嵐に脅えるリュウの様子を想像したら、早苗は少しだけ平静になって来た。たかだか悪夢で、一体自分は何を動揺していたのだろう。そんなことより、今はリュウの方が心配だ。

 早苗は布団から立ち上がるとゆっくりと窓の方へと向かった。窓からリュウの様子を確かめてやるつもりだった。

 だけどカーテンを開けても、暗い外の様子ははっきりと分からなかった。実家の窓は、日中は外から中の様子が分からないような特殊な構造になっている分、夜は電気をつけたまま外を眺めるのが余計に難しくなっているのだ。

 早苗はガラスに映った自身の顔と鼻先を突きつけるように、窓に顔を近づけた瞬間だった。


 ――どすん


 何かが叩きつけられるような音が、早苗の胸の当たりから聞こえて来た。

 音に釣られるように、視線を下げた早苗の目に入ったものは。


「―――っっっ!!!!」


 窓に押し当てられた、血濡れの掌だった。


 早苗は声にならない悲鳴をあげて、すぐさまカーテンを閉めた。

 そのまま急いで布団の中に入ると、布団を全身に巻きつけた。


(何あれ…何あれ何あれ何あれ…!!!)


 心臓がうるさい。胸が苦しい。

 あれは。先程見たあれは、一体何だったのだろうか。


(男の人の手、みたいだった…)


 思い出すのは、先程の悪夢。自分に迫ってくる、死んだ筈の翔太の姿。

 もしあれが、翔太の手だったらと思うと、全身に冷たいものが走った。

 早苗はそんな自身の考えを打ち消すように、必死に頭を振った。


「あるわけない…幽霊なんているはずがない…そんな、非現実なこと…」


 しかし、考えないように考えないようにすればするほど、早苗の思考は昼間見た絵馬に、先程見た悪夢へと、傾いて行く。

 ただ絵馬上で行われるだけの結婚。この世に未練を残して死んだ人間は本当にそんなもので満足出来るのだろうか。

 与えられた仮初の花嫁を一時的には甘受しながらも、本当は彼らは死後の世界で求め続けているのではないだろうか。

 血が通った、魂を持った、本物の自分の花嫁を。


『綺麗だよ…俺のお嫁さん』


 悪夢の中の翔太の言葉が、早苗の脳内で再生される。

 絵馬の中から、血濡れの翔太が抜け出して、石段を下り早苗の家までやってくる様が、早苗にはまるで現実のことのようにリアルなものとして想像出来た。

 そして、翔太は血濡れの手を、早苗に向かって伸ばして――


「――さっちゃん?」


 突然掛けられた声に、早苗は心臓が止まりそうになった。

 だけど、自分をさっちゃんと呼ぶ、この声の主は。


「さっちゃん、灯りをつけてるけど、起きてるの?」


「…啓介っ!!」


「うわっ…さっちゃん、どうしたの?」


 声の主が啓介だと分かった瞬間、早苗は布団から飛び出て啓介に抱きついた。

 啓介の体は濡れて冷たかったが、早苗は抱きついた瞬間冷え切った全身が温められるように感じた。


「…どこに、行ってたの?啓介…啓介がいなくて、私…私…」


「風があんまりうるさいもんだから、ちょっと外の様子を見に玄関を出て見たら、吹き込んだ雨ですっかり濡れちゃって。夜中に申し訳ないけど、もう一度お風呂借りさせてもらってたんだ…それより、さっちゃん、どうしたの?すごく震えてるよ」


「…手が…窓に、血まみれの手が…」


「…手?」


 早苗の言葉に啓介は眉間に皺を寄せて、窓に近づいて行く。


「…啓介、あぶな…」


 早苗が止めようとした瞬間、啓介はカーテンを引いた。

 思わず固く目を瞑った早苗とは裏腹に、啓介は躊躇なく窓に顔を寄せた。


「…何も、ないよ」


「…え?」


「手は勿論、血が付いた手の痕だって残ってないよ…さっちゃんも来て、見てごらんよ」


 啓介に促されるままに、早苗もまた近づいて窓を確かめるものの、確かにそこは不審なものは無かった。


「何も、ないね…」


「さっちゃん、寝ぼけて変な物をみた気になっただけじゃない?ただでさえ、ほら、冥婚のモデルにされて、そういうのに敏感になっているだろうし」


 そうなのだろうか?

 先程見た血濡れの掌は、単なる悪夢の残滓に過ぎなかったのだろうか。

 だがそう言われてみると、だんだんあれが本当の物だったのかが自身がなくなって来た。

 全てはただの、夢。

 本当にそうだったのだろうか?


「ほら、さっちゃん。分かったら、もう寝よう?さっちゃんが怖くて眠れないなら、俺さっちゃんが寝付くまで、起きたままさっちゃん抱きしめてあげるからさ」


「…でも…」


「それだけじゃ、足りない?じゃあ、大サービス。啓介さん特製の子守歌もつけてあげよう。だからもう、寝なさい」


 啓介はそう言って未だ納得できない早苗を強引に布団に寝かせると、リズムよく布団を叩きながら子守唄を歌いだした。

 最初は唖然としていた早苗だったが、それでも調子っぱずれで歌詞も滅茶苦茶な啓介の子守唄を聞いてくうちに、口元には笑みが浮かび、だんだんと心が落ち着いて行く。


(そう、夢だ…全部、ただの夢だったんだ)


 そう思った瞬間、心地よい眠気が早苗を包み始めた。


「――大丈夫だよ。さっちゃん。悪夢からだって、俺が守ってあげるから」


 降る様な温かい声と、頬を撫でる優しい手の感触を感じながら、早苗はそのまま眠りについた。

 今度は、悪夢は見なかった。


 ――早苗は気づかなかった。いつの間にか、あれほど騒がしかったリュウの鳴き声が、すっかり聞こえなくなっていたことを。


 翌朝、早苗を起こしたのは、窓の外から響き渡った母親の絶叫だった。

 慌てて縁側へと飛び出した早苗と啓介を待っていたのは、


 無残に変わり果てた、リュウの亡骸だった。


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