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死人の花嫁  作者: 黒井雛
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十七

 啓介の甘い誘惑に、早苗の心は揺れる。

 帰ってしまっていいのだろうか。このまま逃げても、構わないのだろうか。

 しかし東京に帰る案に心が傾きかける一方で、また、別の自分が早苗を嗜める。


『また、逃げるのか』


『逃げて、全てを先延ばしにして、それで本当に問題が解決すると思っているのか』


 早苗はこくりと喉を鳴らして、口内に溜まった唾を飲み込んだ。


「…ごめん、啓介。まだ、帰れない」


 そう言葉に出した瞬間、早苗の中の決心は固まった。

 逃げたくない。また、十年前と同じように逃げて、後悔したくない。

 湧き上がるそんな思いが、早苗を突き動かす。


「まだ暫く、ここにいなきゃいけない気がするんだ。…私、もっとちゃんと母さんと、話したい」


 この胸の内のわだかまりをちゃんと解消しなければ、きっと次に両親と話した時に、まともに向き直れない気がするから。


「――そっか」


 そんな早苗の言葉に、啓介は柔らかい笑みを浮かべた。


「じゃあ、俺はさっちゃんに従うよ。それが、さっちゃんの決めたことだから」


 その笑みは、どこまでも優しかったが、何故か早苗には、ひどく淋しげに見えた。




「…早苗」


 早苗がリビングに戻るなり、母親は青白い顔で座っていたソファから腰をあげた。


「お母ちゃん…さっき、取り乱してごめんな」


 早苗の言葉を聞くなり、母親は体を震わせた。


「お前が謝ることね…私が、私が悪ぃんだ…」


 嗚咽をあげて泣く母親を、どこか冷めた気持ちで眺めている自分に気づき、早苗はそんな自身に嫌悪を覚えた。

 母親も苦しかっただろうと重々承知しているのに、どこまでも自分は心が狭い。


「…母ちゃんは、悪くねよ」


 言ってからなんて薄っぺらい表面的な言葉だろう、と自分でも思った。棒読みも良いところだ。心にもない、綺麗事は、矮小な自分自身の胸を逆に抉るのだと知った。

 だけどそんな作り物の早苗の言葉に、それでも母親は救いを見出したかのように目元を潤ませた。


「ごめんな…ごめんな…早苗…」


「…いいよ…いいんだよ、お母ちゃん」


「あのな…実は、な…お母ちゃんも、昔、婚姻絵馬のモデルさなったことがあったんだ…」


『婚姻絵馬』という言葉に、先程までの不愉快な気持ちがより生々しく蘇ってきた早苗は、ぴくりと体を跳ねさせた。だが、母はそんな早苗の反応を、単なる驚き故だと思ったのか、躊躇することなく話を続けた。


「…優子さんとこ程じゃないけど、当時それなりに裕福だった村のお偉いさんで、おじいちゃんもおばあちゃんも断れねかったんだっけは…そこの神社じゃねーけど、多分今も残ってはずだ」


「…んだの?全然私、知らねっけ…」


「んだども、あれからもう40年にもなっけど、連れて逝かれそうになったことあで、今まで一回もね。大病ば患うことも、事故さ遭うことも、40年間一回もねかったんだ。…んだから、早苗。なぁんも、心配すっことね。全部迷信で、呪いあでないんだ。…だから心配すっことねぇんだ…」


(そういう問題じゃ、ないんだけどな…)


 どこかずれている母親の慰めに、早苗は思わず苦笑いを漏らす。迷信なんか、端から気にしていない。ただ心情的に、憎い男の花嫁役のモデルに選ばれたことがどうしようもなく、不愉快になっただけで。

 しかし早苗はそんな内心の不満を口にすることなく、ただ泣き濡れる母親を抱きしめてその背を擦った。


「んだね…呪いあでないんだね…良かった…これでゆっくり眠れるは」


 心にもない『良かった』を繰り返しながら、早苗は、きっとこれから先、母親と十年ぶりに再会したあの瞬間程、純粋に母親に愛情を抱ける日はないんだろうな、とそんなどこか冷めたことを考えていた。




 早苗と啓介が神社を去って、一時間ほど経過した頃。

 優子は、一度清掃した神社の境内を、再び訪れていた。

 町内の当番でなくても、一日一回は必ず神社に参詣している優子だが、それでもいつもだったらこんなに短い時間に二度もここに来ることはない。だが、今日は特別だった。


「…翔太…」


 神社の中に上がった優子は、奥に奉られた神鏡には目もくれず、自分の息子が描かれた婚姻絵馬の近くへと向かった。常に同じ場所に飾られているそれは、探すまでもなくすぐに見つかった。

 優子は絵馬を落とさないように、頭二つ分ほど高い壁から丁寧に取り外すと、赤子でも抱くかのような手つきで額縁を抱きしめた。


「さっちゃん、帰ってきたっけな…綺麗に、なってたな…さすが、お前のお嫁さんだ…」


 優子は抱えた絵馬を見下ろしながら、写真の中の翔太の顔を曲げた人差し指の側面でそっと撫でる。


「心配すんなず…重婚あで、私がさせねから。さっちゃんはお前だけの嫁さんだから…心配すんなな…」


 そう言って優子は笑みを浮かべた。


「…なぁ、翔太。こだな写真だけじゃ、淋しいべ?…んだよな…満足できるはねぇよな…大丈夫。母ちゃんは、分かってっから…」


 その笑みは慈愛に満ちた聖母のようでもありながら、一方で見た者をゾッとさせる狂気も満ちた、酷くチグハグで歪つなものだった。


「待ってて、けてな…お母ちゃんが、全部何とかしてけっから、待っててけてな…」


 神社の中で虚ろに響く優子の声を、壁に飾られた無数の絵馬たちだけがただ、聞いていた。




「――メイストリーム?」


「んだ。その名の通り、5月によく起きる春の嵐なんだけど、3月に起きっこともあんだな。この辺りにはちょうど今夜来っらしい」


 職場から帰宅するなり食卓の上で新聞を広げて、そんな話題をする父に促されるように窓の外を見た。

 言われてみれば、先程から急に風が強くなってきていて、木々が酷く揺れて音を立てている。


「この辺は北の方で元々台風逸れやすいうえ、盆地で山さ守られてっからそういう被害は少ねぇんだけど、今日は珍しく荒れそうだな…」


 父もまた、早苗に吊られるように窓の外を眺めて眉を顰めた。

 そんな時、台所から料理を運んで来た母親が入ってくる。


「あら、やんだは。植木とか家の中さしまった方がいいんだべか。一応風ですっ飛ばされねぇように、冬用の雪囲いば出してきて植木の上さ立てかけて、紐で結んどいたんだっけけど…」


「そんだけしたなら、まぁ大丈夫だべ。せいぜい風がうるさいくらいだ。流石に植木が吹っ飛んだりはしねぇんでね?」


「――リュウくんは、大丈夫ですかね?嵐の中、外にいて」


 ソファでテレビを見ていた啓介も、心配そうな表情で話しに混ざって来た。


「大丈夫。大丈夫。あの犬小屋新しくて、丈夫だからよ」


「リュウが入ったあの犬小屋が吹っ飛ぶような嵐だったら、それこそ土砂崩れとかあって批難警報が出るくらいだべ。ニュース見てもそだい大規模な嵐じゃねぇから問題ね。問題ね」


 心配気な啓介とは裏腹に、両親の反応は酷くあっさりとしたものだった。

 なんというか。田舎の年配の人間というのは、よく言えばおおらかで、悪く言えば大雑把な所がある。両親ともにちゃんとリュウを可愛がってはいるのだが、必要以上に気に掛けたり干渉しようとはしない。

 もし東京の愛犬家がこの話を聞いたら、真っ青になりそうだと、早苗はこっそり溜息を吐いた。かといって、今さら早苗がどうこういう問題では無いので、口を噤むことにする。

 山に守られているとは良く言ったもので、実際この辺りは直接的な台風の被害は滅多にないのだ。少なくともここ数十年で、そう言った大規模な被害の話を聞いたことはない。過剰に心配する必要はないのだ。


「…ん?なんだこれ、朝刊か?夕刊はどさあんだ?」


「あ。取って来んの忘ってた」


「あ、じゃあ私、持って来っは。お父ちゃん、待ってて」


 早苗は未だどこか腑に落ちない表情の啓介を横目で見ながら椅子から立つと、夕刊が入れられているであろう郵便受けへと向かった。


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