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死人の花嫁  作者: 黒井雛
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十三

 石段から転げ落ちなかったのは、運が良かったとしか言いようがない。踏み外す寸前に咄嗟についた手が、最悪の事態から早苗を掬った。だがそれでも硬い段差に腰や手足を打ちつけられて、激しい痛みが走る。


「…あれ、まあ。大丈夫?大人っぽくなったみてぇだけど、相変わらず鈍臭ぇんだな、さっちゃん」


 早苗を見下ろしながら、口元に手を当てて笑う老女の姿に、早苗は驚愕を隠せない。嫌味たらしいその口調に、目の前の老女が優子であると確信をしてしまっただけに、よけい恐ろしかった。

 だって、優子は十年前の当時、まだ30代だった。ならば、今はまだ50にもなっていない筈だ。だが、目の前にいる優子の姿はどう優しく見ても、60はとおに超えた老人にしか見えない。

 艶やかな黒髪は、脂気が無い根元まで真っ白な白髪に。

 染み一つ無かった白い肌は、浅黒く皺だらけに。

 ピンと張っていた筈の背中も、まるでひしゃげたように曲がっている。

 笑った口元から見える歯も、ヤニに染まったかのように黄色く不衛生に見える。

 服装だって、それこそまるで襤褸でも着ているかのようだ。いつ買ったものなのか、どこのメーカーの物なのかすら分からない。十年前は、例え町内に散歩に出るだけでもブランド物しか絶対着用しなかったというのにだ。

 これがあの、美しかった優子の行く末なのか。早苗にはとても信じられなかった。もしそうであるなら、この十年間に一体何があったというのか。

 優子に再会したら、自分は一体どんな風な反応を見せるのかと、早苗はずっと考えていた。

 怒りを露わにして優子を責め立てるのか。それとも既に終わったこととして表面上は取り繕うのか。

 いくら考えても答えは出ることはなく、なるようになれ、会った時は会った時だと、そう思っていた。

 だけど繰り返し行ったシミュレーションの中の優子は、あくまで十年前の優子のままだった。多少歳は取っていても、それでも優子は変わらず高慢で美しく、そして気持ち悪いくらいに息子を溺愛している、鼻もちがならない女のままだと、根拠もないのにそう思っていた。

 今のような優子の変貌は完全に、早苗の予想の範疇を越えていたのだ。突きつけられた現実の衝撃が強すぎて早苗は優子に何の言葉も返すことが出来ず、ただ金魚のようにぱくぱくと口を動かした。

 だけど優子はそんな風に驚愕を露わに早苗に気を止めることも無く、その冷たい双眸を壇上の神社の方に向けた。


「――で、さっちゃん。さっき、おめぇと一緒いた人。あれ誰だ?見たことねぇ人だども…」


「…あ…」


 まるで糾弾するかのような硬質な声色に、早苗は一瞬怯んだ。

 小刻みに震える体に、十年経っても、姿が変貌してもなお、優子は早苗にとって恐怖の対象であることには変わりないのだという事実を突きつけられる。

 十年前、優子は簡単に早苗の生活を崩壊させた。早苗を地獄の様な環境につき落とし、そしてその後の人生を滅茶苦茶にした。

 今、早苗に気が障るような反応を返したら、せっかく築き上げた幸福が、一瞬にして消されてしまうのではないか、そんな恐怖感に囚われた。


(…何を馬鹿なことを考えているんだ。私は)


 早苗は乾いた唇を、血が滲まんばかりに噛みしめて、卑屈になりそうになる自信を律した。何を心配しているというのだ、自分は。そんなものは、味わった過去の苦痛から生じた刷り込みだ。優子のことを、あまりに過大評価し過ぎている。

 十年前と今とじゃ、早苗の置かれた状況は全く違う。あの頃は狭いコミュニティしか知らなかったが、今の早苗はコミュニティの外の広い世界を知った。そして今は帰郷で一時的に実家に戻ってきているが、あくまで今の早苗の生活の場は東京だ。片田舎の有力者に過ぎない優子が、一体何が出来ると言うのだ。


「…私の婚約者です。優子さん」


 早苗は震えて崩れ落ちそうになる膝に必死に力を籠めて、何とか立ち上がると、真っ直ぐに優子を見据えた。


「五月には私達結婚するんです。それで両親に結婚の報告の為に、昨日実家に戻って来たんです」


 驚いたように目を丸くする優子に、早苗は勝ち誇ったように笑みを浮かべて見せた。


(ざまぁ見ろ――お前が不幸のどん底まで突き落した私は、それでも不幸を乗り越えて幸せになるんだ)


 十年間で優子の身に何があったかは分からない。だがそのマイナスの変貌を見るに、優子が体験したそれが、けして幸福でないことだけは分かる。一気に10も20も老け込む様な、恐ろしい不幸が降りかかったのだろう。

 いい気味だと、心から思う。たかだか息子をフッた、それだけの理由で、早苗を、そして早苗の両親の生活を崩壊させた女だ。そんな女が、それでも幸せでいて欲しいと思えるほど早苗は聖女ではない。是非とも早苗より不幸な10年を送っていて欲しい。自分の業が、返って来ただけだろう。同情なんかするはずがない。


(そう考えたら、もしかしたら今この人と会ったのは、神様のご褒美かもしれない)


 啓介に結婚を申し込まれ、両親とも和解が出来、幸福の絶頂にいる早苗が、今ここで優子と出会ったのは、早苗にとって僥倖だ。

 不幸に落ちぶれた優子を蔑みながら、自らの幸福を見せるけることが出来る。優子が早苗に対して行ったことに対して、これほどの復讐は無い。

 そう考えたら、現金なもので早苗の胸の中の恐怖感は一瞬にして立ち消え、爽快な気分すら芽生えて来た。


「優子さんには感謝してます――十年前のあれがなければ、私がここを出て、あの人と会うことも無かったかもしれないもの」


 嘲笑うかのように次げた早苗の嫌味に、優子の顔がたちまち土気色に変わった。ひび割れた唇が屈辱に耐えるかのように戦慄いている様に、早苗はスッと胸がすくのを感じていた。


「――そだなこと…そだなこと、許されるわけ、ねぇべ…」


 絞り出すような優子の言葉を、早苗は鼻で笑った。この期に及んで何を言うのだ。早苗の幸福を、優子の許す許さないで左右される筋合いなぞない。許してもらいたいとも思わない。


「別に優子さんに許して貰わなくても結構です。私はただ、貴女の手が届かない場所で勝手に幸福になるだけですから」


 早苗の幸福は早苗の物だ。早苗と啓介、二人だけのものだ。誰にも邪魔させなんかしない。

 そう言って、話は終わりだとばかりに啓介に後を追おうとした早苗の肩を、優子は掴んだ。

 食い込むばかりの手の強さに、酷く不愉快な気持ちになる。


「ちょっと…!!いい加減に…っ」


「――許されるわけねぇべ――重婚あで」


 力任せに振り払おうとした早苗は、耳元で聞こえた優子の低い言葉に、動きを止めた。


(今、なんて言った?)


 言われた言葉の意味が分からず、困惑して振り返ると、血走った優子の目と真っ直ぐに視線が噛みあった。


「…許されるわけねぇんだ…重婚あで…お前はもう、とっくに嫁いでるんだから、許されるわけねぇんだ…もう一回結婚するなんて…」


 焦点が定まっていない目で、どこか間延びした口調で語る優子の姿に、ぞくりと鳥肌が立った。


「…何を言って…」


「――お前は、翔太の嫁だ」


 痕が残るほどの強さで早苗の肩を掴んだまま、優子はにたりと不気味な笑みを浮かべた。


「翔太だけの嫁だ。重婚あで許さねから、絶対に」


「――っ意味わかんねこと言ってんなず!!」


 もう限界だった。優子がふらつくのも構わず、掴まれた手を勢いよく振り払う。


「翔ちゃんと付き合う前から散々牽制して来たっけうえに、翔ちゃんばフったらフッた嬉々として嫌がらせして来た私に、今度は翔ちゃんの嫁さ来いって?意味わかんねーし。頭おかしいんでねの!?」


「…嫁さ来いでなく、お前はもう、翔太の嫁だ」


「はっ!?何トチ狂ったこと言ってんだず。脳みそ腐ってんでねの!?…本当、気持ち悪ぃ。私さ近づかねーでけて!!もう二度とっ!!」


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