十
※少しですが虐待を示唆する部分があります
「――良かったね。さっちゃん。お父さんとお母さんが歓迎してくれて」
茶の間に敷かれた客用布団の上で並んで寝転びながら、啓介が早苗に向かって囁く。
「うん…ありがとう。全部啓介のお蔭だよ」
「俺は何もしてないよ」
「ううん…だって私、啓介がいなければ絶対にここに帰って来れなかったもの」
本当に全部、啓介のお蔭だ。もし啓介がいなければ、啓介が実家に挨拶をしようと提案しなければ、早苗と両親の縁は切れたままで再び交わることは無かった。ずっと両親の真意も知らないまま、恨まれているのだと卑屈な気持ちを抱いたまま、生きていた。こんな風に、穏やかな気持ちで夜を迎えれる日はけして来なかっただろう。
本当に、啓介には感謝してもしきれない。そう思ったら早苗の目は再び涙で霞み始めた。今日だけで一生分の涙は流し尽くしたと思っていたのに、一体どこから湧き出てくるのか。
そんな早苗の様子に啓介は小さく笑った。
「さっちゃんのお父さんもお母さんも、本当にいい人だね…優しい、人達だ」
「…うん」
「……あんな風に、子どもを愛し続けられるもんなんだね。親っていうのは」
独り言のようにつぶやいた啓介の言葉がどこか寂しげで、早苗の胸はぎゅっと締め付けられた。
啓介には、親がいない。
否、本当の所母親は存命のようであるが、それでいて啓介は母親を死人のように扱い、その詳細を語ろうとしないのだ。
『俺にはね…生まれた時から親なんかいないんだよ。ただ俺生まれる前に死んだらしい父親と、ただ俺を生んだだけの、産むことしかしなかった女がいるだけだよ』
いつか啓介はそう言って、光を感じない目でどこか遠くを見つめながら、酷く痛々しい笑みを浮かべていた。普段は明るい啓介の、暗い一面に早苗は狼狽え、何も聞くことは出来なかった。早苗が出来たのはただ、目を逸らせば消えてしまいそうな啓介を、その存在を確かめるように強く抱きしめることだけだった。
早苗はそれ以上の啓介の過去を、何も知らない。啓介がけして早苗の過去を探ろうとしなかったように、早苗もまた、いつか啓介が過去を話す気になる日が来るまで、いつまでだって…一生だって待つ気だった。
啓介が過去を話した早苗にそう言ったように、早苗にとってもまた、大事なのは啓介の今と未来であって、啓介の過去がどんなものであっても関係ないと思えたからだ。
けれども、啓介の背中一面、あちこちに見られる火傷の痕や、明らかに人為的な物だと思われる裂傷や切り傷が、啓介が何も言わずとも、啓介と母親との過去を如実に語っていた。
「…啓介。私と結婚すれば、私のお父さんとお母さんは、啓介にとっても親になるんだよ」
早苗は手を伸ばして、そっと啓介の手を握り締める。ひどく冷たいその手を温めるように自身の頬に当てた。
「そして、私は啓介の奥さんになるんだよ。…誰よりも近い、家族になるんだ」
「さっちゃん…」
「すぐは無理かもしれないけど、そのうちきっと私、啓介の赤ちゃんを産むよ。いっぱい、いっぱい生む。家族でサッカー出来るくらいに」
早苗の言葉に、啓介が口元を綻ばせた。
「…そんなに大勢の子どもは俺の安月給じゃ、やしないきれないかな」
「それじゃ、えっと…テニスとかは?ほら二対二で」
「テニスは一対一でも出来マス。大体それじゃあ四人家族で普通じゃない」
「っいいの!!家族で球技が出来れば!!」
くつくつと喉を鳴らして笑う啓介に早苗は頬を膨らませながらも、内心では酷く嬉しい気持ちになる。今の啓介の笑みに、先程までの悲壮感は感じられない。いつもの明るい啓介の笑みだ。
早苗はそっと目を伏せて、啓介の手を両手で握り込んだ。
「…何人かは分からないけれど、それでも啓介の家族はどんどん増えていくんだよ。いつか私達の子どもが子どもを産んで、その子どもも子どもを産んで…きっと数十年後には、啓介の家族はびっくりする程多くなってる。うん、きっとそうだ」
「…想像できないな。そんな遠い未来、さ」
「想像できなくてもいいだよ。だって、想像できなくても、いつかはそうなるんだから。――そしてその間、私はずっと啓介の隣にいる」
そう言って早苗は啓介の手の甲に口づけた。
早苗は啓介に貰ってばかりだ。たくさんのかけがえのないものを貰って、ついには、過去の闇まで啓介に掃って貰った。ならば、今度は早苗が啓介に返す番だ。
啓介が失ったものを、求めても得られなかったものを、過去の闇を取り払う術を、全て与えてあげたい。例え、何年、何十年かかったとしても。
「啓介…啓介は私が必ず幸せにするよ。絶対に、幸せにしてみせる。約束、するよ」
「さっちゃん…」
啓介は寝転んだまま早苗を自分の布団の方に引き寄せると、そのまま強く抱きしめた。
「それは、俺の台詞でしょう。さっちゃん。俺がさっちゃんを幸せにするの」
抱き締める啓介の胸に、早苗はぴったりと頬を押し当てる。
「…私の幸せは啓介の幸せだから、結局同じことでしょう」
「そうだとしてもやっぱり男としてはさあ…」
押し当てた箇所から、啓介の鼓動が伝わって来た。奇跡のように愛おしい相手が、確かに生きて目の前に存在している証明に思えて、自然と早苗の口元からは笑みを浮かべた。
「…じゃあ、二人一緒でいいじゃない」
幸福は何も、片方が一方的に与えるものじゃなくていい。
そんな一方的な関係、本当の幸福なんかじゃない。
一緒で、いいんだ。一緒がいいんだ。
「二人一緒に、幸せになろう」
二人でいることが、そもそもそれだけで幸福なのだから。
早苗の言葉に、啓介は困ったように目を細めた。
「…敵わないな、さっちゃんには」
「でも、そうでしょ?」
「そうだから、敵わないの。完全に俺の負けだよ」
そう言って啓介は、優しい口づけを早苗の唇に落とした。
「幸せになろう――二人で」
(ああ、今私はどうしようもないくらい、幸せだ)
胸の奥が、今まで経験したことがないくらい、ぽかぽかと温かい。まるで春の陽だまりの中で、まどろんでいるかのように。
そのまま片方の布団を捨てて、二人で一つの布団の中に抱き合ってくるまった。
互いの体温を肌で感じながら、そのまま穏やかに眠りについた。
幸せ、だった。
信じられないほど、幸せな気持ちだった。
――そしてそれが、早苗が心から幸せだと思える、最後の夜だった。
(…そう言えば、翔ちゃんと優子さんのこと、すっかりお父ちゃんとお母ちゃんに聞き忘れたな)
うつらうつらと眠りの淵を彷徨いながら、ふとそんなことが脳裏に過ぎったが、すぐに湧き上がってきた次の眠気の波に流されるままに、早苗は思考を静止した。
『――り…――えり、――ん』
その日、早苗は夢を見た。
『――おかえり、おかえり、さっちゃん』
遠くから途切れ途切れに聞こえていた声は、徐々に早苗に近づいてきて、その大きさを増していく。
聞こえてくるその声を、早苗は知っていた。
懐かしい、少し高めの、男性の声。
知っているはずなのに、なぜかすぐにその声が誰のものなのか分からなかった。
『帰ってきてけたね…ようやく、俺の所に、帰ってきてけたね…』
声が、近づいて来る。
先程までは5メートルは離れていたように思う声が、今は数歩先から響いて聞こえる。
声の主の姿は、全く見えないというのに。
ただ声だけが近づいてくる。
『待ってたよ…ずっとずっと、帰ってくっのを、待ってた…』
「っ誰!?誰なの!?」
すぐ眼の前でした筈の声が、次の瞬間吹きかけられる吐息と共に、早苗の耳元で発せられた。
『――お帰り。俺のお嫁さん』
そしてその声を聴いた瞬間、早苗はその声の持ち主が誰だったかを思い出した。
「っ翔ちゃんっっ!!!」




