一
翔太…翔太…なして、こだい早く死んじまったんだ。
母ちゃんば置いて、なして逝っちまったんだ…。こだい親不孝なこと、他にあっか。…ほんと、おめーって子は。仕方ねーこだ…
……翔太。翔太。可愛い、かわいそうな子。
嫁さんも貰わねうちに死んじまうなんて。
嫁さん貰ってこそ、ようやくここでは一人前だって、何度も言い聞かせたっけのに。嫁さん貰わねうちに死んじまったおめーは、このままじゃ、永遠に一人前になれねーまんまだ…。一人前の男としてみなされねーまんまだ…不憫だ…かわいそうだ……
……母ちゃんが、何とかしてける。
翔太、おめーが一人前になれるよう、母ちゃんがとりはかってける。
死んじまったおめーに、嫁さん手配してける。おめーが、あの世で夫婦になれるような嫁さんを。
……そうだ。どうせ嫁さんにすんなら、おめーがずっと好きだったさっちゃんがいーべ。翔太ばフるなんてとんでもねーと思って、ずっと許せねけっけど、そんでもおめー、ずっとさっちゃん好きだったっけもんな。諦めきれねっけもんな。
母ちゃん、そんなおめーをいつも叱ってたっけし、向こうからお願いされてもあんな性悪女、本間家に嫁入りさせるなんてとんでもねーと思ってたけど、今となっちゃおめーが十年以上思い続けたさっちゃんほど、嫁さんに相応しい子はいねーな。んだな。それが一番いいべ。
翔太、翔太、待ってろ。
母ちゃんが、さっちゃんば、翔太の嫁にしてけっから、待っててな。
(……とうとう来てしまった)
新幹線の窓から見える、まだ溶けきれない雪が残った山景色に、東海林 早苗は深く溜め息を着いた。
もう三月も終わりだというのに雪が残っているというのは、早苗が10年近く住んでいた東京ではまず見られない景色だ。既視感を感じるその景色が続く度、少しずつ忌まわしい故郷に近づいているのかと思うと、早苗の胸中には暗雲が立ち込める。
(いっそこの新幹線が、事故にでもあって止まってしまえばいいのに)
そんな不謹慎な願いが、早苗の脳裏にちらと過る。
それほどまでに早苗は、故郷に帰りたくなかった。
「もー、さっちゃん。そんなに眉間に皺寄せたら美人が台無しだよ。スマイル、スマイル」
隣の席に座る、本宮 啓介は明るい調子でそう言って、皺のよった早苗の眉間を指先で伸ばした。啓介の子供のような、邪気のない笑顔に、早苗は張りつめていた精神が少し楽になるのを感じた。
しかしそんな感覚とは裏腹に、早苗は拗ねたように唇を尖らせてみせた。
「……なんで啓介はそんなにお気楽なわけ。普通こういう状況って啓介の方が緊張でがちがちになるべきじゃない?」
「だって、俺、別にさっちゃんの両親がどんな反応を見せても関係ないもん」
啓介は肩を竦めながら、何でもないことのように、けろりとそういう。
「一応けじめだから、挨拶に行くようさっちゃんを説得したけどさ。正直俺は、さっちゃんの両親がさっちゃんごと俺を拒絶しようと、俺だけ拒絶しようと、関係ないんだ。だって、どんな結果になろうと、俺はさっちゃんを浚うから。さっちゃんが故郷に住む気がない以上、さっちゃんの直接的な家族は、もう俺だけだからね。さっちゃんの居場所は、俺なんだ。だからさっちゃん、安心して玉砕して良いんだよ?」
つらつらと恥ずかしいことを躊躇いなく語る啓介に、早苗は顔に熱が集中するのを感じた。
啓介は、いつもそうだ。愛を語ることを、想いを言葉にすることを、照れたり躊躇したりしない。いつだって惜しみなく、言葉として早苗に捧げてくれる。
そんな啓介に、早苗はいつも救われていた。今だってそうだ。さっきまでずっしり重かった気持ちが、すっかり軽くなっている。
(啓介がいれば大丈夫。この先どんなことだって耐えられる)
十年ぶりの、親との邂逅も。長い長い人生における、様々な苦難も、きっと二人なら。
5月に、早苗と啓介は、夫婦になる。
今日はその報告の為、十年間一度も連絡を取ったことがない、早苗の実家へと二人で向かっていた。
新幹線を降りると、そのまま在来線に乗り換える。田舎の電車は頻度が少なく、待ち時間が長い。
息が白くなるようなプラットホームにそのまま待機するのはとても耐えきれず、暖房が利いた駅の構内で発車時間間際まで待機しながら、住み慣れた東京との違いに早苗は苛立つ。
東京との差異を感じれば感じるほど、自分が故郷に帰ってきたことを実感して嫌な気分になる。この10年近くの間に構築した、「都会人」という見せかけのメッキが、故郷の空気に浸食されて、内側から剥がされていくかのようだ。自分はもう、ここの人間ではないのに。自分の帰る場所は、とっくの昔に東京へと変わっているというのに。
そんな早苗とは裏腹に、啓介は初めてくる土地に興味津々で、愉しそうだ。駅の土産物売り場で、特産品を見つけてその場で開封し、美味しそうに頬張っている。気楽なことで、と嫌みの一つでも言ってやりたくなるが、早苗は喉元まで出た言葉を飲み込んだ。もしかしたら、この先啓介には自分のせいで嫌な思いをさせてしまうかもしれないのだ。今くらい、愉しい気分を持続させてやらなくてどうする。
ようやく来たガラガラの電車に乗り込み、啓介と並びあって座る。30分ほど揺られると、早苗が生まれ育った村の最寄駅だ。電車の中は暖房が思い切り効いて暑いくらいだったが、早苗は全身に悪寒が走るのを感じていた。熱を求めるように啓介の手に触れると、啓介は何も言わずに早苗の手をぎゅっと握りしめてくれた。伝わる熱に、早苗はほっと安堵の息を吐く。
(大丈夫。きっと、大丈夫)
電車のアナウンスが、地方独特のイントネーションで、降りるべき駅の名前を告げた。早苗と啓介は手を繋いだまま、駅を降り立つ。駅は無人駅になっていて、二人以外には全く人気が無かった。
早苗は啓介の手を離すと、カバンから大きめのサングラスを取り出して掛けた。3月の陽が照っているわけでもない日にサングラスと言うのは、少々違和感があるが、花粉症の人だと思えばさして違和感はない筈。厚手のマスクで口元も覆う。これならば、早苗の顔は分からない。少なくとも10年もあっていない人たちが、自分を見て東海林早苗であることに気付くとは思えない。
そんな早苗の姿を見て、啓介は噴き出した。
「さっちゃん、なんかすごく怪しいよ。なんかまるで、犯罪者みたい」
『犯罪者』
その言葉に、早苗は目を見開いて固まった。
冗談のつもりでそんな言葉を口にした啓介は、思いがけない早苗の反応に戸惑う。
「…さっちゃん?」
暫く逡巡した後、早苗はそっと目を伏せた。
「…犯罪者。そう、犯罪者なのよ。私は」
啓介に言うべきか、言わないべきか、ずっと迷っていた。でも決心がつかずに、言えないまま、とうとうここまで来てしまった。
だけどいくら黙っていても、もしも村の人間に早苗の正体が気づかれて、啓介の目の前で拒絶されたりなんかしたら、隠し通せることでもない。ならば、先に言っておかなければならない。
早苗は決心を胸に、真っ直ぐ啓介を見つめながら、震える声で言葉を紡いだ。
「法を犯すようなことはけしてしていないわ…それでも、私はあの村では、犯罪者なの。…私の両親は私のせいで、村八分されているの」
――早苗がかつての恋人だった、本間翔太をふったが故に。
早苗と翔太は、幼馴染だった。
早苗が幼いころには既に村は他の田舎の村同様に過疎化が進んでいて、早苗の周囲には同年代の子供は非常に少なかった。学校は近隣の村々と合同の校舎に通っていた為、同じ年の女の子の友人もいるにはいたが、気軽に遊ぶには家が離れすぎていたので、放課後の早苗の遊び相手はもっぱら同村の翔太だった。
鬼ごっこや、おままごと、なりきり遊びや、隠れんぼ。早苗と翔太は男女の垣根を意識をすることもなく、周囲が暗くなるまで二人だけで遊んだ。物心をついたときからそうだったので、そのことに違和感を感じることもなかった。
早苗にとっても翔太にとっても、互いが一番の友人だった。