ルペルカーリア(2013)
「あのっ、これっ、チョコレートです! 受け取って下さい!」
下校中、突然見知らぬ少女にチョコを突き出されテオは歩みを止めた。隣をあるいていた蒼太は
「おぉテオェ~! 今日の初チョコじゃん!(笑)」
と半笑いで言う。
「うるさい黙れそれじゃあ俺がモテないみたいだろ」
「事実じゃん(笑)」
チョコを突き出した体勢のまま硬直している少女からチョコを受け取ると、少女はほっとした表情を見せた。テオは一瞬だけ少女の顔をみたあと
「……ありがとう」
と言ってその場を後にした。
◇ルペルカーリア(2013)◇
テオがテーブルに広げたチョコの箱は五つ。どれも下校あるいは登校中に他校の生徒に貰ったものだ。箱の中には可愛らしい手作りのチョコレートと一緒に手紙やメールアドレスの書かれたメッセージカードが入っていて、どれもテオへの好意を綴った内容だった。ただし自校の生徒に貰ったものが一つもないあたり自分が如何に顔だけの人間かわかるというものだ。
これは返事をしなければいけないのだろうか。
ためしに箱に入ったチョコを一つ手にとってみたが、どうしても食べる気にはならない。テオはこれを渡してきた少女たちをよく知らなかった。見知らぬ人間に渡されたものにはどうにも警戒心が先に立つ。妙なものが入っているかもしれないと思ってしまう。別に真剣な表情の彼女たちを疑っているわけではない。ただ見知らぬ人間を信頼する度胸がないだけだ。
チョコレートと一緒に入っていた手紙をあらためて読み、どうやらこの少女は自分の白い見てくれが気に入ったらしいと結論づけ、今度声を掛けられたりしたら『お付き合い』の件は断ろうと心に決めた。話し掛けられなかったらそのままスルーすればいい。向うもそれで察してくれるだろう。
告白された時のテオの返答はいつもひとつに決まっていた。
『他に好きな女がいるから』
という、最強にして最大の常套句。これで愛の告白はほぼ100%断れる。中にはどんな人ですかと食い下がる人間もいるが、隣の家の後輩と具体例を挙げればだいたいは引き下がる。
テオは気持ちがこもっているのであろう手紙を丁寧にたたんで元通り封筒に入れると、すべてのチョコレートの箱を持って立ち上がり、酷い罪悪感を引きずってゴミ箱の前に立つ。
――こんなことをする自分は、なんて酷い生き物なんだろう。
――これを食べられない自分は、なんて酷い生き物なんだろう。
――壊れている。壊れている。壊れている。壊れている。こんな生き物は壊れている。
――ああ、なんて酷い、酷い、酷い、酷い、酷い。
ガサガサと音を立てて可愛らしい箱に収まったチョコレートがゴミになった。同居人のアレックスに見つからないよう他のゴミの下へ押し込める。罪悪感で吐きそうだ。こんなに辛い思いをするくらいなら食べてしまえばいいのに、去年無理やり食べたら飲み込めなくて吐き出してしまった。その時の罪悪感と不快感と絶望ときたら、そのまま捨てた時の非ではない。
赤の他人にもらった食べ物は怖いのだ。母に貰った食べ物と同じくらい怖い。妙なものが入っているかもしれない。きたないくそばばあやくそじじいのあいてをしなくてはならなくなるくすり。自分の××××。からだのじゆうがきかなくなるくすり。あのくそばばあの××××。わけがわからなくなるくすり。あのくそじじいの××××。
『他に好きな女がいるから』
何故と聞かれたことがある。自分でも考えてみた。気づいて絶望した。
風邪で寝込んだとき、祐未は自分になにもしなかったから。それどころか面倒を見てくれたから。
――要するに、『白井祐未はテオ・マクニールにとって安全だから』好きなのだと気付いた時、テオは頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
あの時面倒を見てくれた異性なら、きっと祐未でなくてもテオは好きになっただろう。
密室で自分に手を出さない異性なら、きっと祐未でなくてもテオは好きになっただろう。
それは偶然の産物で、ひな鳥の刷り込みのようなものだ。
あの時は母や母の周りの人間しか知らなかったから祐未が変わり者のように見えたが、今は『マトモな生き方』をすれば大概の人間が祐未のようになると知っている。知ってしまった。
つまりたまたま最初に出会ったのが祐未だったから、テオは祐未を好きになったのだ。
たとえばそれが宮崎春菜でも福山愛理でも藍上ルカでも他の誰でも、きっとテオはその女を好きになっただろう。
今祐未を好きな理由をあげろと言われればそれ意外にも理由を答えることはできる。
できるが、それは長年使ってきた備品に愛着を感じるのと同じだろう。彼女を好きだと思っているから好きな理由をみつけられる。きっと違う人間でもテオは好きな理由を見つけられるはずだ。
どんな備品も使っているうちに手になじむ。好きな女だってそれと同じだ。
すくなくともテオはそう結論づけた。自分の気持ちを整理した結果、そうとしか思えなくなってしまった。
こんな理由で人を愛する自分は、なんて利己的な生き物なのだろう。
こんな理由で人を好きになる自分は、なんて醜い生き物なのだろう。
――壊れている。壊れている。壊れている。壊れている。こんな生き物は壊れている。
――ああ、なんて酷い、酷い、酷い、酷い、酷い。
ゴミ箱に押し込められたチョコレートを睨み付けながらテオは思う。
こんな好意はくじびきと同じだ。たまたまひきあてた異性と一年間交際するルペルカーリアと同じなのだ。
偶然であって運命ではない。こんなものは運命ではない。
これは利己的で打算的なテオ・マクニールという生き物が偶然という川の流れにただ流されていった結果でしかなく、そこに何者かの意志など存在しない。
他人の好意が恐ろしいと感じる時がある。特に、恋愛感情である場合、その向う側に母の、母の知人の行動を見てしまう時がある。好意を持って接してくる人間が悪いわけではない。これはテオの問題だ。こんな感覚がおかしいのはわかっているから、他人に話したことはない。いつかこんな感覚が消えてなくなっていればいいと祈りながら、どうしていいかもわからないから周りの人間がしているように性に関する冗談を言う。興味があるふりをする。いつかこの演技が本当になればいいと願いながら。
その時対象になるのは白井祐未だ。
安全だと知っているから。
今はまだ演技でしかない性に対する興味は、祐未を対象にしていれば現実になることはないから。
ようするに彼女を選んだ理由は、どこまでも利己的な保身だった。
――壊れている。壊れている。壊れている。壊れている。こんな生き物は壊れている。
――ああ、なんて酷い、酷い、酷い、酷い、酷い。
他人から貰った手作りチョコレートが食べられないのは他人を信用できないからだ。その人間が自分に危害を加えないのだという確信が持てないから、他人から貰ったものを食べられない。
祐未を好きになったのは、自分に危害を加えないのだという確信が持てたからだ。自分にとって安全な人間だから好きになった。きっと誰でもよかった。
――こんな生き物を、本当の意味で好きになってくれる人間なんているわけがない。
気持ちのこもったチョコレートはゴミになった。テオは他人の気持ちをゴミ箱に捨てた。そうしなければ生きていけない、醜悪な生き物だ。きっと手紙をくれた彼女もメールアドレスを教えてくれた少女もこんなことを知ったら離れていくだろう。
――壊れている。壊れている。壊れている。壊れている。こんな生き物は壊れている。
――ああ、なんて酷い、酷い、酷い、酷い、酷い。
だからテオは、自分という生き物が――人間にすらなれない醜悪な生き物が――大嫌いだ。