GODDESS OF V
幼い少女は細い自身の足を抱え込んで自室の隅にいた。光の陰で、少女は独り泪する。
今日は、彼女やこの国の多くの人々が信じる神の生誕祭の前日。聖なる日、祝日として皆が祝う。
今日と明日だけはどれほどの忙しい人でも休みをもらい、家族や友人、恋人と過ごす。
そして、この日を無事に迎えられたことをともに神に感謝し、明日への活力をもらう。
それなのに、と少女は落ちてきた涙を拭く。
普段は忙しく、少女のことを後回しにしてきた愛すべき父は、彼女の下にはいない。
彼は、恐らく母と彼女との間にできた弟のところにいるのだろう。
父は、彼女の母の死後、彼女を抱きしめなくなった。そして、久しぶりに口をきいてくれたかと思うと、新しい母を紹介された。
当時7歳であった彼女は、その事実を受け入れられなかったが、父を煩わせるわけにもいかず、黙って受け入れた。
そのうち、父は彼女を完全にいないものとして扱ったし、継母も彼女の世話をしなかった。
生まれてきた弟は、二人に愛されていた。一方私は、屋敷の使用人から最低限の施しを受けているだけであった。
5年がたった。それでも、未だに彼女は父に見向きもされない。
父はきっと、私が嫌いなのだ。
少女はそう思い、オレンジ色の髪を撫でた。母と同じ色の髪。それを見るたびに、父はきっと思い出すのだ。母のことを。
あれほど愛した女性の影に、父は怯えているのだ。
それでも、愛されたいと思う少女は、父に手紙を書いた。直接会いに来てくれないのならば、と。
その手紙は、後日、屋敷のゴミ捨て場にあった。
私は父に必要とされていないのだ。
そう思うと、無性に悲しかった。
祝日に街は賑やかであった。一方、少女の心は灰色であった。
少女はかねてより考えていた。この屋敷に、私の居場所はない、と。
祝日ということで、使用人たちも最低限しかいない。彼女は家を出て、どこか遠くに行こうと思っていた。
彼女を監視し、閉じ込めるための使用人はいないし、密かにためた金がある。荷造りはしていたし、私がいなくなったところで父はただ「そうか」と言って終わりだろう。
そう思った彼女は行動に移す。二階の部屋から縄を下ろし、庭へと降りる。使用人たちはのんびりとしている。仕事と言っても、今日はほとんどすることはない。彼らは安心しきっていた。
少女は静かに下りると、使用人たちが庭整備に使う道具を置いている小屋に入ると、そこの藁に隠していた家出用のリュックを背負い、一人、浮かれる街の中へと走り出す。
「さようなら、お父さん」
少女は一言そう言って、振り向かずに去っていった。
12歳の、小さな少女を、誰も気にはしなかった。
街の警備をする兵士たちも、ほとんど仕事にならないくらい酒を飲んでいたし、彼女に注意を向ける人もいなかった。
家族や恋人への奉仕に忙しい男たち。愛しき男に寄り添う女たち。それに愛する家族に囲まれる子供たち。
そのいずれもが手に入らないものであった。少女は、5年前に母を亡くした日に、すべてなくした。
飢えない程度の食事と、普通の教育だけは保障されていた。だが、彼女にとって、家はただの地獄でしかない。
彼女は街を抜け、街道沿いに歩いていく。学校の授業で習った通りなら、数日で次の街につく。
行先はどこでもいい。ただ、ここではないどこかに行きたかった。
彼女を真に必要としてくれる人がいる場所に。彼女を愛してくれる人のいる場所に。
そんな夢のような場所がないことを知りながらも、少女はひたすらに歩き続けた。
いつしか、あれほど天に爛々と輝いていた太陽は沈み、地平線の彼方へと消え去ろうとしていた。
闇夜が迫り、平穏な雰囲気の街道は、一転して不気味な闇の世界へと変貌した。
少女はぶるりと震えた。
孤独にも、闇にも慣れているはずなのに、無性に恐ろしいと感じてしまう。
闇が完全に覆い尽くす前に、少女はリュックから松明を取り出し、火をつける。火をつけたころには、闇がすべてを支配していた。
少女は松明の心もとない明りを頼りに、歩き続ける。だが、疲労がたまっていることは明白だった。
「はあ、はあ」
少女の未熟な身体は、長旅には耐えられない。彼女はそれなりに体力には自信があったが、所詮は子供であった。
自分のことを馬鹿だなあ、と思いながら、少女は街道から外れた森の方へと向かう。
森の中なら、山賊や獣から隠れられる、と少女は思ったのだ。
松明の火を消し、大きな木の根元の隙間に入り込み、毛布を体に覆う。
夜の寒さは、彼女の体を冷やす。
狼の遠吠えが響いた。
少女の心は体以上に凍えた。
命の危険を彼女は感じていた。自分の浅はかな選択を、彼女は悔いていた。
少女は急いで森から出た。狼は、森という自分のテリトリーからは出ない、と先生は言っていた。少女は先生の言葉に従って速やかに森を抜け、街道に向かう。
そんな彼女は、前方に明かりが見えたことで安心した。
あの人たちなら助けてくれる!安心した少女は急いでその方向に走る。
「すみません!」
少女が声を上げると、動いていた明かりは止まる。少女はその明りに追いつき、明りの主たちを見る。
数人の大柄な男が、荷馬車の前で座り込み、酒を飲んでいた。
彼らは腰に剣や斧を備えていた。少女の顔が蒼くなる。
(山賊?!)
少女が声をかけた相手は、近隣の村の住民を奴隷として捕まえに来ていた奴隷商人の一行であった。
山賊行為にも手を染めていた彼らは、少女を見ると、歪んだ笑みを浮かべた。
そして、逃げようとする少女を捕まえると、彼女を縄で縛り拘束する。
そして、荷馬車の中へと放り込んだ。
少女は放り出された痛みで意識が飛び、長い眠りへと落ちて言った。
少女はゆっくりと瞼を開ける。昨晩の出来事は断片的に覚えていた。
目を開けば、きっとすべては夢に違いない、と少女は思っていた。
きっと、目を開けば、母がいて、父がいて、笑っているはずなのだ・・・・・・。
そんな少女の願いは空しいものであった。目を開いた彼女が見たのは、みすぼらしいぼろ布を纏っただけの女性たちと、自分であった。
「目が覚めたかい?」
近くにいた若い女性が言う。
「災難だったね、こんなに若いのに」
周囲の女性たちも「まだ子供なのに・・・・・・・」などと眉を寄せて嘆いている。
状況を見れば、明らかであった。私は奴隷商人に売られる商品になったのだ、と。
奴隷なんて、自分とは遠い異国の地の存在だと、少女は思っていた。
少女の見てきた世界は、あまりにも平穏であったから。犯罪も戦争も、すべては遠い地でのことで、彼女の周囲にはなかったから。
それはただ見えないだけで、どこにでも潜んでいるものなのだと、少女は思い知った。
「あの」
少女は小さな声で隣の女性に問うた。
「私、これからどうなるんですか?」
「さあねえ」
女性はそう困った顔で言う。きっと、少女に憚って口を閉ざしたのだろう。
幼い少女の希望を打ち砕く言葉を吐けるものなど、ここにはいなかった。
それが、余計に少女の思いを打ち砕く。
涙が出てくる。
あの街を出れば、きっと、どこか、楽園に着けるはずだ。そう思っていた自分を、少女は責めていた。
ああ、なんてバカだったんだろう。
揺れる馬車の天井を見る。空は見えない。光は一切なく、昼か夜かもわからなかった。
「このまま、どこに行くんだろう」
少女の呟きは、馬車の音にかき消され、誰の耳にも入ることなく消えていった。
馬車が止まったのは、少女が泣き止んでしばらくのことであった。
大柄な男たちが女性を数人引きずり出す。鎖で縛られた女性たちの手足は自由が利かず、ただただ男たちの命ずるままにされる。
そして外に消えて言った女性たち。再び、馬車の幕が下ろされ、残った者たちに闇が訪れる。
そして、外では饗宴の音がした。
男たちの笑い声と、女性たちの苦しみ、呻き、泣き叫ぶ声が。
少女は耳を閉ざし、口を紡ぎ、目を閉じた。
それでも、地獄の悪魔の笑い声は響く。女性たちの泣き叫び、助けを求める声がした。
やがて、その声も止んだ。
男たちの熱の覚めたような声。
「あーあ、殺しちまったなあ」
「仕方ねえだろ、気が狂っちまったんだ、売りもんにならねえしな」
「俺、好みだったのに」
そういうと、がさがさと音がした。
「おいおい、死姦かよ。趣味わりい」
「そう言うお前も興奮してらあな」
「へへへ」
男たちの、欲望に満ちた声がした。
女性たちは何時自分たちが同じ目に合うかがわからなかった。それに、遅かれ早かれ、同じ運命が待っているのだ。奴隷となった彼女たちには。
少女は涙をこぼす。涙は、決して留まることはなかった。
数日が経った。
あれから人数は減るばかりだった。男たちに食い物にされたり、道端であった男や奴隷商に売り渡されたり。
残ったのは、見目の良くないものや、少女くらいであった。
こうなってくると、いよいよ男たちは少女に目をつけ始めた。子供すぎて、壊れてしまいそうな少女だが、それでも構わない、と。
欲望に満ちた目戦を感じ、少女は震える。
涙は枯れ果て、零れるものはなかった。隣にいたあの女性も、もういない。
ついに少女が男たちの食事の餌にされることになった。
そのことに抗議を上げ、庇った女性は、少女の目前で首を斬りおとされた。
ショックを受ける少女を引きずり出すと、複数の男たちが下品な笑みを浮かべる。
少女は震える。足元が暖かいのは、気のせいではないのだろう。
恐怖が身体を駆け巡り、悪寒が支配する。
死にたくない。少女は思った。こんなところで、死にたくはない、と。
ただ、愛されたかった。必要とされたかった。それだけなのに。
少女を引きずり出した男は、少女を押し倒し、その幼い体を覆っていたぼろ布を引き裂くと、荒い息をつく。
目を閉じ、訪れる苦痛に少女は構えた。
闇夜の沈黙を貫く叫び声が上がる。
だが、それは少女のものではなかった。
少女が感じたのは、暖かい何か。ぬるっとした何かが、少女の頬を濡らした。
目を開いた彼女が見たのは、首から上がない大男の身体と、その向こうに立つ、紅い影だった。
「な、なんだ、てめえ!」
呆然としていた男たちは腰の武器を取り、紅い影を囲む。
紅い影、紅いフードと布のドレスの人影は微動だにせずに、ただ周囲を見た。その右手に握られたナイフから血が滴り、左手に持つ男の首から、大量の血が流れ出し、地面を染め上げる。
「この人数相手に、女がかなうとでも思ってんのか!」
体系を見ると、女性であることが分かった。だが、その顔は闇によって見えず、彼女がどのような表情をしていたかはわからない。
だが、紅い影はくつくつと笑うように体を動かし、リーダー格の男に顔を向けた。
男はその時、フードの向こうに、爛々と輝く瞳を見た。
『殺してやる。殺してやる。殺してやる・・・・・・・・・・・・・・』
幻聴が聞こえた。いくつもの声。苦しみ、嘆き、泣き叫ぶ声。
恐怖に襲われた男は、仲間たちに合図を送り、紅い影を殺そうと迫ってくる。
少女はそんな紅い影に言った。
「私はいいから、逃げてください!」
このままでは彼女は死ぬ。助けてほしいが、無駄死にしてほしくはない。そう思って少女は声を上げたのだ。
だが、紅い影はちらりと少女を見ると、ふっと笑った、様な気がした。
フードの下に一瞬見えた美しい紅が引かれた唇は、笑みを浮かべていたから。
彼女は群がる男を前に、堂々と立っていた。左手に持った男の首を投げ飛ばすと、服の裾から取り出したナイフを握り、男たちの剣を受け止める。
男たちの怪力を難なく受け止めると、紅い影は近くにいた男の腹を蹴り上げ、顔面に蹴りを入れる。
その瞬間、男の頭がずれて、滑り落ちる。鮮血が仲間たちに降り注ぐ。
紅い影の靴の先端からは、鋭くとがった刃が出ており、犠牲者の血が滴っていた。もっと血を飲ませろとばかりに、爛々と輝いていた。
それでも男たちは紅い影に迫る。数で押せばどうにかなる。それに、よく見ると彼女の肢体は魅力的であった。絹のような肌と、プロポーションは、今まで喰らってきた女性の比ではない。
欲望に忠実な男たちは、女性を屈服させようとした。
だが、男たちはそれを断念せざるを得なかった。
何故なら、男たちの身体は、紅い影に近づいた瞬間、切り離されたからだ。
剣を持っていた手がまず消えて、次に足首が無くなって、倒れかけた瞬間、首がなくなった。あまりの早業に、死すら認識できぬまま。
圧倒的なまでの死の舞踏会。踊る相手を次々変えながら、紅い影は躍り続ける。
やがて、リーダー格の男を残して、全ての男がただの物言わぬ肉片へと変わると、紅い影は静かに男を見つめた。
情熱的で、誘うような眼ではなかった。
フードの下で輝く瞳は、燃える炎、地獄の業火。その目は、静かに死を湛えていた。
「何故だ、なぜ、俺らを殺す!?」
男は言った。
「お前は、なぜ、俺たちを殺す!?」
「復讐だ」
美しい、だが感情を感じさせぬ声が男の耳に入る。
風が吹き、フードがめくれる。露わになった女の顔に、男は見惚れた。
絶世の美女と言ってもいいであろう、紅い髪の美女。
だが、ハッとする。その瞳の色は、今までのどんな女の浮かべて来たものとも違ったからだ。
恐怖が支配する。男が恐怖を感じたのは、子供のころを除けば、これが初めてのことだった。
ここら一帯の山賊や奴隷狩りの頭が、女ひとりに震えているのだ。
普通なら笑ってしまうが、笑えるものではない。
男は腰の剣を構える。そして、恐怖からただただ突き進む。
殺すつもりでいった男を、ちらりと見ると、紅い彼女は、何も握っていないはずの左手を、くい、と引っ張る。
男は全身に何かを感じた。その次の瞬間には、身体から鮮血が飛び出て、自由が利かなくなった。
指の先の神経がなくなり、全身の神経がなくなった。不審に思った男が見たのは、切り飛ばされた自身の腕や脚だった肉片。
空中には、血を滴らせた、細い糸があった。
張り巡らされた糸が、男の胴体と頭部以外を、粉々に引き裂いたのだ。
倒れ込んだ身体。肉ダルマとなった男に、もはやなすすべはない。
糸を回収すると、紅い影はゆっくりと男に迫る。男は女性の背中に、死神を見た。
「さあ」
女性の美しい唇が動く。
「裁きの時間よ」
「まて、まってくれ、死にたく・・・・・・・・・・・・」
「女性たちの味わった苦しみ。その痛みを、苦しみを、味わいなさい」
女性の拷問のような処刑が始まった。
男は、長い間叫びをあげた。だが、やがてその声はポツリと途切れた。
少女は呆然と血の池に立つ女性を見つめる。
美しき復讐の女神が、少女を見る。少女は死を覚悟した。
この死神は、生きとし生けるすべてのものを狩り殺す「死神」なのだ、と。
紅いフードをかぶった鬼の伝承もある。彼女がきっとそうなのだ。
せめて、苦しまずに。そう思い、目を閉じた少女。
だが、死は訪れなかった。
代わりに少女に訪れたのは、暖かな何かであった。
少女の裸の上にあまり血のついていない深紅の布きれを羽織らせると、死神は静かに少女を抱きしめた。
「もう怖がらなくていい。君は、もう恐れる必要はないんだ」
そう言い抱きしめる女性の言葉、体温に母を感じた少女は感極まって泣いた。枯れ果てたはずの泪は、止めどもなく溢れてくる。
少女の涙を、思いを、ただただ女性は優しく、聖母のように受け止めた。
そのあとのことは少女は断片的にしか覚えていない。たぶん、自身のことを語ったはずだ。女性は不満一つ零さず、少女の言葉を受け止めた。
生き残った女性たちを近場の街まで送ると、女性は馬を引き連れて、少女の下にやってきた。
「おそらく、父上も心配しているだろう。送ってあげるよ」
「父は、私のことなんか・・・・・・・・・・」
そう不貞腐れたように言う少女の頭を、女性は撫でた。
「子供を愛さない親はいないよ」
「・・・・・・・でも」
「きっと、いつか父上もわかるはずだ。君がどれほど、掛け替えのないものかを」
「・・・・・・・・・・」
「失って初めて、人は気づく。だが、それでは遅すぎる」
そう言うと、女性は少女の身体を持ち上げて馬に乗せると、自身も馬にまたがる。
「安心しなさい。もし、君の父上が君を必要としないなら、私が責任をもって面倒を見てあげるから。だから、笑いなさい」
そう言い、目元の泪を払うと、美しく女性は笑った。苛烈な鬼のような激情はなく、ただただ慈しむ目で。
そんな彼女に、少女はコクリと頷くと、ぎこちないながらも、心の底から笑った。
それを見ると、女性は馬の手綱を引いて、朝焼けの中を駆けだす。
風による冷たさも、女性のぬくもりで全く感じなかった。
少女は久しぶりの安眠に包まれた。
目が覚めた時、そこは見慣れた場所であった。
帰ってきた。そう思った彼女は、ふと、自分の手に重なる温もりを感じ、そちらを見て、固まった。
彼女の寝台の横に、父がいた。昔より幾分か痩せていた父は、彼女の寝台に頭を乗せて眠っていた。
彼の手は、しっかりと少女の手を握りしめ、決して離しはしなかった。
ただ、これだけがほしかった。
隣にいて、一緒に手を握って、見てくれるだけで。
少女は父親に抱きついた。やがて、ゆっくりとおきた父親は、その顔に似合わぬ涙を浮かべて少女を抱き返す。
二階の窓から見える大きな木の枝に座っていた紅いフードはそれを見ると、静かに枝から降りると、どこへともなく消えた。
以後、少女が彼女を見ることはなかったが、少女は死の直前まで彼女のことを忘れることはなかったという。
少女は、枕元にあった薔薇の飾り物を、生涯大事に持ち続けていた。




