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ヴェストパーレの屋敷の中を歩くヴェルベットの後ろをエリスが追いかける。
ヴェルベットが言った協定のことを、彼女はまだ納得ができなかった。ヴェルベットはそこまでして王国を変えたいのか、わからなかった。彼女の愛するジキストールを捨ててまで、やらなければならないことなのか、と。
エリスの思いをヴェルベットが気づかぬわけがない。
「どうして、って顔ね、エリス」
「ええ、ヴェル」
ヴェルベットの言葉にエリスは肯定を示し、歩みを止めた紅い髪の少女の背中を見る。
「それは、ジキストールさんは納得しているのですか?」
「・・・・・・・・・・・・・」
ヴェルベットは沈黙したまま、エリスの方に振り返った。そして、エリスは驚いた。
ヴェルベットの両目には、涙が浮かんでいた。
「ねえ、エリス。最近、ジキスが人前に出ない理由を知っている?」
ヴェルベットの問いに、エリスは黙る。最近確かにジキストールの姿は見ない。だが、彼は盲目で4余り人前に出ない人だった。人前に出ないのも仕方がない、と思っていた。
だが、ヴェルベットの言葉から考えると、そんな単純なことではないようだ。
「彼はね、もともと体が強いわけではなくてね」
少女は静かに語りだした。
「私たちが出会う前にも、大きな病気にかかっていてね。それは治りはしなかった。生活はできるけれども、徐々に体が衰えていき、最期には死に至る」
「・・・・・・・・・・・!!」
エリスは息をのんだ。
「彼は結婚するにあたってそのことを話してくれた。それでも、自分と、残り少ない時間を過ごしてくれるか、と」
そして、彼女は頷いた。そんな彼の残り少ない時間。その間だけでも、彼とともにいたかったからだ。
だが、二人の生活は長くは続かなかった。幸せではあったが、病気の進行が止まるわけではない。
視力だけではなく、ほかのあらゆる全身の部位が衰え、ついには歩くことすらできなくなっていった。
彼の希望により、そのことはヴェルベットとシメオン、それに彼の家族しか知らない。
「私はこの協定の内容を見た時、どうするべきか、迷った。そして、彼に聞いたのよ。もう、ろくに離せもしない彼にね」
「ジキストールさんは・・・・・・・・・」
「彼は、言ったのよ。死に行く自分よりも、未来に生きる私たちの子のために、と」
そう言い、ヴェルベットは自身の腹を撫でた。彼女の仕草と言葉から、エリスは彼女の中に新たな生命が宿ているのだと分かった。まだ傍目に見てもわからないが、確かにそこにジキストールとの子がいるのだと。
「医師の話だと、長くて一週間。皇国の使者にはもう話は通している。一週間。それが残された時間」
ヴェルベットはそう言い、エリスを見る。エリスはそんな親友を見返す。彼女のいつもの強さはすっかり身をひそめていた。彼女もまた、一人の人間でしかない、ということをエリスは実感した。
エリスは静かに、親友の身体を抱きしめた。
穏やかな陽光が庭園を照らしていた。
そこは、初めて彼らが出会った場所。魅惑の旋律が、少女の胸に響いたあの時を、彼女は忘れはしない。
「ねえ、ジキス」
ヴェルベットは木製の椅子に静かに座るジキストールを見る。彼は、光も音も、感じてはいないのだろう。握りしめた指すら、もう力がない。
「私とあなたが過ごした時間は少なかったけれども、私は確かに幸せだったよ。あなたは?」
しかし、少女の問いに返すだけの力を、彼は持たない。けれども、きっと、彼の答は彼女と同じなのだろう。
答えを発することができないだろう、と思ったヴェルベットの手を、彼が握りしめた。そして、その顔を少女の方に向けて、ゆっくりと口を開いた。
「ヴェルベット・・・・・・・・・・・・ありが、とう」
「・・・・・・・・・・・・・・!」
ヴェルベットは夫を見た。彼は笑っていた。ただ、静かに。陽光が彼を照らした。
「健やかに、強く、生き・・・・・・・・・・・ください。あなたの、幸せのために。私のことは気にせずに」
「・・・・・・・・・・忘れないよ、あなたのことは。絶対に、たとえ、何年、何十年たとうとも、絶対に」
「ありがとう、ヴぇルベット」
彼はそう言うと、疲れたように肩を落とし、椅子にもたれかかる。
「ああ、疲れた、な・・・・・・・・・・・ヴェルベット、先に、逝きます。私たちの、子供を、頼みます・・・・・・・・・・・・・」
そう言って、彼の手から力が抜けて、少女の手から滑り落ちた。
花弁が一斉に舞い上がり、鳥たちが木々から飛び立っていった。
ヴェルベットは、すでにその生を全うした愛しき人の身体を静かに抱きしめた。
エリスとクロウドがその光景を、離れたところから見守っていた。
「ジキストールさんは、幸せだったのかな。短い人生、目も見えず、病に侵されて」
「幸せだったさ、彼は」
クロウドはエリスの肩に手をやり、静かに言った。
「きっと、幸せだったさ」
ヴェストパーレ家の墓に埋葬されたジキストール。その葬儀に姿を出して、ヴェルベットはその後、王国から姿を消した。
王都内では先に逝った夫の下に彼女も逝ったのだ、と噂がされた。
それを証拠づけるかのように、身元不明の女性の死体が発見された、という。王都のとある森で発見された死体の顔面は損傷がひどく、身元が判明できなかったが、その髪は紅い髪であったという。
かくして、王国内からヴェルベット・ヴェストパーレは消えた。ヴェストパーレ家のシメオンはまだ何も言っていないが、姿を見せない令嬢がすでに死んだものと多くのものが見ていた。
王宮内の王の執務室。そこにいるのは本来いるべき主ではなく、宰相ジョン・ウォルターとオルゼン大公である。
狡猾な狐を思わせる貌の宰相は、50代にもかかわらず、未だ三十代のように見えた。60を過ぎて、おいの兆候を大いに見せているオルゼン大公とは対照的だ。頭部の髪がもうほとんどない大公は、ヴェストパーレの娘の死を喜んでいた。
「はん、こちらが手を下す前に死んでくれたか」
大公はそう言い、宰相を見た。かれこれ三十年以上を、ともに王国を支配してきた男を。
しかし、宰相はオルゼン大公ほど知らせを喜んではいなかった。彼の子飼いの密偵でさえ、真偽を明らかにできなかったヴェルベットの死。それを、彼は警戒していた。
「なんだ、まだ生きていると思ってるのか、ウォルター。大丈夫だ、今度こそあの女は死んだ。お前の密偵が死体は間違いないといったはずだろう」
「ええ、ですが」
「誰も我らの邪魔立てはできん。キースとて、今はまだ反抗的だが、いずれわかるだろうよ。誰がこの国の支配者か、を」
彼の父のようにな、と下品な笑いを浮かべる大公を見て、ウォルターは考える。
果たしてあの女がこれで本当に死んだのか、と。
彼女の父、ギデオンのように、恭順を示しながらことを進めるヴェルベットを彼は警戒していた。
彼女は恐らく、もっとも強大な敵となる。そんなことを、宰相は考えていたのだ。
考えすぎだったか、と宰相は思うと、静かに椅子に座す。
灰色の髪を、頭巾で隠した一人の少女。その彼女を守るように、ローブ姿の僧兵たちが囲む。
彼女の前に、一人の青年が来る。彼もまた、僧兵たちと同じ格好をしていたが、その風格は彼らとは全く違う。
「私は第二皇子エゼキエルです」
そう言い、膝をつき、少女の手の甲を取ると、そこにキスをした。
少女は頭巾を取ると、エゼキエルを見た。青年は、その灰色に染まった髪を見て、言った。
「美しい紅い色を見れないのが残念ですね。まあ、それもすぐに見れるでしょうが」
そう言い、彼は少女を見た。
強い意志を込めた瞳が、青年を見ていた。
「ようこそ、皇国へ。ヴェルベット・シスノ・ラヴィアン王女」




