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シスノ侯爵はかつて自身が暮らしていた屋敷を訪れていた。地方に送られた後も屋敷は残っており、ときたま管理人が清掃などはしていたらしい。思ったよりは汚れてはいない。
地方にいた使用人はほとんど連れてきておらず、身の回りの世話は数人の者のみで、シスノ侯爵も極力自分のことは自分でやっていた。
結婚でもすれば、もう少し状況は違っていただろう。妻が夫の服の着付けをする、というのは庶民では当たり前だ。自分の礼服を見て、シスノ侯爵は笑った。
シスノ侯爵家は、恐らく自身の代で終わる、と彼は思っていた。家のことなど、昔から興味はなかった。信じた理想の先には、貴族・平民の別のない世界があった。それも、夢に終わったが。
自身の愛した人との子供ならほしいが、そうでないのなら、このまま家とともに廃れたほうがいい。それがシスノ侯爵の考えであった。
そんなシスノ侯の下に、長年その世話を務めてきた老年の執事がやってくる。
「どうした?」
「旦那様に、お客人です」
「・・・・・・・・・・誰だ?」
シスノ侯爵は警戒して聞いた。今でも自身を目の敵にする保守派。地方に引っこんでいても、その妨害は幾度となく行われてきた。現宰相やその裏にいるオルゼン大公。彼らはいまだに偽りの王を操り、この国で権力を振るっていた。力のなくなった侯爵は、自身の領地を守るので精一杯であった。
彼が王都に来たことを警戒して何者かが来たか、そう思っての言葉であった。
執事はいささか迷うと、客人の名を告げた。
「ヴェルベット・ヴェストパーレ様です」
「ヴェストパーレの?あの、ギデオンが愛人に産ませた、という?」
風の噂で聞いた愛人の子供。はっきり言ってギデオンらしくない、と当時は思った。ギデオンは冷徹な印象を受ける男だが、誠実な男であった。政略結婚ではあったが、妻のことは愛していたし、妻の方もそんな彼に惹かれていた。
疑問に思ったものの、領地にこもっていた彼にはそれ以上の情報は掴めなかった。
「旦那様に、折り入ってお話がある、と」
「・・・・・・・・・・・通せ」
「は」
執事は頭を下げると、客人の下に急いだ。
ヴェストパーレの令嬢は大変な女傑であることは、シスノ侯の耳にも入ってきている。
父親に似たのかな、と思いながら、過去の思い出に浸る。
あの頃は、毎日が戦いではあったが、充実していた。青春を革命に注ぎ、友と理想を語り合った。
あんな時間が永遠に続いていれば、と思わなかったことはない。ギデオン、ウェルテン、ギルバート、ミアベル、そして、愛おしいアンネローゼ。
ギデオン、ミアベルは病死し、ウェルテンと妻のリンリ-は非業の死を遂げ、アンネローゼもシスノ侯と別れた後に死んだという。
残ったのは、一人の敗れた男と、腐敗した王国の寄生虫のみ。
運命とは、過酷なものだ。
シスノ侯はもう、いつ死んでも悔いはない。だが、死ぬ前にやることがある。
偽りの王冠を抱く王を殺す。そして、若きキースに王となってもらうのだ。
キースは彼自身が教育を施した。彼の持つ理想と実力ならば、宰相や大公にも負けはしないだろう。
次代のために道を開くのが老人の務め。そう思ったために、シスノ侯爵は今回の式典に参加したのだ。
仲間たちの下へ逝く日をどれほどまっただろう。
物思いにふけっていた侯爵は、執事の扉をたたく音に気付かなかった。
ようやく彼が自身の世界から抜け出したのは、彼の部屋に一人の少女が入ってきたときであった。
シスノ侯爵はその目を見開いた。
彼女の深紅の髪は、ヴェストパーレの血筋に現れるものなのだろう。見事な紅の髪。
だが、その顔も、髪も、彼の目に映るすべては、彼が障害で唯一愛したあの女にそっくりであった。
ただ一つ違うとしたら、それはその瞳に映る意志の強さだけだろう。若き少女の瞳に宿る焔。それは、若き日に彼らが持っていたそれと、全く変わりのないものであったからだ。
「はじめまして、シスノ侯爵」
美しい声で、ヴェルベットはそう言った。シスノ侯爵は、ふと我に返り、返す。
「君のことは聞いているよ、ヴェルベット嬢。ようこそ、我が屋敷へ。とはいっても、ろくなもてなしもできないが」
「お気になさらず」
そう言い、少女は侯爵に勧められてソファーに腰を下ろす。
「それで、何の御用かな?」
公爵は努めて冷静にそう聞く。この少女が自身に何を求めるのか、無性に気になっていた。
「シスノ侯爵、この国を変える気はありませんか?」
「なに?」
シスノ侯爵は、そう返す。ヴェルベットは怯むことなく、言った。
「この国を支配する古い貴族の手から、王国のすべての民のために、本来の姿を取り戻しませんか?」
少女は決して冗談で言ってはいない。その目は本気であった。
「そのためなら、血を流すこともいといません」
「・・・・・・・・・・なぜ、そこまで?どうして私にその話を?」
公爵が問うと、ヴェルベットは言った。強い憎悪の感情が、一瞬よぎったが、それはすぐに消えた。
「最初は復讐のためでした。私の育ての親であるローゼルテシア夫妻のことはご存知ですよね?」
「ああ、旧い、友人だ」
「彼らを殺した者への復讐。それが、私の目的で、全てでした」
ヴェルベットはその若さに似合わぬ貫録さえ見せる。シスノ侯爵は、ギデオンを思い浮かべたが、彼とはまた違う何かを感じた。
「ですが、私は復讐の中で、多くのことを知りました。友人や、家族を得ました。そして、私の本当の親や、彼らと共に戦った人たちの思いを知りました」
ヴェルベットはシスノ侯爵を見る。その目に一瞬、亡きアンネローゼの影を見る。
シスノ侯爵はその時確信した。この少女は、あの女の娘なのだ、と。
何故、わからなかったのだ。シスノ侯爵は思った。ミアベルやウェルテン、ギデオンもこのことを彼には知らせてくれなかった。
なぜか。それはシスノ侯爵の思いを知っていたからだろう。彼以外の男との子供、それもギデオンとの子供など、どうして言えようか。
シスノ侯爵は一抹の寂しさを感じながらも、愛した人の忘れ形見を見る。
たとえ、誰との子供でも、彼は構いはしなかった。ただ、彼女が幸せであったのなら。
彼女の子供が望むことならば、かなえてやりたい。どうせ死ぬつもりであったこの身。それが必要だというのならば。
「侯爵、お力をお貸しいただけますか?」
「よかろう」
公爵はそう言い、ヴェルベットを見る。
「だが、一つだけ聞いていいだろうか?」
「はい?」
ヴェルベットはそう言い、公爵を見る。
「あなたの本当の親は、あなたを愛していただろうか?」
その質問に、ヴェルベットは虚をつかれた顔になるが、すぐに笑みを浮かべた。
そして、花の咲くような笑顔で公爵を見た。
「はい、父も母も、私を愛してくれました。私は憶えてはいませんが、それでも、彼らの愛は確かにあったのだと」
「・・・・・・・・・・・・・そうか」
そう言い、侯爵はソファーから立ち上がり、窓の前に立つ。
ヴェルベットにはその大きな背中が泣いているように見えた。
「・・・・・・・・・・・・悪いが、また後日、来てはくれないか?」
「はい」
そう言い、ヴェルベットは少し戸惑い、すぐに出て言った。
公爵の目から落ちた一滴のしずくが、その灰色の髭に伝っていく。
「そうか、あの女は幸せだったか・・・・・・・・・・・・」
そう言い、シスノ侯爵は涙の後を拭った。
「まったく、年を取ると、涙腺が緩んでたまらんな」
窓の外から見えた紅い髪の少女を見る。
強い少女だ。きっと、彼女なら、そんな風に思わせてくれる何かがあった。
シスノ侯爵はそのまま、彼女の背が見えなくなった後も窓の前で彼女を見ていた。




