LEASE AND VINCE 1
ファイロ・ヴィンスは元は貴族の出身であった。しかし、数年前の戦争の前には家の没落の兆しは見えており、父をはじめとした男たちもその戦争で亡くなると、ついにその身分を剥奪され、一介の市民となった。
いや、ただの市民ならばまだ幸せであっただろう。
ヴィンス家を襲ったのは、それ以上の地獄であった。
父の親友により、母はファイロや妹たちを置き去りに駆け落ちし、その家は売りに出されてしまい、兄妹は王都のスラムでの生活を強いられた。
当時十五歳のファイロが幼い三人の妹の面倒を見るのは到底不可能だった。だから、彼は犯罪に手を染めた。
暗闇に乗じて盗みを働き、ときに恐喝もした。彼にはそれなりに鍛え上げられた体もあり、またそのことから裏社会の者たちからも一目置かれていたため、生き残ることはできた。
そうして数年。今や足を洗おうとしても抜けだせない。そう思ってすらいた。
妹たちももうむやみに兄を信じずに、社会的な正義や良心を理解し始めていた。妹たちのファイロを見る目は、怯えたものになっていた。幼き日の、貧しいながらも幸せな日々に浮かべていた笑顔はめっきり見なくなった。
心は荒れ果て、精神は疲れていた。それでも、生きるためにファイロは他者から奪う。
か弱い老人や子供、女。良心の呵責がないわけではないが、仕方がない。
そう言って彼はナイフを片手に忍ばせて夜の王都を歩く。
王都と言えど、夜になれば人気は少なくなる。治安がいいと言って貴族たちは緩みきっている。そんな奴らはファイロの格好の的であった。
今日もまた、獲物がいた。女、それも華奢でファイロの腕力の前に折れてしまいそうなほどだ。
深紅のドレス、さぞ高そうなそれを着ている女だ。それは金も持っているだろう、そう考えてファイロは女に近づく。
そしてファイロはいともたやすくターゲットの後ろに回り込む。ファイロはナイフを押し付け、夜道を歩く一人の女性の動きを封じた。
そして言った。凄みを聞かせた低い声で。
「金を出せ、死にたくなかったらな」
そう言ったファイロだったが、それに対する答えはあまりにも予想外なものだった。
美しい女の唇が、嘲笑を上げた。ファイロはその反応に気を取れれて、その瞬間、何が起こったのかよくわからなかった。
瞬く間に、ファイロの長身は夜に舞い、地面に激突する。ナイフは手からすっぽりと抜けて、乾いた音を立てて落ちる。
彼は女性を見た。女性は先ほどと同じ場所に立っていた。そこで妖艶に笑っていた。
美しい、と思った。そして理解した。この女性には自分はかなわないのだ、と。
その瞳はファイロを射抜くような強烈なもので、まるで猫に睨まれたネズミの気分であった。
身体は動かない。口すらも動いていない。心臓が縛られたように鈍く鼓動した。と思いきや、心臓の動きは加速する。
吹き飛ばされる際、ちらりと見えた何か。光るそれはバラの紋様のナイフであったように思えた。
彼は思い出す。ある噂を。彼自身、今まで信じていなかった噂を。
王都の犯罪者を狩る『VENGEANCE』。噂では彼女は深紅の血のような髪であるという。そして同じく深紅のドレスを纏っている、と。
目の前の少女は、まさにその噂通りの姿であった。
ファイロが死を直感したように目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、妹たちの姿であった。
因果応報、か。ファイロは静かに思った。
命こそ奪ってはいないが、多くの人の人生を壊してきた。その報いが、今、ここで果たされるのだ、この復讐の代行者によって。
不思議と心は穏やかで、ファイロは死を受け入れていた。妹たちには申し訳ないが、これで不甲斐無い兄は消える。彼女たちの恥ずべき兄はいなくなる。
ファイロのうっすらと開いた眼が女神のナイフを見た。振り下ろされ、自身の命を奪うであろうそれを。
だが、彼に死は訪れなかった。
ナイフは彼をそれて空を切り、地面に刺さる。
ファイロは少女を見た。自身とさほど年の変わらぬ彼女は、魅惑的な笑みを浮かべてファイロを見ていた。そして、少女の冷たい指が彼の頬をなぞる。
「いい目をしているわね。殺すには惜しい」
鈴の音のような声で少女は告げると、ファイロに向かって手を差し伸べる。倒れるファイロは呆気にとられた眼で、少女を見上げた。
「今、妹の面倒を見てくれる人を探していたのよ。ちょうどいいから、あなたを雇うことにしましょう」
さぞ名案とでもいうように少女は笑った。
呆気にとられながらも、なぜかファイロは少女の手を取った。
その後、彼はヴェストパーレの屋敷にいた。その後、ヴェルベットという名の、時の人に導かれるがままに。
屋敷内の彼女の部屋にファイロは入る。
女性の部屋は初めてではない。商売女や貴族の夫人と寝たこともある。珍しいことではない。だが、ヴェルベットの私室は今までの女性のものと比べても質素すぎた。機能性のみを追求した部屋であった。
彼女の机に肘をつくと、ソファーに座ったファイロを見た。
「さて、では早速あなたの仕事の話をしましょうか」
「俺はまだやるとは言っていないぞ」
ファイロが言うと、微笑を浮かべてヴェルベットは言う。
「そう、なら死んでもらうわ」
少女がそう言ってナイフを取り出す。ファイロは口封じのためだ、と理解する。それはそうだ。今王都で注目される女性が『VENGEANCE』であるなどと知られることはまずいのだから。
据わった目でファイロが見ると、彼女は笑った。深い意味などなく、本当におかしそうに。
「冗談よ」
そう言って少女はナイフをしまう。そして、真剣な目でファイロを見た。
「でも、あなたは後悔しているはずよ。今まで犯してきた罪を。その報い、というわけではないけれども、一人の少女のためにあなたのような人の力が役にたてられるとしたら、それはあなたにとっていいことだとは思わない?」
ヴェルベットがそう言うと、ファイロは沈黙する。ヴェルベットは何やら紙を机から取り出す。
「勿論、妹さんたちの生活の保障もしてあげるわ」
「!?」
ファイロは驚き、目を見開く。そんな彼を見て深紅の髪の少女は笑う。
「さあ、どうする?」
ファイロは自分に選択の自由がないことを知った。
説明された仕事の内容は至極単純なものであった。
彼女の義理の妹、リースの身の回りの世話と護衛、教育、その他全般。それがファイロの仕事であった。
理由を聞くと、ヴェルベットは三人の妹を差立ててきたのだから、とだけ言った。七歳の妹の教育までも見も知らぬ男に任せようというヴェルベットに呆れるファイロだったが、少女は自信ありげに笑うだけであった。
翌日。ヴェストパーレの屋敷に泊まった後、ヴェルベットに連れられてやってきたのは、彼女の経営する店であった。とはいえ、豪華な館、とでもいうべきそこには、多くの女性たちが住んでいた。
女主人曰く、彼女の義妹は彼女の親友に懐いており、昨夜はここに泊まったそうだ。
それならば自分は必要ないのでは、とファイロが言うと、ヴェルベットは首を振った。
「彼女には、父親や兄、といった存在が必要なんだ」
そう言った少女の目は、どこか物憂げであった。物憂げな瞳をしていても、彼女の魅力は減ることはなかったが、その高嶺の花を手に入れようとはファイロには思えなかった。
そんなこんなでついにファイロは彼女の義妹、リースと会うことになった。
館の中のヴェルベットの部屋で、七歳の少女はエリスという名の少女とともにいた。
クリーム色の長い髪を垂らした、気の弱そうな少女。黒いクマのぬいぐるみを大事そうに持っていた。
そんな少女は怯えるようにファイロを見ていた。ファイロはそんな少女を見て苦笑する。
そして、ヴェルベットがファイロのことを紹介して、リースの目前に彼を立たせた。
彼はしゃがみ込んで、リースの目線に合わせると、手を差し出した。
「よろしくお願いします、お嬢様」
リースはおどおどしながらも、その手をしっかりと握りしめた。
これがファイロ・ヴィンスとリース・ヴェストパーレの出会いであった。




