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穏やかな日々をローズは過ごしていた。
農村の住人達は裕福とは言い切れなかったが、皆優しい者たちばかりであった。
こんな生活を、依然していた気がしていた。
ローズは田畑の端に咲く花々を見ていた。黄色の花々はエリスの花という、どこにでもある花だ。
「そんな花が珍しいのですか?」
花を見ていたローズに、知らない声が尋ねた。ロースは顔を上げる。そして、立ち上がる。
声をかけてきたのは男性だった。まだ若い男性だ。少女よりも四、五歳上だろう。
優しそうな顔だが、彼の顔には大きな傷がある。右目あたりから右頬まで切り傷がついている。その右目は光が宿っていない。おそらく見えていないのだろう。
「いえ、ただ、この花はどこでも咲き誇りますから。それを見ていると、なんだか、元気になれます」
ローズはそう答えた。男性は静かに笑って、しゃがんで足元の黄色の花を見る。そして、愛でるように撫でる。
「そうですね。どこにでもある花だからこそ、その魅力が案外わからない」
そう言って男性は遠くを懐かしむような眼で花を見た。少女は聞いてはいけないような気がしたが、男性に聞いた。
「あの、あなたもこの花に何か・・・・・・?」
「ああ、ええ。妻が、好きな花でね」
「奥さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ、この花のような金髪の。ですが、何年も前に生き別れてしまいましてね」
男性は寂しげに笑った。そして、顔の傷を撫でる。
「手放すつもりはなかったのにね。まあ、彼女は今も生きていると信じて、こうして旅をしているんだけどね」
「そうなんですか」
ローズは男性の顔を見ると、少し悲しい気持ちになった。だが、彼に微笑みを向ける。
「見つかるといいですね、奥さん」
「ありがとうございます。ところであなたの名前は・・・・・・・・・?」
「私、ですか?」
ローズは疑問に首を傾ける。なぜ名を問うのか、という風に。
男性は苦笑する。
「いえ、昔一時期お世話になった人に似ているものですから」
少女の紅い髪を見て、男性は言った。少女はどこか、既視感を覚えたがそれが何かはわからなかった。
「ローズです。もっとも、これは狩りの名前なんですけど」
そう言って記憶喪失だということを言うローズに、男性は大変でしたね、という。
「そうですか。とても似合っている名前ですね」
そう言い、男性は笑った。
「と、そろそろ行きますかね」
そう言うと、男性は歩き始めた。ローズはその男性の背に声をかける。
「あの、旅、がんばってください。えーと・・・・・・・・・」
男性の名前を言おうとして、ローズは口ごもる。それを見て、男性は笑う。
「私の名前はクロウドですよ、ローズさん。では、さようなら。また会う機会があれば、その時は」
「はい、さようなら。クロウドさん」
男性とローズの邂逅は終わった。
男性は一人、妻を探す旅の道を行き、少女は老婆の家へと向かっていく。
ローズはルニの手伝いをする。軽い農作業程度なら彼女にもできたし、ローズは経験があるのか、器用に畑仕事をこなしていた。
農村の者たちも、この若い娘を可愛がり、娘や孫のように思っていた。
村には若い人が少ない。これは数年前の戦争やそれによる不況の影響なのだという。
話を聞くと、ルニの娘夫婦は医者であったらしく、その戦争で死んだらしい。
彼女がローズに着せている服などは娘の物らしく、ローズに彼女の影を見ているのだろう。
ローズは記憶が戻るまでお世話になるのを苦にしていたが、自分がいることでルニの心が安らぐのなら、今のままでもいいかな、とさえ思っていた。
記憶がなくても、自分は幸せなのだ。記憶が戻ったとしても、それが辛い記憶ではないと言い切れはしない。ならば、今のままがいいのではないか。
ローズは、未だ塞がらない左手の甲の傷を見ながらそう思っていた。
夜。夢を見た。恐ろしい夢だ。
その夢を見たローズは荒い呼吸で目を覚ます。体中が汗ばみ、服が染み付く。不快な感触がする。
夢の中で、彼女は男たちに暴行された。言葉にできぬほどの凄絶な行為。そして、死に行く人々の声。
生き残った自分を、彼らの怨念が取り巻き、そして・・・・・・・・・。
ローズは頭を振る。忘れろ。あれは夢だ、と。今の自分には関係ないのだ。
あれがたとえ、現実であったとしても。
そして彼女は再び眠る。なかなか寝付けなかった彼女だが、深夜を過ぎたころには、安らかな寝息を立てて眠りについていた。
あくる日起きたのは昼ごろ。珍しくるには起こしに来なかったらしい。
目をこすりながら、居間に行こうとするローズの耳に、老婆と数人の男の話し声が聞こえる。ルニは、男たちに対していい印象を持っていないのだろう、言葉の端々に嫌悪感がにじみ出ていた。
「しつこいね、あんたらも!この村にはこれ以上、価値のあるもんなんかないよ!」
「ばあさん、あんたらは俺らから借金してるんだぜ、偉そうに言える身分じゃねえぞ?」
「人をだまして何を言うんだい!恥を知りな!」
「威勢のいい婆あだなあ!ええ?」
物音がした。ルニが呻く声がした。
扉の影にいたローズはたまらず、飛び出す。そして、ルニの手を掴み、抑えかかる三人の男を睨んだ。
「お婆ちゃんに手を出すな!」
ローズはたまらずそう言い、ルニと男の間に立ちふさがる。男たちはこの村のものではなさそうだった。
ローズの身体をじろじろと見て、男たちは嗤いだす。
「おんやあ、こんな若い子がまだいたとはな。ばあさん、この娘を方に差し出せば、赦してやらんでもないぞ?」
「何が赦すだ、恥知らずのガキども!」
「この婆あ!」
男の一人が手を挙げ、ルニに近寄ろうとする。ローズは素早くその男の方を向くと、右脚を突き出し、男の首に叩きつける。
予想外の攻撃と威力に、男は昏倒した。二人の仲間があ然とする。それは、ルニも同様だった。
「てめえ・・・・・・・・!」
「こんの!」
二人の男は呆けていた状態から立ち直ると、すぐにローズに向かって拳を出す。体格的にも少女は簡単に叩き潰される。
ルニは手で顔を覆う。ローズの痛められる姿を視たくなかったからだ。
だが、聞こえたのは少女の悲鳴ではなく、男たちの絶叫だった。
ルニが顔を上げると、男の一人は両目を抑え、もう一人の腕は不自然に折れ曲がっていた。
少女は毅然とそこに立っていた。
「お婆ちゃんにも、村の人にも手出ししないって、約束して」
両目を抑える、リーダー格の男にローズが言う。彼女の足は、男の腕を踏みつけていた。そしてそれをえぐるようにゆする。男は手の痛みに唸り、涙目になりながら言った。
「や、約束する!今後、この村には、近寄らねえ!だから・・・・・・・・・!!}
そう言った男は痛みの引いた眼を開いた。ぼやける視界の中で彼が見たのは、深紅の髪の少女。
その瞳は言いようのない何かを含んでいた。まるで、地獄のような何かを。
本能的に男は悟った。恐らく、約束を破れば、自分は死ぬ、と。
「その言葉、違えることないように」
そう言い、彼女は足を退ける。男は仲間たちを引きずりながら、ルニの家を出ると、村から足早に去っていった。
「お婆ちゃん、大丈夫?」
態度を変えたように、ローズが言うと、ルニは驚きながらもうなずく。
「ああ、傷にはなってないよ。すまないね、ローズ」
「ううん、おばあちゃんが無事なら、それでいいよ」
少女は屈託のない笑顔でそう言った。老婆は思った。この少女は優しい。だが、どこかに修羅のような激情を抱えている、と。
それは悪しきものではないが、決して善きものでもない。少女はそのような二元論的なもので語れるものではないのだ。
いつか、彼女はここを去る気がした。それは寂しいことだが、老婆はどこかそれを受け入れていた。
この少女は、農村で静かに生を終える人間ではないと、確信すら抱いていた。




