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王都は現在、人気はほとんどなく閑散としていた。
街の住民は一時的に、近隣の町や村への退去が命じられていた。現在残っているのは憲兵と軍人、プライドばかり高い大貴族、そして、不法に暮らしているスラムの住民の一部である。
王城はいまだに王や王族がいたが、厳重な警備で守られていた。さすがに建前として王が玉座を開けるわけにもいかずに、こうしてとどまっているのだ。
シャッハは巧みに姿をくらましながら、一人ずつ兵士を殺害して回った。軍の訓練を受けた兵士と言っても、ここ数年は戦争もなく、また軍備も縮小をたどっていたために、妄執の殺人鬼の前に話すすべがなかった。王都の入り組んだ街並みでは飛び道具を使うわけにもいかなかった。
また、シャッハを見つけられないのは、彼が巧妙に隠れているだけでなく、兵士として変装して中に交じっている、ということもあるからだった。
そのために、軍は内側から包囲網を崩された。
たった一人の人間に、軍が煩わされるなど、あってはならないことだ。キースは王城の中で爪を噛んでいた。
頼りの綱はもうない。どうやら、ヴェルベットはあの後戻っていないことから死んだらしいし、これ以上兵士を送り込むこともできない。周辺諸国へのけん制としての戦力として国境や地方に回している分まで王都に回すことはできない。
幸い、シャッハは王城までは攻めるつもりがないらしい。そのことだけが救いではあった。
しかし、このままでは国がマヒするし、王国の経済が破たんしかねない。早期にあの化け物を排除せねば、とキースは焦っていた。
エリスやリース、ジキストールらは旧ローゼリス領にいた。
王都からの避難命令を受けた彼女らは、ヴェルベットが出る前に残した指示でここに来たのだ。
シメオンがこの領地を手にしてからしばらくたち、住民も受け入れある程度の復興を遂げていたこの地にヴェルベットの知り合いたちは避難していた。
もともと、農業に適した土地らしく、そこそこの生活ができるまでになっていた。
エリスとしても、かつて一時期を過ごしたここに戻ってこれたのは、感慨深いものがあった。
エリスは元の領主の屋敷のあったところに来ていた。そこにはひっそりと小さな墓らしきものがあった。
聞くと、匿名の誰かが石碑を建てたらしい。石碑には、領主夫妻の名と『無念に死んでいった愛すべき人々に捧ぐ』という文字が刻まれていた。
おそらく、ヴェルベットが作らせたのだろう。遺体は残っていなかったとはいえ、墓もないのはあまりに寂しすぎると、彼女は思ったのだろう。
そんな彼女はどこに行ってしまったのかを、エリスは知らなかった。
結局、彼女は帰ってこなかった。死体すら発見されていないという。
生きているのならとっくに姿を現しているだろう。だが、未だ彼女の行方は知れていない。
ジキストールは毎朝、彼女のことを思ってハープを弾いている。その背中はどこか寂しげである。
リースはエリスやキャシーと戯れているが、やはりヴェルベットが気になるのだろう。眠りながら彼女の名を呟いていた。
シメオンも、妹のことは心配しているらしく、常にそわそわしていた。彼にとってヴェルベットは家の存続にもつながる重要な人物だ。その気持ちはわからないでもない。シメオンとしても、多少の情はあるのだろう。
野に咲くエリスの花を見ながら、少女は思う。彼女にエリスの花をくれた、紅い髪の友人のことを。
「ねえ、ヴェルベット。あなたはどこにいるの?」
少女は目を覚ます。激痛が身体を襲う。
寝台から体を起こし、シーツをめくると、包帯塗れの身体が目に飛び込む。左手は血が滲んでいた。感覚的に、穴が開いている、と少女は思った。
全身打撲や擦り傷だらけであった。手首は骨が折れているのか、巧く動かないし、喉も痛い。頭もくらくらするし、怠い。吐き気がした。
少女は右手で頭を押さえ、はっとした。
自分が誰なのかを、彼女は覚えていなかった。
少女はパニックに陥った。呼吸は荒くなる。
誰だ、私は?
そんな少女の耳にノックオンがして、扉が開く。入ってきたのは、人のよさそうな老婆であった。
「おや、目が覚めたね」
そう言い、老婆は混乱する少女に近づく。少女はその瞳に困惑を浮かべて老婆を見る。
「安心しな。何もしないよ。ただ腹が減ってると思ってね」
そう言い、盆に載っていた粥を少女の隣の机に置く。
「あの、あなたは・・・・・・・・・・?」
「あたしかい、あたしはルニ。しがない農村の婆さ」
そう言い、彼女は人好きのする顔で笑いかける。
「それよりあんた、大丈夫かい?川辺で倒れてたのを偶然通りかかったんだけど・・・・・・・」
「あの、私、記憶がないみたいで」
「そうかい。まあ、あの濁流で頭も打ったみたいだしね。見つけた日にはすごい高熱だった。命があるだけでも奇跡みたいなもんさ」
ルニはそう言うと、粥を掬い、スプーンを少女の口へと運ぶ。少女は黙ってそれを受け入れる。
「あの、すみません」
粥を飲み、少女が言うと、老婆は笑った。
「気にしない。怪我が治るまでは、しばらくここにいな。なあに、気にしなくていいよ。あたしも、独り暮らしで少し寂しかったんだ。娘がいるみたいで、けっこううれしいんだよ」
老婆はそう言って薬と水を飲ませると、粥の入った器と盆を持って出ていった。
少女はそれを見て安堵した。記憶はなくても、優しい人に救ってもらえるなんて、幸福だと思いながら。
夕食も寝台の上で、老婆に手伝ってもらいながら食事をした。老婆は少女に聞く。
「あんた、自分の名前も憶えてないんだろう?」
「はい」
少女は素直に頷くと、老婆はその白髪をかく。
「名前がないと不便だからねえ。そうさね、とりあえずあんたのことはローズと呼ばせてもらうよ」
老婆はそう言って、少女の紅い髪を撫でる。
「綺麗な紅い髪だからねえ。薔薇みたいな色合いだし、あんたに似合うと思ってね。厭かい?」
「いえ、まったく。ありがとうございます、ルニさん」
少女はそう言って笑う。老婆もその顔を見て、朗らかに笑った。
少女はローズという名に、何かを感じた。それは自分の名ではないが、なにかそれに近いものを感じたのだ。
それが何かは、まだ彼女にはわからなかったが。
それから数日もすれば、ローズは歩ける程度まで回復した。さすがに身体は衰弱していたし、手の傷は癒えていないが、杖さえつけば歩けた。
老婆の付添のもと、少女は外を歩いた。穏やかな農村で、家々の数はそう多くはない。田畑が広がり、自然があふれていた。
花々があふれる景色に、少女は感嘆の息を漏らした。
「綺麗」
「そうだろう、お。こっちきな、ローズ」
そう言い、老婆は少女の手を引っ張り、田畑の一角に行く。
「なんですか?」
「これを視な」
そう言って老婆がさしたのは、一本の薔薇。それは少女の紅い髪に似た色合いを持った、不思議な薔薇だった。
「滅多に見られない薔薇だよ、これは。貴族が愛用する薔薇でね。野性のものはほとんど見られないんだ。運がいいね」
「・・・・・・・・・・」
少女はじっくりとその薔薇を見る。不思議とその花を見たことがあるように感じた。
「ヴェルベットローズ・・・・・・・・・」
「よくしっとるね、ローズ」
「はい、なんだかこの花が、私にとって何か大事なものなんだと、思います」
「失くした記憶に関係するのかい?」
「たぶん」
そう少女が言うと、ルニは薔薇をやさしく地面から抜く。
「ほんとは抜くのはあれだが、まあいいさね」
そう言うと、大事そうに老婆はそれを持つ。
「あとで加工して枯れないようにして、部屋にでも飾ろうかね。もしかしたら、記憶も戻るかもしれんしね」
「そうですね」
二人は再び、元来た道へ戻ると、ゆっくりと老婆の家へと向かっていく。
ローズは老婆の手の中にある、薔薇を見る。薔薇の気高き姿が、彼女に何かを訴えていた。
『・・・・・・・・を、・・・・・・しゅうを・・・・・・・・・・・・!・・・・・・・・・・・・!!』
その声を、彼女はまだ鮮明には捉えられない。だが、それが大事なものであることは確かだ。
ローズは焦る思いを隠して、老婆と会話をしながら、家へと向かっていく。




