49
血の惨劇を引き起こした殺人鬼は深夜、独りそこにいた。
黒衣に身を包んだ長身の男は静かに立っている。彼を畏れて周囲からは人が消え、憲兵隊も厳重な守りで近くに人を引き寄せないようにしていた。
そんな状況は、男はすぐにでも解決できたが、そうはしなかった。彼は待っていたのだ。一人の人物を。
そして、こうして一か所にとどまることで彼女にメッセージを送っているのだ。俺はここだ、早くここに来てみろ、と。
あの女ならば、憲兵の手などあっさり破って自身の下に来れる、そう確信さえしていた。
月が雲に隠れたころ、男は閉じていた両目を開ける。そして口を開いた。
「来たな」
「ええ」
彼の背後に立つのは、紅い髪の少女であった。深紅のドレスに身を包んだ少女は、およそこの場には似つかわしい。
男は振り返る。そして男は予想通りだ、という風に肩を竦める。
「俺を殺しに来たんだな、『VENGEANCE』」
「ええ」
「俺の復讐を邪魔するのなら、お前も殺す」
「あなたの家族を殺したのは、ここの人たちではない。大貴族とつながりのある者よ。にもかかわらず、あなたは殺した。罪もない子供や、女性までもね」
「ここはゴミの集まる場所だ。もう、家族の復讐などどうでもいい。俺はゴミを排除するだけだ」
そう言い、シャッハはその狂気に染まった眼をヴェルベットに向ける。
「あなたは復讐者ではない、虐殺者よ。あなたは、私とは違う」
「いいや、同じだ。程度が違うだけだ、認めろ、ヴェルベット」
「認められはしない。私はあなたを止める。無念に死んだ者の仇を討つ」
男はクツクツと笑う。ヴェルベットをあざ笑うかのように。
「できるかな、お前に!!」
シャッハはその不気味な笑みを止めると、ヴェルベットに向かって何かを放り、自身も走り出す。
ヴェルベットはそれを最小限の動きで避ける。円盤だ。鋭利な刃が回転し、彼女の肉を切り裂こうとしていた。
ヴェルベットは反撃とばかりに、ドレスの袖から数本の針を投げつける。それは突進してきたシャッハの腕に刺さる。だが、シャッハはそれを即座にぬいて投げ捨てる。
シャッハは黒衣をまくると、腕には鉄板が仕込まれていた。
「お前の毒など、お見通しだ」
「っ!」
ヴェルベットはもろにシャッハの体当たりを食らい、弾き飛ばされる。木造の家屋の壁にぶつかり、壁を破壊する。
倒れた少女に、攻撃の手を緩める殺人鬼ではなかった。彼は腰から三本の鉄製のダーツを取り出し、それをヴェルベットに向かって放つ。少女は身を起こし、素早く避けようとした。二本までは避けられたが、三本目は彼女の左手の甲を貫いた。
「!!!!」
声にならない悲鳴を少女は上げる。だが、それを耐える。痛みなどで、泣きはしない。地獄はとうに見た。これ以上ない地獄を、それと比べたら。
少女は立ち上がって駆けだす。長身の男と少女の間には、大きな戦力差があった。それでも少女は戦う。
少女の中で語りかける怨嗟の声と、彼女自身の正義に従って。
「はあっ!」
少女は二本のナイフを抜き、両手に構えた。左手からは血が流れ続けるが、それを無視する。
少女は華麗なナイフ裁きとステップを披露する。踊るような斬撃が、シャッハを襲う。シャッハの頬をナイフが切り、全身にその刃が当たる。
シャッハは全身に傷を作るが、巧く致命傷を避けていた。そうやってヴェルベットの体力を削り、自身の反撃の機会を伺っていた。もともと、憲兵であり、生気の訓練を受けた彼とヴェルベットの間には大きな差があった。
『VENGEANCE』とただのシャッハであったなら、勝負はヴェルベットの勝利だったろう。だが、今や二人は同じ「化け物」である。ならば、どちらが強いのかは、もはやわかりきったことであった。
シャッハは呆れたようにため息をつく。その溜息がなんなのかを、彼はわかっていない。
ただ、失望した。この少女を満足させられる、と彼は思っていた。なのに。
目の前の少女は弱い。弱すぎるのだ。
「失望したぞ、ヴェルベット」
男はヴェルベットの両手を掴むと、強く握る。骨がきしむ激痛により、ヴェルベットはナイフを取り落す。ヴェルベットはそれでも、抵抗を辞めない。ヒールに仕込まれた鉄で、シャッハの急所を狙うが、シャッハはそれを自身の足で防ぎ、その華奢な足を蹴り上げる。
ヴェルベットの口から、声が漏れた。痛みに呻く声が。
「無様だな、『VENGEANCE』。人間としての幸福を見つけ、お前は弱くなったようだな!復讐の女神、などと笑わせてくれる!」
シャッハは嘲笑を上げて、ヴェルベットを見る。彼女の首を絞める。ヴェルベットの両手がそれを振りほどこうとするも、圧倒的な力の前には成すすべもなかった。
「だが、安心しろ、ヴェルベット。お前の役割は、この俺が次いでやる」
シャッハは狂気に満ちた瞳でヴェルベットを見ていた。彼は歩き出す。片手に少女を持ったまま。
彼はスラム街の端にいた。そして、その端に流れる川がある。川は今、連日続いた雨で水かさが増し、勢いも強くなっていたのだ。ここに呑まれたら、命はまずない、と言われるほどの激流である。
その時、ヴェルベットは悟った。この男は自信をこの川に投げ入れるつもりだ、と。
少女は抵抗した。生への執着が彼女を動かした。まだ、死ねない。ジキストールやエリスらが待っている。それに・・・・・・・・・・。
少女の中に思いが奔る。それは、忘れた、捨てたはずの復讐の念であった。
自身のどうしようもなさに、涙を流す。死の間際にいても、幸せを手に入れても、彼女は結局、復讐をせずにはいられないのだ。そのことを、今になって悟った。
だが、もう遅い。少女はこれから死ぬのだから。
自然の力には勝てる気がしなかった。激流の中には大木や岩すら見える。
シャッハは無慈悲に彼女を見る。迷いはなかった。少女はこの中に投げ捨てられるのだ。
「どうだ、死ぬのが怖いか」
涙目の少女に向かって、シャッハは言った。
「安心しろ、すぐにお前の仲間たちもあの世に送ってやる。この王都は俺が清掃してやる。こんな、血に塗れた街など、俺が消し去ってやる」
「あなた、なんかに、この街を、消させはしない・・・・・・・・・!!」
「この期に及んで威勢だけは立派だな!だが、それも終わりだ」
シャッハは川べりに立つと、両手でヴェルベットを高らかに持ち上げる。
「さらばだ、『VENGEANCE』・・・・・・・・・王都にも、この世界にももはやお前は必要ない。先に地獄で待っていろ」
そう言って、殺人鬼は濁流の中に、傷ついた一凜の薔薇を投げ捨てる。
少女はその瞳に、あらんかぎりの憎悪と怨嗟を込めてシャッハを見る。そして叫ぶ。
「私は戻ってくる!たとえ、何度死のうと、復讐のために!」
そして、彼女は濁流にのまれた。無慈悲な自然の前に、少女は姿を消した。
この流れでは助かるまい、とシャッハは感じた。そして、これで自分の邪魔をする障壁は完全になくなった。
まずはこのスラム街を始末しよう。そして次はこの王都に巣食う、権力を振り払う貴族・王族だ。
最終的には、この街を地図から消し去る。
そんなことを、殺人鬼は考えていた。殺人鬼を止める者はもういない。彼を止めるべき『VENGEANCE』は死んだのだ。ほかならぬ、彼自身の手によって。
男の狂気は止まることを知らない。彼の中の正義はもはや、妄執によって歪められていた。
血塗られた舞台はまだ、始まったばかりだ。




