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群がる人波を適当にかわしながらヴェルベットは会場の隅に行こうとするが、それは流石に不可能であった。彼女を放っておくものなど、いないのだから。
仕方なくヴェルベットは集団の相手をする。
そのうちに、ブルクステン伯が会場中央にやってくる。そして話に沸いていた集団も、口を閉じ伯爵の言葉を待つ。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
伯爵はよく通る声でそう言った。
「今日はささやかながら食事も用意しておりますので、お楽しみいただければ、と思います」
伯爵は挨拶もそこそこにその場を去る。ブルクステン家の使用人たちが食事を運び、卓の上に置いていく。会場の貴族たちは卓上の食事に向かっていく。そして食事をしながら話に花を咲かせていく。
ヴェルベットは使用人たちの中に、よく見知った顔を見たような気がした。それも、二人も。
(エリスに、キャシー?)
二人は返送しているつもりなのだろうが、ヴェルベットの目はごまかせなかった。
何をしているのか、時になったヴェルベットの下にアルミラがやってくる。その隣には穏やかそうな若い男性が立っていた。
「ヴェルベットさん、楽しんでいらっしゃる?」
「ええ」
「まあ、あまり愉快ではないようですわね」
アルミラはヴェルベットの心中を察し、苦笑する。隣の男性も苦笑している。貴族らしくない様子に、ヴェルベットは彼こそがアルミラの夫なのだと悟る。アルミラが結婚した平民の男性。それを堂々と隣に従えているアルミラは流石だとヴェルベットは思った。
「ああ、こっちがわたくしの夫のフィルですわ。フィル、こちらがヴェルベット・ヴェストパーレさん」
「よろしくお願いします」
「はい、お願いします、ヴェルベットさん」
穏やかに笑ってフィルは言った。ヴェルベットはこのような男性がアルミラに適しているとは思えなかったが、案外こういう男性の方が彼女にはふさわしい、ということなのだろうか。
「ヴェルベットさん、アルミラはこういう性格なので、敵も多いですが、よろしくお願いします」
「まあ、フィル。わたくしはあなたさえいれば、それでいいのよ」
「まあまあ、アルミラ」
惚けるアルミラを苦笑しながらフィルがなだめる。案外、アルミラは女らしい人のようだ。
ヴェルベットは内心苦笑する。
「あ、あと今日は豪華なゲストを連れてきていますのよ」
アルミラがそう言い、前にある大きな舞台を指した。
「わたくし、この間初めて聞いたのだけれども、惚れ惚れとしましてね、ある人に夜会の演奏を頼みましたの」
アルミラはニコリと笑いながら言った。
「盲目のハープ弾き、だそうでね。なんだか物語に出てくる人みたいじゃない?」
アルミラの言葉に、きょとんとするヴェルベット。その顔をおかしそうにアルミラは見る。
ヴェルベットはここにきてようやく、アルミラの真意を知った。恐らくはキャシーとエリスと結託して、何かしようとしている、と。
彼女はヴェルベットよりも一つ年上であるが、時折子供らしいことをする人であった。
それが彼女の魅力の一つではあるが。
「ほら、彼ですわ。ジキストール・ウォーデンですわ」
ヴェルベットはアルミラの見る方向を見ると、あの日見た盲目の若者が立っていた。
そして、観客に礼をすると、静かに椅子に座る。杖を持っておらず、近くには恐らくウォーデン男爵家の使用人だろう人物が立っていた。
その人物からハープを受け取ると、彼は繊細な、だが男らしい指でハープを奏でる。
会場が静まり返り、ハープの美しい響きに満たされる。
その指が奏でる詩は、優しく、儚い。
ヴェルベットはあの時と同様に、彼の奏でる音に聞き入った。
心は穏やかであった。かつて、これほどまでに穏やかであったことはない。
復讐に身を焦がし、仮面を身に着けた女は、確かに安らぎを感じていた。
そして、自分でもよくわからない感情が胸の内にあることを感じた。
ヴェルベットの目は、彼にくぎ付け出った。エリス、キャシー、アルミラ。三人の女性たちは物珍しくヴェルベットを見るが、彼女はそれにすら気づいていない様子だった。
彼女自身、わかっていないのだろう。理屈では説明できない、その感情の正体を。
長い旋律が終わる。彼はハープを手に立ちあがり、優雅に頭を下げる。
彼が頭を下げると、それまで静まり返っていた群衆は湧き、拍手が会場内に響いた。穏やかな顔でそれを若者は受け止めていた。
我先に、と声を駆けようとする者たちに対し、アルミラが手をたたき、止める。
皆、不思議と静まり返り、アルミラを見る。
「こほん」
わざとらしく言うと、アルミラはよく通る声で言った。
「ウォーデン氏は次の演奏まで少し休まれるので、お話は次の演奏の後に」
そう言い、アルミラはウォーデン家の使用人を見ると、使用人はハープを持つと、ジキストールの手を引き、奥にある控室へと消えて言った。
「わたくし、これから彼と打ち合わせがあるので、しばらくはこちらでお食事とダンスを」
そう言うと、違う控室から楽器を持った集団が現れる。ブルクステン家お抱えの合唱隊だ。
彼らの演奏が始まると、だれともなく、自然にダンスを始める。
ヴェルベットもダンスに誘われるが、それをアルミラが遮り、ヴェルベットの手を引く。
「あなたに紹介したく思うのですが、ヴェルベットさん。こちらに」
そう言い、笑うアルミラをヴェルベットは見る。
「今回は何をたくらんでいるのかしら、アルミラさん」
「たくらんでいるとは、心外ですわ」
いたずらっ子のような笑みを浮かべてアルミラは言った。
「そんな気持ちは毛先ほどしかございませんわよ?」
ヴェルベットは半眼でブルクステン家の令嬢を睨んだが、令嬢はどこ吹く風と無視して、控室へと急ぐ。
ヴェルベットは流されるまま、そちら気と向かって行った。
中へ入ったヴェルベットとアルミラ。彼女たちの前には、先ほどの若者がいた。
閉ざされた眼。だが、それはまったく彼の欠点ではなく、むしろ彼の神秘性を引き出しているようにすら思える。
ヴェルベットは呆然と彼を見る。
「ジキストールさん、こちらわたくしの友人のヴェルベット・ヴェストパーレさんよ」
アルミラが言うと、ジキストールは彼女たちの声の方向に顔を向ける。そして、顔を笑みに変える。
「ああ、あなたがあの」
そう言い、ジキストールは手を差し出す。ヴェルベットも自身の手をそこに重ねる。
「ええ、いつか会いましたね」
そうヴェルベットが言うと、彼の笑みはより明るくなる。
「ああ、あなたですか」
そう言い、ジキストールはヴェルベットの手を撫でる。その手の暖かさに、なぜかヴェルベットはほっとする。
ヴェルベットは隣を見たが、隣にいたはずのアルミラはいなかった。
扉は閉められ、誰一人入ってこないであろう、という予感があった。
何故ならこれはあのアルミラのたくらみなのだから。
仕方ない、とため息をつきつつも、なぜかこの状況を喜ぶ自分がいることに、ヴェルベットは気づいた。
戸惑いながらも、ジキストールと話し出すヴェルベット。
どれほどの時を語り合っただろう。
ヴェルベットは彼に自身の幼少期の話をした。それは今では彼女以外に知る者がいない、記憶。決して誰にも話すことがないであろうとさえ思った記憶。
なぜか、彼にならすべてを、自身のすべてを話してもいい、とさえ思えるのだった。
「いや、これほどまでに話したのは、初めてです」
彼はヴェルベットに笑いかけて言った。
その唇の動きを、ヴェルベットは見ていた。
「ああ、目が見えないことがこれほどまでに憎らしいと思ったことはない」
気取った感じもさせずに、ジキストールが言うと、ヴェルベットの顔は真っ赤になった。
そして、その時になって初めて、ヴェルベットは気づいた。
自身が、彼に対して好意を抱いていることを。それも友情ではない、恋情である、ということを。
その瞬間、ヴェルベットの中に、あの忌まわしき記憶がよみがえる。
死の記憶。怨嗟の声。それは、彼女の中で強く叫ぶ。
ヴェルベットははっとし、ジキストールとの会話を途切れさせる。
不審に思う彼の前から、ヴェルベットは走って扉を開け、去っていく。
そして、会場からも出て、一人夜の街へと走り出す。
ヴェルベットは自分を責めた。
いけない。いけない。これは、いけない。
私は『VENGEANCE』という復讐者。人波の幸福を願うことなど、あってはならないのだ。なのに。
ヴェルベットは、受け入れられなかった。死んだ者たちの怨嗟を忘れ、幸せを掴もうとする自身の醜さを。
紅い髪の少女は独り、月に吠える。
孤高の女神を、静寂が迎えた。




