40
ラースは死の危機に瀕しても、自身の体面を守るため、人気の少ない場所を走る。それはかえって復讐者の追撃を許した。
後ろを見ると、あの女がいる。息も上げずに、ただただラースを追っている。
ラースは混乱する。息も上がり気味なラースは、一応軍役も受けたことがある。体力的にも女には負けない、と思っていた。それに彼とグレゴールが脅していた彼女は、無力な女でしかないはずだったのだ。
にも拘らず、女はラースを無表情に、憎しみの瞳で追っているのだ。
あり得ない!あり得ない!
ラースは叫ぶ。あれは人間ではない。あれは人間ではない!ラースは確信を持って言える。
ヴェルベット・ヴェストパーレは化け物だ、と。
ヴェルベットは走りながらラースに何かを投げる。それは小さな針であった。針はラースの傷を負った左肩に刺さる。
体のだるさがより一層ひどくなる。ラースは毒づく。この体の不調もすべて、あの女のせいだ、と。
「くそ、俺が何したってんだよ!」
叫ぶラース。彼の目の前に見えてきたのは、壁。
ラースは焦った。必死で逃げるあまり、よく知りもしない路に迷い込んだのだ。そして、自分から行き止まりへと来てしまった。
ラースは後ろを振り向いた。紅い髪の復讐者が、血のような色のドレスを揺らして立っている。
月明かりに照らされたその顔は妖艶であり、魔性の魅力を秘めていた。本性を知らなかったら、そのまま押し倒していただろう。だが、ラースにはもはやそれはできない。
「追いかけっこはお終いね」
ヴェルベットは笑う。そしてラースに近づく。
「お前が、グレゴールを殺したのか!?」
ラースの叫びに、少女は笑う。
「その通りよ」
そして少女は冷酷な笑みを浮かべて話し出した。グレゴールの死に際を。
突然、家に来たヴェルベットを警戒せずに迎え入れ、無理やり押し倒そうとしたこと。そしてそこでヴェルベットによって逆に刺されたこと。ナイフの毒によって致死量に近いを身体に抱え込み、倒れ苦しんだこと。その男を、肉体・精神共に苦しめたこと。
ヴェルベットはラースにその様子を聞かせる。彼女は冷酷に笑う。ラースは恐怖に体が動かなかった。毒によって、身体はボロボロだった。
ラースは女を見る。女はヴェルベット・ヴェストパーレではない。『VENGEANCE』という復讐鬼であった。
ヴェルベットは語り終えると、ラースに近づく。そして、その毒牙を振り上げた。
ラースは最後の力とばかりにヴェルベットの毒牙を避け、彼女に体当たりし、そのまま彼女の向こうへと逃れる。
そしてそのまま逃走を始める。
ラースは後ろを向き、安心する。女は追ってこない。
死んでたまるか。その思いだけで走り出すラースは、屋敷に帰り、父や重臣にあの女を逮捕するように言おうと決心した。憲兵が総出であの女を捕まえる。何せあの女は犯罪者なのだから。
そうだ、自分は哀れな被害者なのだ。ラースはそう思いながら走った。そんな彼の前に、再びあの女が現れた。
ひい、と声を上げ、逆方向に走るラース。それを女は追ってくる。
遊んでいる。あの女は俺で遊んでいる!俺を追いかけて俺を徹底的に追い詰めてから殺す気なのだ、と。
彼には逃げ場がない。
周囲を見て思い浮かんだのは、兄であるキース。
癪だが、死にたくはない。
ラースはキースの屋敷へと走っていく。そして、彼は屋敷の門をたたき、出迎えた執事によって家の中へと通される。
その際にふと見た向こうに死神はいなかった。そのことにほっとしたラースは、兄であるキースの部屋へと向かっていった。
キースはいつか見た時と同じように書類を手にしていた。そして入ってきたラースを一瞥していった。
「珍しいな、お前がこの下船並みの俺に会いに来るなど」
兄の嫌味に答えるだけの余裕はラースにはない。
「兄上、ヴェルベット・ヴェストパーレを今すぐ逮捕してください!」
血相を変えて言うラースに書類から目を上げたキースが疑問の瞳を向ける。
「何?」
「あいつは『VENGEANCE』だ、何人も殺してきたんだ!今日は、俺を殺そうとしたんだぞ!王族たる俺を!!早く捕まえろ、あの反逆人を、そして処刑するんだ!!」
「お前、気は確かか?顔色が悪いぞ」
「それもこれも、あの女のせいだ!はやく、してくれ・・・・・・・・・!!」
必死の形相のラースが兄に詰め寄った時、部屋の扉が開かれて、件の少女が現れた。
ラースはそれを見る。死神は三度、彼の前に舞い戻ってきたのだ。
「何故、貴様が・・・・・・・・・!?」
その瞬間、ヴェルベットが一歩を踏み出し、その指をラースの左肩の着ずに埋め込む。そして中に刺さっていた針をえぐる。悲鳴を上げるラース。
「待て、ヴェルベット。いかに君でも、こいつを殺させるわけには・・・・・・・・・」
そう言い、キースがとめるが、ヴェルベットは危機はしなかった。
「そう、こいつが王族だから?あなたと同じ」
「・・・・・・!!気づいていたか」
キースはそう言い、ヴェルベットを見る。
「ならわかるはずだ。王族殺しは見過ごせない。いかに、こいつが下衆な人間だろうと、な。ヴェルベット、今回はあきらめろ」
「それは無理ね」
そう言ってヴェルベットはキースを見る。思わずキースの背に戦慄が走った。
キースは初めて見た。これほどまでの憎悪を宿した彼女の瞳を。今までの彼女の怒りなど、比ではなかった。彼女の瞳は語る。邪魔をするなら、お前もただでは済まない、と。
「や、やめろ」
ラースは涙交じりに言った。力なく、威張り散らすことなく。
「俺は、王族だ。俺を殺さないでくれ、頼む。何でもする。謝罪でも、金でも、何でも与える・・・・・・だから」
「そう・・・・・・・・なら」
そう言い、彼女は肩から指を引き出し、ラースを見る。美しく笑って彼女は形のいい唇を動かす。
ラースは安心したが、彼女の告げた言葉に再び顔を強張らせることとなった。
「なら、あなたの命をちょうだい?それで許してあげるわ」
そう言い、少女の両手がスカートの中に入ったかと思うと、二本のナイフが握られてそれでラースの両足を貫いた。ラースはその場に倒れる。
「うあああああああああああああ」
「あなた、私が赦すと思っているの?だとしたら、とんだ間抜けね」
そう言い、ヴェルベットは彼の髪を掴み、床に叩きつける。
「あなたは私に何をしてきた、何をした!何人の命を、幸福を奪った!お前一人の命では足りないほどのものを奪ったんだ!!」
激昂するヴェルベット。キースは呆然とそれを見る。これほどまでに、怒り狂う少女を、今まで彼は見たことがなかった。彼は知らなかった、本当の『VENGEANCE』の姿を。
「私を抱き、酒を飲んだわね、あなたたちは。まったく、やりやすいったらありゃしないわ。酒にも私の身体にも、毒を仕込んでいたのよ。あなたたちはそんなことも知らずに私のところに来てくれた」
ヴェルベットは笑って言った。彼女は自身の身体すら、復讐の道具としていたのだと、ラースは知る。
狂っている。この女は、狂っている。
「この、狂人め・・・・・・・・!!」
「ふふふ」
おかしそうにヴェルベットは笑う。そして倒れ込むラースの上にまたがり、嗤う。
「あなたたちが私を生んだのよ。『VENGEANCE』をね」
そして、彼女の美しい唇がラースのそれに近づく。ラースはもう知っている。彼女のキスは、死をもたらすものであることを。
ラースは逃れようと体を動かす。だが、自由はもはやない。ラースに待つのは死の未来だけであった。
「楽には殺さない」
ヴェルベットが囁く。
「男として生まれたことを後悔させてあげる。そして泣き叫びながら逝きなさい。自分たちが殺した人々の怨嗟に塗れて、絶望の淵に叩き落としてあげる」
ラースを苦痛が襲う。
少女は男の股間にナイフを当て、そして・・・・・・・・・・・・。
思わずキースはその光景から目をそらした。そしてその部屋に鍵をかけ、出て行く。
ラースの絶叫。だが、その声がほかのものに聞こえることはない。防音の対策がされた部屋故に、その声が漏れることはなかった。
キースが部屋に戻った時、そこには一つの死体があった。
幼いころより知っている、腹違いの弟。決して好きではなかったが、それでも弟であった。それなりの嬢はあったつもりだった。
それがこうも呆気なくこと切れている。呆気なく、とはいったが、全身を数十の肉片に分断されては生きていることは不可能だ。
床に転がるのは原形を留めぬラースの頭部。その顔は苦悶が浮かんでいる。
キースは少女を見る。
血に塗れてもなお、美しく微笑む少女に、キースは震えあがる。
彼が手を結んでいた少女は、はたして人間なのか?
これほどの行為を行えるだけの彼女を、利用しているつもりだったキース。だが、利用していたのは彼だったのか?
恐れを抱くキースに、復讐の女神はただ微笑んだ。そして彼にキスをする。
血の味がした。それがだれの血の味なのかは、キースにはわからない。




