38
ヴェルベットは王都のとある医院にいた。その医院の奥の部屋に横たわるのは、娼館のかつての主ハボックである。恰幅の良かった身体は今では痩せこけ、その顔には生気がない。感染症による体力の衰えは明らかだった。薬で進行を抑えてはいるものの、それも限界があった。
ハボックも医者からもう長くないことを聞いていた。彼はそれほど落胆はしなかった。彼の父親も、彼と同じくらいの年に死んだ。父親は彼とは違い、裏稼業に染まりきっていた。仲間の怨みも買い、それで殺された。随分と痛めつけられて死んだらしい。
それと比べたら、まだいい方か、とハボックは思った。体は徐々に動かなくなっているが、痛みはないし、感覚もほとんどない。苦しみはない。ただ、死への恐怖と少しの不安があった。
「ふん、本当に、喰えない女だ」
ヴェルベットを見てハボックは言った。その声には覇気がない。ヴェルベットは笑わずにハボックを見た。
「あなたの築いた店を、変えた私に怨みはありますか?」
ヴェルベットの問いに、ハボックは力なく笑った。
「いいや、どうせ儂ももう死ぬ。お前に後を任せたのだ、好きにしろ」
そう言い、ハボックは咳をする。ごほごほ、と大きな音が病室に響いた。
「儂もな、若いころは世の理不尽に抗ったものだ。だが、それに敗けて、娼館の経営者となったがな」
ハボックはそう言い、ヴェルベットを見た。
「お前は儂とは違う。その目に宿る色を見ればわかる。ただの娼婦で終わる女ではないと思っていたが、まさか伯爵家の娘とはな。儂の目も曇ったな」
「・・・・・・・・・・・」
ヴェルベットは沈黙する。ハボックは顔をヴェルベットに向ける。その顔はどこか安らかであった。
「最期に、ひとつ、頼みを聞いてはくれまいか?」
ハボックの言葉に、ヴェルベットは頷く。ハボックは決していい人物ではなかった。娼館の娼婦たちにとっても、自分にとっても。だが、彼のおかげで女性たちが地獄を見ることがなかったのは事実だ。借金の方に、奴隷となる者さえいるのに、娼婦として最低限の生活は保障されたのだから。
それに、死の間際の人物の願いを無下に断れるほど、ヴェルベットは非常ではない。その人物が犯罪者でない限り。
「儂には一人、娘がおるのだが。その娘は愛人との子供だ。まだ、七歳でな」
聞くと、母親は感染症で死んだ愛人らしく、ハボックから事情を聴いた憲兵が愛人宅に行き、その娘を見つけたらしい。
「正妻との子供は、もう大人だし、稼ぎもある。心配はないが、あの娘は違う。勝手なことだが、彼女の後見人を頼めんか?」
ハボックの顔は子を案ずる親の顔であった。ヴェルベットはこの男のこんな顔を想像できなかった。
だが、これが親なのだ、とヴェルベットは思った。親は子を愛する。血が繋がろうと、そうでなかろうと。
ヴェルベットはほほ笑んだ。そして、ハボックを見て言った。
「わかったわ。だから、安心して眠りなさい」
「・・・・・・・・・・・・・そう、だな」
ハボックはそう言い、目を閉じた。ヴェルベットは彼の心臓の鼓動が止まるその瞬間を見届けた。
そして、一人の男が死んだ。ヴェルベットは見舞いのために持ってきた花束の中から、紅いバラの花を一本取りだした。彼女の名の由来である一本のヴェルベットローズの花を。
彼女はハボックの胸元にその花を置くと、病室を出た。
ヴェルベットは医院を出ると、ある孤児院へと向かう。そこにハボックの七歳の娘がいるのだという。面倒な手続きは事前にハボックがやっていたらしく、死の間際に書類をもらっていた。
断るとは思っていなかったのだろう。後見人の名前はヴェルベット・ヴェストパーレと書かれていた。
ヴェルベットはそこに自身の持つ判を押した。これで、書類は正式なものとなった。
孤児院の一室にヴェルベットは案内された。そこに、件の娘がいるようだ。
その扉を開け、ヴェルベットは部屋へと入る。質素な部屋で机と寝台、それと数個の箱が積み重なるだけであった。その部屋の中心に少女はいた。
ところどころ跳ねたクリーム色の髪の少女。まだ小さな体の彼女は、ただ一点を見ていた。その目にはしかし、何も映ってはいない。
無理もない、とヴェルベットは思った。まだ、両親が死んで間もない。その死を受け入れ、理解するには少女はまだ子供なのだ。
ヴェルベットはいまだに両親たちの死を受け入れられず、復讐に燃えているのだ。七歳の少女は言わずもがな、である。
ヴェルベットは少女によるが、少女はそれに気づかない。いや、気づいているのかもしれない。ただ、彼女を見ないだけで。
ヴェルベットは少女の前に座る。少女の視線がヴェルベットを向く。あどけない、緑色の瞳がヴェルベットの瞳を覗き込む。
「こんにちは」
「・・・・・・・・・・」
ヴェルベットの言葉に、少女は沈黙で返す。そして、胸の中で何かを抱きしめた。ヴェルベットが見ると、それは黒いクマのぬいぐるみであった。
「お友達?」
「・・・・・・・・・・」
コクンとうなずく少女に、ヴェルベットはほほ笑んだ。
「あなたのお父さんに、頼まれたの。あなたのことを」
そう言うと、少女の目から涙が出てきた。両親のことを思い出しているのだろう。ハボックの様子からも、愛人のことは言え、愛されて育っていたことがわかる。
少女のあふれ出る涙を、ヴェルベットはハンカチを取り出し拭う。そして少女を見る。
「さあ、行きましょう」
ヴェルベットはそう言い、少女に手を差し伸べる。少女は涙をぬぐい、ヴェルベットを見た。そして、その手を握る。少女自身、なぜその手を握ったのかはわからなかった。だが、初対面の紅い髪の女性は、不思議なまでに安心感を与えてくれたのだ。
少女が立ち上がると、ヴェルベットは言った。
「私はヴェルベットよ、あなたは?」
少女は口をもごもごした後、小さな声で言った。
「リース」
「リース。そう素敵な名前ね」
そう言って、彼女のクリーム色の髪を撫でた。目をつぶり、なすがままのリースだが、不思議と悪い気はしなかった。
二人は手をつなぐと、孤児院を出て言った。そして、彼女たちの家へと向かっていくのだった。
リースはヴェルベットの義妹としてヴェストパーレ家に引き取られることとなった。これはヴェルベットの決定であり、シメオンは黙ってそれを受け入れた。妹をとどめるためには、彼女の要求に否とは言えない。シメオンは妹の扱いに困っていた。ヴェルベットは兄の苦言にも耳を貸さずに、好き放題に振舞っていた。
好き放題、といっても普通の貴族令状のように金の散財をするわけではない。慈善事業への投資や、女性の地位向上のための活動など、社会活動が主であった。
若い女性貴族としては、ヴェルベットは異端であった。幼少期の経験や娼婦時代の彼女があったため、貴族らしさはない、だが魅力ある女性へと育っていた。彼女の魅力は徐々に広がっていった。若い男性はその美貌に魅かれた。だが、世の男性たちよりも女性たちの方が彼女に心酔していた。
強く、美しい女性。その姿に、多くの女性が共感し、支持したのだ。
王都において、ヴェルベットはもはや無視できないほどの力を持つ人物へとなっていた。
「まったく、飽きさせないな、君は」
キースは自身の屋敷でそう呟いた。そしてある書類を見た。
「ローゼリス領の事件・・・・・・・・・それが、彼女が『VENGEANCE』となった原因、か」
そう言い、その書類を引き出しにしまうと、キースは窓の外を見る。
夕日が沈み、夜が訪れようとしていた。
「まだ、事件の全貌はつかめないが、まったく、犯人たちも運がないことだ」
日が沈んだ時、王都の支配者は変わる。
「彼女が出てきたことで、王国は大きく変わることとなったのだから」
夜の街を恐怖が包む。
夜は紅い復讐者の時間だ。




