32
私はクロウドとともに、彼の一族の下から逃れ、王都へと向かっていた。
エルマの故郷である王都周辺で一からやり直す。クロウドは私にそう語った。
エルマの望郷の念を知っていたクロウドの親切心に、私は感謝した。
冷たい夜の闇の下、肌を寄せ合い、身を温める。
馬小屋の中でも、度々こうしていたが、もう、人の目を気にする必要はない。
もう、独りではない。私の心は、安堵に満ち溢れていた。
長いたびの道のりだった。
少しの金のみを二人は所持しており、ろくに宿代も馬も買えなかった。また、クロウドの父が捜しているであろうことは予想できたため、街道などの公の道はなるべく避けていた。
森の中を走り、獣に追われることも多々あったが、二人は無事に森を抜け、王都に徐々に近づきつつあった。
しかし、二人の精神も肉体も大いに疲れ果てていた。
そのうち、私は倒れてしまい、立つことができなくなった。ろくな食事もとれずにいたためだ。それはクロウドも同じだったが、彼は愛する少女を抱えて歩き出した。それは、執念のなせる行動だった。
それから三日三晩、クロウドは歩き続けた。くじけずに歩き続けた彼だったが、ついに倒れてしまう。
目をつむり、ぐったりとしている私を見て謝った。
「すまない、無謀なことだったのだ、最初から」
「いいの、あなたと一緒なら、たとえ、死んでも」
あそこから連れ出してくれた彼への感謝をこめて私は言った。たとえ死んでもいい、その気持ちに嘘はない。あのままでは死んでいた命。拾った命と、その後の彼との時間は、かけがいのない思い出となった。
もう、死んでも悔いはない。そう思った私は、なけなしの力で腕を動かし、彼の手を握りしめた。
「クロウド」
「エルマ」
二人が呟き、死の訪れるその時まで手を離さない、と互いに誓い合った。
そのうち、私の意識はなくなっていった。クロウドの呼び声がしたが、もう、私にはこたえる力はなかった。
暗闇が訪れた。
死んだの?
誰に問うわけでなく私は呟く。
暗い、ただ暗いそこに、私はいた。あがく。だが、暗闇は深く私を沈み込ませて、解放しない。
死にたくない。
私は手を伸ばす。必死に。誰も助ける者がいないと知っていてもなお。
死にたくない!
クロウド、家族の顔が浮かぶ。
まだ、まだ・・・・・・・・・・・・・!!
そんな私の手を、誰かが掴み。
暗闇の中から引き上げた。
目を覚ますと、私は寝台にいた。私はあたりを見た。豪華、というわけではないが整った部屋の中に私はいた。
空腹も、体の不調も感じない。心臓の鼓動がした。
生きている、と私は実感すると、寝台から立ち上がろうとし、転ぶ。脚に力が入らなかった。
寝台に手をつき、立とうとした私を、部屋に入ってきた少女が見た。
「無理しないで」
自分と同い年ほどの紅い髪の少女は、手に持ったお盆を机に置くと、私の前に来て体を支え、寝台に座らせる。
「私と一緒にいた、男の人は!?」
私はすぐさま問う。紅い髪の少女は、心配を浮かべていた顔をにこりと笑いに変えて、私を見た。
「安心して、あの人は別の部屋で寝ているわ。あなた同様、今は療養中。命に別状はないわ」
「よかった・・・・・・・・・・」
私は安堵のため息をつく。心の底から、私は安心し、寝台に倒れた。
「・・・・・・・・・ここはどこですか?」
おそらく、貴族の子女だろう、と私は思った。少女は美しく、精錬された動きであった。身なりこそ、平民に近いが、そんな雰囲気がした。
「ここはローゼリス。広大な自然だけが取り柄の田舎領地。あなたが寝ているのは、そこの領主の館」
そう聞いて私は驚き、すぐさま身を起こそうとすると、少女はクスクスと笑った。
「安心して、お金とかいらないから。私があなたたちを見つけたんだけど、放っておくわけにもいかないじゃない?」
少女は笑う。その笑みは、はるか昔に自身の失くしたものであった。人の善意だけを信じていたあの頃の私のように。彼女は損得勘定なしで、善意でここに連れてきてくれた、それが感じられた。
「ありがとう」
私が言うと、少女は笑った。
「気にしないで、困ったとき、手を差し伸べる。人として当然のことをしただけよ」
そう言って少女は私に手を差し伸べた。まるで、握手をするように。
「私は領主の娘のヴェルベット・ローゼルテシア。あなたは?」
私は少し考えた。なんと名乗ったものか、と。私は少女を見た。少女は笑って私の返事を待っている。
私は迷った末、「エルマ」とだけ答え、おずおずと手を差し伸べた。
少女は優しくその手を掴む。
その手の温もりが、私の心と体を温めた。
それから数日ほどを、この寝台の上で過ごした。
この土地の人たちは領主をはじめ、いい人たちばかりだ。
領主・貴族と言えば、まずいい印象はないが、ここの領主は領民に慕われ、一緒に畑仕事さえしていた。
その娘のヴェルベットも、父親や年上の男の人たちに交じって農作業をしていた。きつい仕事にも、笑顔で取り組んでいた。
最初のころは寝台から離れられなかった私の下に来ては、クロウドの様子や、農作業のこと、自分のことを話してくれた。
彼女の話をほとんど聞いているだけだったが、彼女はそんな私に気を害するわけでもなく、笑顔で接してくれた。私も、安らかで楽しい時間を送れた。
初めてといってもいい、女友達の存在に私はどれだけ支えられたか。
一週間がたち、身体も調子を取り戻した。それは彼も同じらしく、ヴェルベットが私を彼の部屋まで引っ張っていく。
「ほら、クロウドさんもあなたを待ってるよ!」
「わあ、ヴェル!引っ張らないでよ!」
よろける私を見て、彼女は笑う。自然と私も笑顔になる。
「クロウド!」
「エルマ!」
彼の部屋に入った瞬間、彼の元気な姿が見えた。私は跳びついた。そして、彼の胸の中に顔をうずめて泣いた。
ヴェルベットはにこやかにそれを見ると、静かに部屋の扉を閉めた。
私は彼女に「ありうがとう」と言った。それが聞こえたかは、わからない。
私はクロウドの顔を見て、静かにその唇を重ねた。
クロウドと私の事情を領主に説明すると、領主は人のいい顔に涙を浮かべていた。そして、私たちを見て言った。
「望むなら、ここに住んでもいい。できる限りの援助を約束しよう」
その言葉に恐縮したクロウドは、すぐに出ていくつもりだったが、領主の説得もあり、しばらく滞在することになったのだ。
クロウドは農作業を手伝い、作物とお金をもらっていた。仕事の量の割に、賃金は多かった。領主の心遣いに、クロウドは頭も上がらない。
私はヴェルベットと一日の大半を共にした。彼女とともに、遊んだり、仕事をしたりした。失われた子供時代を、取り戻すかのように必死で私は遊んだ。
「あの花はなんていうの?」
私はヴェルに尋ねた。私たちの足元の、小さな花を指して。
ヴェルは、薬草をはじめこの周囲の花と草を網羅しているらしく、なんでもこたえてくれる。両親から色々と学んでいるらしい。あまり貴族らしい教育は受けていないようで、自然で、人らしい教育を、領主は目指しているのだとクロウドは言っていた。
領主は田舎にいるからこそ、こういう教育もできると苦笑していたらしい。王都にいてはぎすぎすしすぎでたまったものではない、と。
「あの花はエリスの花よ」
「エリスの花?」
私が問い返すと、彼女は頷く。
「あの花自体は特に珍しい花ではないの。薬草というには効用も低いし、特徴もないけれど、私は好きなんだ」
ヴェルは笑って言った。
「この花はね、どんなつらい環境でも耐え抜いて、必ず花を咲かせる、適応力の強い花なの」
そう言って、ヴェルベットは足元の黄色いエリスの花をそっと撫でた。
「なんかね、こんな花でも一生懸命に生きている、って思うと、命って素晴らしいなって思うんだ」
その長く、艶やかな髪を揺らして少女は言った。そして、私の黄金色の髪を撫でた。
「エルマの髪も、エリスの花みたいで、私は好きだよ」
「ありがとう、ヴェル。そう言えば、ヴェルベットってどういう意味なの?」
私は少女の紅い髪を見ながら言った。
「ヴェルベットローズという花からお父様が付けてくれたの。強く、気高く、逞しい花なのよ。一度だけ、実物を見たことがあるけど、あれは綺麗だったわ」
うっとりと、ヴェルは言う。
「でもね、その時にとげが刺さって少し血が出ちゃったんだ」
ぺろりと舌を出してヴェルベットは言った。その様子がおかしくて、私も思わず笑ってしまった。
至福の時間が私を包み込む。
辛い記憶だけの人生が、急速に色づいていくのを、私は感じていた。




