全戸在宅――豊橋巨大廃墟団地調査報告
※本作は、インターネット上で語られる「豊橋巨大廃墟団地」の噂に着想を得たフィクションです。本文に登場する人物、取材、映像、音声、文書および怪異は創作であり、実在する施設や動画投稿者の体験・行為を記録したものではありません。
【本文】
0 調査結果
建物の所在地を特定することはできなかった。
一方、映像に記録された三つの窓については、それぞれの内側を、連絡の取れた三名の住居に対応づけることができた。
三名とも、愛知県に居住した経験はない。
うち一名は、調査期間を通じて自宅から外出していなかった。
以下は、私が編集を担当したウェブ記事「豊橋巨大廃墟団地は、なぜ見つからないのか」の取材記録を整理したものである。
調査期間は二〇二五年九月三日から二十四日まで。それ以降の連絡は、末尾に追記した。
記事は掲載していない。
掲載を中止したのは、廃墟の場所がわからなかったからではない。
場所を伏せても、住んでいる人を守れないとわかったからだ。
1 依頼
最初に取材を打診したのは、二〇二五年九月三日だった。
ライターの三枝は、地方の閉店した映画館や、使われなくなったバス停を取材していた。怪談を扱う人ではない。現地まで行き、元の所有者を探し、何もわからなければ何もわからなかったと書く。
私が彼に仕事を頼むのは、それができるからだった。
豊橋のどこかに、巨大な廃墟団地がある。
噂にはいくつかの系統があった。山道の先にあるという話。複数の建物と小さな公園を見たという話。昔は人が暮らしていたらしいという話。それらが同じ場所を指しているのか、別々の記憶がつながったものなのか、判別がつかない。
車で十分という手掛かりもあったが、どこから十分なのかは書かれていなかった。
探索を記録した動画や記事もあった。しかし、少なくとも私たちが確認した資料からは、噂の対象を一つに絞れなかった。
地元の人が知っている建物と、ネット上で探されている建物が、どこかで食い違っている。
企画の出発点は、それだけだった。
依頼メールのやり取りを、必要な箇所だけ記す。
〈九月三日 私から三枝へ〉
所在地を明らかにすることより、誰が何を見て、どう伝わったのかを整理したいです。見つからない場合も記事にできます。
〈同日 三枝から私へ〉
承知しました。
映像の撮影を牧野さんにお願いしていいでしょうか。以前、閉館した会館の取材で組んだ方です。
月末までに初稿を出します。
ただ、二十六日は母の通院のため空けてください。
三枝の母親は県外で一人暮らしをしていた。
彼は月に一度、実家に帰っていた。母親の膝が悪くなってからは、庭の草むしりもしているという。
「平屋でよかったよ。階段があったら、もう暮らせない」
その話を覚えているのは、彼が同じことを二度言ったからだ。
企画の打ち合わせ中と、すべてが終わったあとに。
2 音だけの家
九月十二日、三枝と撮影担当の牧野は、市内で聞き取りを行った。
取材場所は店舗や喫茶店で、私有地への立ち入りは予定していなかった。団地を見たという人を探したが、実際に会えた人の話は、どれも「知り合いから聞いた」まで遡ると途切れた。
一件だけ、話の性質が違った。
かつて住宅の外回りの修繕を請け負っていた男性が、団地の所在地ではなく、昔の仕事について話した。
男性は仮名を井口とする。聞き取りは本人の了承を得て録音された。
〈録音記録 九月十二日 十五時八分〉
三枝「団地へ行ったことがある、というお話ではないんですね」
井口「団地は知らないよ。うちが頼まれたのは雨樋。三十年も前のことだけど、あの家は覚えてる」
三枝「どんな家でしたか」
井口「普通。住んでるおばあさんも普通。雨樋の水がうるさいって言うんだ」
三枝「詰まっていた?」
井口「まず詰まりだと思うわね。でもきれいなんだ。ホースで水を流したって、変な音なんかしない。そしたら、おばあさんが家へ上がって聞いてくれって」
三枝「中だと、音がする」
井口「窓のすぐ上でね。樋から水があふれて、庇へ落ちてる音。ばたばたばたって。外は晴れとるのに」
〔七秒間、発言なし〕
井口「外へ出ると、しないんだよ」
三枝「水を流している間だけですか」
井口「止めてもしてる。壁の中の配管だと思った。そう言ったら、おばあさんが怒ってね」
三枝「何と」
井口「上の家は、うちが雨戸を閉めると洗い物を始める、って」
三枝「二階の?」
井口「そこ、平屋なんだよ」
〔録音中断〕
井口は、家の取り壊しに伴って仕事を離れたわけではない。そもそも、それ以降その家に行っていない。
古い請求書も残っておらず、客の姓を確実には思い出せなかった。
団地の噂との接点を尋ねると、「家の外と中が、合っとらん話だと思ったから」と答えた。
三枝は取材メモに、次の一行を残した。
〈本筋との関連不明。面白いが、これを団地の証拠にしてはいけない。〉
その判断を、私も支持した。
同日、三枝は自分の仕事用サイトに情報提供の募集を出した。公開したのは企画の趣旨と連絡先だけで、井口の話は載せていない。
二日後、十一秒間の映像が届いた。
3 白い留め具
差出人は、表示名を「そと」としていた。
本文は三行だった。
〈ここだと思います。
場所の説明ができません。
家にいる人に聞いてください。〉
添付映像は横長で、音声がなかった。撮影日時と位置を確認できる情報も残っていなかった。
画面の中央に、灰色の建物の一部が映っている。
手前に草があり、その奥にコンクリートの腰壁がある。黒ずんだ柱を挟んで、同じ大きさの窓が二つ見える。
建物の全景がないため、集合住宅とは断定できない。
右の窓は雨戸が閉まっている。左の窓には、薄い黄色のカーテンが掛かっている。
左のカーテンの下から三分の一ほどの位置が、白いものでつままれていた。
九月十五日、三枝から電話があった。
「これ、洗濯ばさみだと思う?」
彼は静止画を拡大していた。
「そうかもしれないけど、画質が悪いね」
「母親が同じ留め方をするんだよ。カーテン、下だけ開くから」
母親はテレビに外の光が映り込むのを嫌い、二枚のカーテンを洗濯ばさみで留めていた。中央ではなく、座椅子に座って手の届く低い位置をつまむ。
ありふれた工夫だと思った。
実際、その時点では、それ以外の説明を必要としなかった。
三枝も電話を切る前に笑った。
「こんなのでいちいち反応してたら、仕事にならないな」
ところが、その晩に送られてきた画像には、笑えないものが写っていた。
画像は、彼が母親から送ってもらった居間の写真だった。
黄色いカーテン。その下をつまむ白い洗濯ばさみ。
左側の裾に、指一本分の縦の裂け目がある。
十一秒の映像にも、反対側の裾に細い黒線があった。
室内から撮るか、屋外から撮るかで、左右は逆になる。
三枝は、そのことを書かなかった。ただ二枚を並べて送ってきた。
私は、差出人が三枝の実家を知っていて、そこを撮影した映像を加工した可能性を指摘した。カーテンは交換せず、母親には見知らぬ訪問者に応対しないよう伝えてもらった。
翌日、三枝は予定を変更して実家に帰った。
庭へ回り、居間の窓を外から撮った。
窓の横には給湯器があり、下にはプラスチックの植木鉢が四つ並んでいる。外壁は茶色の板張りで、庇の先から物干し竿が二本出ている。
灰色の柱も、コンクリートの腰壁もない。
引きの写真には、平屋一軒がきちんと収まっていた。
〈実家の外観は確認できました。動画の場所とは異なります。〉
メールの末尾には、もう一行あった。
〈母は、窓の外で話している人がいると言っています。庭に誰もいないときに。〉
メール末尾に、短い音声が添付されていた。
三枝「どういう話?」
母「ここでいいですか、とか。何階ですか、とか」
三枝「誰かに電話してるんじゃないの」
母「そうかもしれないねえ」
三枝「窓、開けて見た?」
母「開けるとやめるんだよ。迷惑かけちゃったと思うんじゃない」
母親は、特に怖がっていなかった。
4 建物の見えた場所
九月十八日、匿名の差出人に送った三通目のメールに返信があった。
〈撮ったのは私ではありません。
いま渡せるのはこれだけです。〉
添付されていたのは、同じ映像の長い版だった。
四十二秒。
冒頭に駐車場が映っていた。窓ガラス越しの撮影で、撮影者の呼吸音がかすかに入っている。
二十秒ほどで画面が暗くなる。レンズの前を服か鞄で塞いだように見えた。
再び明るくなると、例の灰色の建物が現れる。
最後に録音された声は、小さかった。
「開けてもらえますか」
その声が建物に向けられたものか、撮影者の近くにいる誰かへの言葉かは、判断できなかった。
牧野は、駐車場の料金看板から場所を絞り込んだ。豊橋市内に実在する駐車場だった。
ただし、駐車場が豊橋にあることと、その先に映る建物が噂の団地であることは、別の問題だった。
私たちは、その管理者に事情を伝え、撮影と確認の許可を得た。
九月二十日、十三時四十分。三枝と牧野は現地に到着した。
駐車場の奥には空き地があり、その向こうを生活道路が通っていた。さらに先は、家屋と畑だった。
巨大な団地を隠せるような場所ではない。
管理者も、長くここを使っているが団地を見たことはないと答えた。
牧野の撮影記録には、三脚を据えている三枝と、白い軽自動車が残っている。遠くで農作業をしている人がいて、ラジオらしい音がする。
以後の経過は、二人の記憶とカメラの映像に差がある。
差のある部分を、一つの出来事にまとめ直すことはしなかった。
〈牧野の説明〉
同じ角度を探すため、私はカメラを持って駐車場の中を移動していました。三枝さんは車の横にいて、実家に電話していました。
建物を最初に見つけたのは、モニターです。
日差しが強かったので、フードの下に顔を入れてモニターを見ていました。黄色のカーテンが見えました。
倍率を上げた覚えはありません。
顔を上げると、目の前にも建物がありました。
近いとか遠いとかではなく、道路を見ていた場所に、もう壁が来ていました。
足元は駐車場の砂利でした。
そこで止まったので、境目がどこかは見ていません。
〈三枝の説明〉
牧野さんが「いまお母さんに電話してますよね」と言いました。
私が返事をすると、牧野さんはこっちを向かず、「洗濯ばさみを取ってもらって」と言いました。
最初は何のことかわかりませんでした。
そのあと建物を見ました。
母の窓は、二階にありました。
〈映像記録 十三時五十二分以降〉
画面には、二階以上の部分が黒ずんだ集合住宅の外壁が映っている。
手前に、別の棟の角と思われるコンクリートの壁がある。撮影場所から見える窓は合計十六。すべて閉じている。
外壁のひびには草が根を張っている。窓の手すりは茶色く錆びている。黄色いカーテンの窓は、画面中央よりやや上にある。
周囲に人は映っていない。
三枝「お母さん。テレビ消してもらっていい?」
四秒後、遠くで流れていたテレビらしい音が止む。
三枝「いや、電話の音じゃなくて。いま、ちょっと調べてることがあってさ」
牧野がカメラを持ち替えたため、画面が傾く。
三枝「カーテンの洗濯ばさみ、外してくれる?」
十二秒後、黄色いカーテンの下部が分かれる。
隙間に、人の手が現れる。
三枝「ああ。ありがとう。そのまま、窓には触らないで」
手が引っ込む。
食器の触れ合う音がする。発生源は画面内では確認できない。
牧野「カーテンは?」
三枝「開けなくていい」
牧野「三枝さん」
三枝「開けなくていいって」
十五秒間、二人の発言なし。
上方から何かを引きずる音。
電動歯ブラシに似た断続音。
撮影者の右後方から、車の解錠音。
カメラが右に振られ、白い軽自動車が映る。運転席側に駐車場の管理者が立っている。
管理者「どうですか。何か撮れました?」
カメラが元の方向に戻る。
空き地、道路、畑が映っている。
集合住宅は映っていない。
記録はここで停止している。
管理者は、二人が立ち尽くしているのが気になって声をかけたと話した。
その間、大きな建物を見たことも、二人が駐車場から出たこともないという。
三枝は電話を切っていなかった。
車へ戻ったあと、母親に聞いた。
「いま、そっちで変なことなかった?」
母親は、少し考えてから答えた。
「あんた、庭にいるのかと思った」
「何で」
「電話より先に聞こえたから」
「何が」
「開けなくていいって」
母親は、電話の受話音量が大きかったせいかもしれないと言った。
三枝はその場で、次の取材を取りやめた。
5 窓の数だけ
翌日、私は牧野の仕事場へ行った。
映像を確認するためだった。
撮影機材には詳しくない。私一人が見て、加工されていないと保証できるものではない。ただ、撮影した本人と同じ机に座って、何が残っているのかを見たかった。
牧野は机にカメラと記録媒体を並べていた。
いつものように説明しようとして、一度も私と目を合わせなかった。
「これ、説明がつかないから、本物ってことにはしないでください」
「しないよ」
「いま僕、何でもそう思っちゃうんで」
彼が止めた画面には、団地の外壁が映っていた。
私は、取材の経過を知っているにもかかわらず、母親の手が出てくるまで、ずっと無人の建物を見ているつもりでいた。
生活音は最初から入っていた。
水を使う音。
引き出しを閉める音。
テレビの短い笑い声。
どれも、撮影している二人の背後から聞こえる音のように感じた。画面内には住む人がいないと、先に決めていたためだと思う。
録音を聞き直すと、テレビの音がやむ直前に、別の窓から笛の音がしていた。
上手な演奏ではなかった。同じところで三度つまずき、そのたびに、長い息を吹き込むような音が入った。
牧野は、それを一回だけ聞いて止めた。
「姉に電話してもいいですか」
彼の姉には、小学生の子供がいた。
普段、家族のグループに子供の写真や動画を送ってくる。前日の午後にも、笛の練習を撮った動画が届いていた。
姉に理由を説明し、動画をもう一度送ってもらった。
笛の間違い方が一致した。
一度目は低い音が裏返る。二度目は音が出ず、三度目には子供が吹くのをやめ、「もういい」と言う。
団地の録音にも、その声が入っていた。
姉が撮影した動画の奥には、緑色のロールスクリーンがあった。手前で子供が笛を吹いており、スクリーンの一部に頭の影が揺れている。
団地の一階にも、緑色の窓があった。
撮影の終わり近く、頭の形に似た影が一度沈んだ。
時刻表示だけが一致したわけではない。
姉が撮った室内の動画と、牧野が撮った団地の映像には、同じ一連の動作と音が、別々の方向から記録されていた。
元データを第三者に検証してもらうための準備はした。しかし、母親と姉の部屋が特定される映像をどこまで渡すか、三枝と牧野の同意が揃わなかった。
技術的な検証は、完了していない。
この留保は必要だ。
それでも私は、牧野の姉が電話口で言った言葉を、機材の問題として処理できなかった。
「あんまりうるさくするなって、窓の外から言われたの」
彼女の家は、別の県にある集合住宅の七階だった。
団地の映像で緑の窓があったのは、一階だ。
「隣の人だと思って、すぐやめさせたんだけど」
牧野は、私が見たことのない顔で映像を巻き戻した。
笛が止まる直前、画面に映らないどこかで、戸を二度叩く音がしていた。
それに続く低い声は、言葉として聞き取れない。
牧野はその部分を、何度も再生した。
姉の動画では、子供が笛を口から離していた。
窓の方を見ていた。
6 除外した資料
九月二十二日、私は取材を中止した。
正確には、新たな場所へ出向いて建物を探す行為を中止し、それまでに得た記録の整理に切り替えた。
元の噂に出てくる、滝、屋根付きのベンチ、火の見櫓、古い峠について、今回の映像との関係は確認できない。
映っている建物を「豊橋巨大廃墟団地」と呼べる根拠も、豊橋市内で撮影したという二人の説明と、匿名の提供者がそう示唆したことしかない。
それまで集めた手掛かりを並べると、何か一つが当てはまる場所は、いくつもあった。
調査対象と考えた建物が、近づいてみると住居ではなかった例もある。写真で無人に見えた施設に、人の出入りがあった例もある。
一致した条件だけを数えれば、候補は増やせた。
増えた候補を一つにまとめるためには、合わない条件を捨てなければならなかった。
私たちは、そこまでして名前をつけるべきではないと判断した。
古い住宅地図に見当たらないことも、建物が存在しない証拠にはならない。年代も範囲も限られている。私たちは、豊橋のあらゆる建物の履歴を調べたわけではない。
調査を中止した段階で、匿名の差出人からの連絡は途絶えていた。
「撮ったのは私ではない」という説明を確かめる手段もない。
最初の映像がいつ、誰によって撮られたものなのか。その人物が、なぜ同じ駐車場にいたのか。
これらは未確認として残した。
三枝は、机に広げた地図を一枚ずつ畳んでいた。
「住所がない建物って、もっと自由なものだと思ってた」
何の話かと聞いた。
「誰も管理してないとか、勝手に入れるとか。そういう意味で」
彼は、団地の窓を並べた印刷物を見ていた。
「あの窓、どれも鍵が掛かってるんだよ」
鍵が掛かっているかどうかは、映像からはわからない。
私はそう言いかけて、やめた。
三枝が見ていたのは、母親の窓だった。
庭へ出るとき以外、母親はあの窓の鍵を掛ける。
息子だから、それを知っていた。
その日の夜、三枝から二枚の写真が送られてきた。
一枚は、彼の自宅の仕事部屋だった。以前、仕事用サイトの自己紹介に載せる候補として撮ったものだという。撮影は今年の春だった。
机の横に、灰色の遮光カーテンがあった。
裾は切らずに折り上げ、大きなクリップを三つ使って留めていた。引っ越す前の部屋では、窓がもっと大きかったらしい。
もう一枚は、団地の映像を切り出したものだった。
母親の窓の、すぐ上。
灰色のカーテンの裾に、黒い点が三つあった。
三枝は、この程度の一致では確定できないと書いた。
ただ、裾を折り上げた長さが左右で違うことと、中央の留め具だけが少し低い位置にあることは、どちらの画像でも同じだった。
〈母の家の上には、部屋がないはずです。〉
続いて届いたメールには、その一文しかなかった。
7 九月二十四日
三枝から連絡があったのは、午前九時十七分だった。
自宅で仕事をしていたら、母親から電話が来たという。
昨夜、上で大きな音がした。
何か落としたのかと聞かれた。
三枝は、母親と離れて住んでいる。自宅から実家までは、高速道路を使っても二時間近くかかる。
前夜、彼は仕事部屋で椅子を倒していた。
カーテンの寸法を測ろうとして、背後の椅子に足を引っ掛けたのだという。
私は、母親が音を聞いたという時刻と、椅子が倒れた時刻を正確に照合できるか尋ねた。
「そこまで覚えてない。でも確かめようと思えば、確かめられるよ」
「何を」
「いま机を叩いてみれば」
「やめて」
私の言い方が強かったのか、電話が静かになった。
沈黙のあとで、三枝は言った。
「調べろって言ったの、そっちだろ」
そのとおりだった。
私は返事ができなかった。
しばらくして、三枝が先に謝った。
「ごめん。寝てない」
私は牧野と連絡を取り、二人で三枝の自宅へ行くことにした。
午後一時過ぎ、玄関は普通に開いた。
三枝は、顔色が悪いだけだった。靴を揃え、私たちを居間へ通し、冷蔵庫から麦茶を出した。
窓の外には、向かいの家があった。
電線に鳥がとまっていた。
牧野はカメラを持ってこなかった。
私は鞄から録音機を出し、三枝の了解を取って机に置いた。
三枝は、母親を自宅に呼び、当面一緒に暮らすつもりだと話した。二日後の通院を済ませたら、そのまま車に乗せて戻ってくるという。
「それなら、何かあってもすぐわかる」
私はそう答えた。
母親の声を聞いたのは、その直後だった。
初めは、三枝の携帯電話から聞こえたと思った。
机の上の電話は、画面が暗かった。
三枝が立ち上がり、仕事部屋へ行った。
私たちもあとを追った。
声は、窓の下から聞こえていた。
カーテンは閉じている。折り上げた裾を、三つのクリップが留めている。
窓の下には、低い本棚がある。
母親の声は、その奥から聞こえた。
「遼ちゃん」
私は、それまで三枝の下の名前を呼ぶ人に会ったことがなかった。
彼は何も答えず、カーテンに手を掛けた。
牧野が手首をつかんだ。
「そのまま電話して」
三枝は、母親へ電話を掛けた。
呼び出し音が鳴った。
私たちの足元でも、電話が鳴った。
三枝は、携帯電話を耳から離した。
下から聞こえる音は、彼の電話の呼び出し音とは違っていた。昔から実家で使っている、固定電話のベルだった。
廊下をゆっくり歩く音。
受話器を取り上げる音。
そのあと、二つの場所から母親の声がした。
電話の中と、本棚の奥。
「もしもし」
録音には、私が息を吐く音が残っている。
電話をスピーカーに切り替えてもらった。
三枝は、母親に、いまどこにいるか尋ねた。
「居間。どうしたの」
「さっき俺の名前、呼んだ?」
「呼んだよ」
「どうして」
「さっきから上にいるんでしょう」
三枝は、片手で自分の口を塞いだ。
母親は、彼が父親の使っていた二階にいると思ったのだと、続けて説明した。
三枝の実家に二階はない。
父親が亡くなるまで使っていた部屋も、一階の、玄関に近い六畳間だった。
母親自身も、それはわかっていた。
問い返すと、恥ずかしそうに笑った。
「そうだった。何言ってるんだろうね、私」
会話は普通に続いた。
病院の予約時刻の話。
冷蔵庫にある野菜の話。
泊まりに来るなら、持ってきたいものをまとめておいてほしいという話。
私はその間ずっと、足元を見ていた。
声は電話とわずかにずれて、本棚の向こうから聞こえていた。
長年仕事に使ってきた部屋の床の下に、母親の居間がある。
そこに暮らしている人は、自分の家にいる。
私たちの声を聞き、息子が二階に帰ってきたと思っている。
電話が終わると、下の方でテレビがついた。
三枝が、急にしゃがみ込んだ。
倒れたのかと思って背中に触れると、彼は黙って、本棚の前に座り直した。
壁へ耳をつけた。
しばらくして、母親が咳をした。
三枝は肩を震わせ、泣き始めた。
「これ、ずっと聞こえてた」
私は、彼が何を言っているのかわからなかった。
「先月も。もっと前も。隣のおばあさんだと思ってた」
彼の自宅で、仕事部屋の隣にあるのは納戸だった。
隣家との間には、車を一台停められるだけの空間がある。
あとで確認した、六月のオンライン打ち合わせの録音にも、同じ咳が入っていた。
三枝の母親の咳と断定できるものではない。しかし、その録音で三枝は一度話を止め、マイクから顔を離している。
「大丈夫ですか」
彼はそう聞いていた。
私たちの誰かではなく、壁に向かって。
8 外側
同日夜までに、私は報告の下書きを作った。
団地に映る窓と、三名の住む室内との間に、映像または音声上の対応が確認された。
ただし、これによって部屋が移動したとまでは言えない。
窓を通して人が行き来した事実も、確認されていない。
母親も牧野の姉も、窓を開ければ普段の景色が見えると話している。閉めた直後に異常が起きるとも限らない。
私たちの知る範囲では、誰もいなくなっていない。
誰も傷ついていない。
何も盗まれていない。
報告の項目を埋めていくと、そういう文章ばかりになった。
牧野は「被害」という欄を消してほしいと頼んだ。
「なしって書くんだったら、消してください」
私はその欄を削除した。
三枝は、母親の家の窓の真上に、自分の仕事部屋があると考えている。
私は、その考えを否定できない。
だが、三枝の家の外で、母親の居間を見つけたわけでもない。庭には土があり、地面を掘る理由はない。
確かに言えることは、私たちが三枝の仕事部屋にいたとき、その足元で、別の家の固定電話が鳴ったということだけだ。
建物の外から数えた階数と、室内にいる人が知っている階数が合っていない。
住所を尋ねても、全員が正しい住所を答える。
郵便は届く。
玄関の鍵は自分のもので開く。
この三つが確かなら、人は、自分がどこに住んでいるのかを、それ以上確かめない。
団地の映像を最後に見たとき、私は牧野に、一度だけ音を大きくしてもらった。
十六の窓が並んでいた。
テレビ。水。食器。笛。
最初に見たときは、全部、撮影している二人の背後の音だと思った。
今度は一つずつ、どの窓から聞こえているのか探してしまった。
静かな窓もあった。
母親の窓の真上だ。
そこに住む三枝は、撮影時、牧野の隣に立っていた。
だから、留守だった。
それだけのことなのだと思った。
私は牧野に再生を止めてもらった。
9 帰宅の記録
九月二十六日、三枝は母親を病院に連れていった。
検査を終えてから実家へ寄り、着替えと薬を持ち、二人で彼の自宅に帰った。
私は夕方、差し入れを持って訪ねた。
玄関で迎えてくれた母親は、膝を気にしてゆっくり歩いていた。
髪を染めるのをやめたばかりで、分け目のところが白かった。三枝の小さい頃の話をしようとして、本人に止められた。
持っていった梨を、三枝が台所で剥いた。
母親は、ここで世話になるのは気が引けると言った。
「すぐ帰れますよ。車があるんですから」
私はそう言った。
母親は安心したように、そうね、と答えた。
テーブルを挟んで座っていると、台所で三枝が包丁を置く音がした。
母親が、その方を見た。
「よかった。ここだと、音がちゃんと横からするね」
三枝は梨を皿へ移し、そのまま持ってきた。
私は、何も聞き返さなかった。
帰り際、仕事部屋を見せてもらった。
窓は閉じていた。
灰色のカーテンも、そのままだった。
そこに誰かの姿があったわけではない。
私はしばらく待って、下の部屋から音がしないことを確認した。
そう考えたあと、自分が、ここに下の部屋があると認めていることに気づいた。
三枝も同じ場所を見ていた。
「いま、母はこっちにいるから」
彼は言った。
窓の下は静かだった。
私はもう、それを安心できる材料にはできなかった。
そこにいない人が、みんな自分の家に帰ったとき。
あの建物で、どんな音がするのかと思った。
帰宅後、私は関係者向けの経過報告に、三枝と母親が無事に帰宅したと記載した。
翌朝、三枝から一箇所だけ訂正が届いた。
〈「帰宅した」のところを直してください。
あなたが確認できたことだけにしてください。〉
私はその一文を削除し、次のように記載した。
〈九月二十六日十七時四十分、三枝および母親が、室内にいることを確認した。〉
〈室外の所在は、引き続き不明。〉




