小学生篇① 才能
登場人物
彩藤叶湖:小学1年(7歳)
桐原黒依:上に同じ(6歳)
叶湖と黒依が小学校に入学してある程度の時間が過ぎ、周りの子供たちはあと1カ月ほどで訪れる夏休みに心浮き立つ様子で毎日を過ごしていた。
「それじゃぁ、この間の授業でした、算数のプリントを返します。呼ばれたら前に取りに来てくださいね」
にこにこと、しっかり子供対応な担任を横目に見て、叶湖はわずかにため息を落とした。精神年齢は三十路に突入する叶湖のこと、さすがに『おはじきの個数』を数える問題で間違えようがないのだ。
とはいえ、小学校の1年生といえば、クラスの中に半々程度の割合で論理的思考能力が備わってきた者と、そうでない、未だ直観的思考能力で物を考えてしまう者とが混在する。ただ、産まれの早さの問題だけであるので、できが悪い悪くないの基準ではなく、小学校のカリキュラムは双方に対応できるように組まれてしまっている。
どういう意味かといえば、3たす8の計算を行うのに、いちいち『算数セット』などというお優しい名前のついた箱の中から、おはじきを3個と8個で取り出し、改めてすべてを合わせて計算するという、叶湖にとってはもちろん、産まれの早い者にとっても、それなりに手間のかかる作業を行わなければいけないということであった。
もっとも、異端扱いに慣れてしまった叶湖と、それから黒依が教師の言うことを全く聞こうとしない子供であるのは小学校でも同じことであったが。しかも、授業中に騒いだり、立ち歩いて授業を妨害するのではなく、ただ静かに授業に参加するものの、指示を受け付けない……それでいて優秀であるので、教師にとってはこれ以上扱い難いことのない生徒であろうことは明らかである。
結果として、授業中15分で終わらせることを科されたプリントをわずか1分ほどで終えてしまい、その裏面がc言語で埋まってしまっているのは仕方のない結果ともいえる。もっとも、それをおそらく理解しえない教師にしてみれば、c言語とも分からないかもしれないが。
さて、2人の異端は勉強面だけではなかった。すでに、黒依の身体能力は未熟とはいえ、小学1年生のレベルではないのである。黒依もある程度の手加減は行っているが、それでも黒依の身体能力が突出しているのは誰の目に見ても明らかであった。
「……先生、気分が悪いので退室します」
授業中、チラチラと自分の腕時計に視線をやっていた叶湖が、プリントを受け取った際に1言告げ、教師の言葉を待たずにさっさと教室を出て行ってしまった。
本来であれば、教師も勝手に消えた7歳児を呼びとめて諌めたり、集中力の途切れた生徒たちがざわつき始めたりするのであるが、この2カ月ほどで毎度お馴染みになってしまったその光景に、誰も気を止めることはなかった。
黒依は教師としてはどうなのか、と内心で考えつつも、行動のし易さを優先して『担任無能説』に気付かなかったフリを通す。
「すみません、僕も気分が悪いので休んできますね」
黒依もそれだけ一方的に告げるとさっさと叶湖の後を追うため、教室を離れた。
2人の生徒が消えた教室では、それでも変わらず授業が続行されている。これが教室崩壊の1歩なのかもしれないと、内心で苦笑した。
黒依が図書室に入ると、叶湖は教室の奥、入口付近からは死角になっているところのパソコンと向き合っていた。
「どうですか?」
「悪くないです」
叶湖は画面から視線を外さず、問いかけた黒依に答えた。
叶湖が今にらみ合っているのは、株の取引のサイトである。7歳になると同時、叶湖は今までの貯金……その大半が親の自己満足に与えられたものであるが、それを使ってデイトレードを始めた。
これも、叶湖の情報収集能力の為せる技であるが、叶湖はそれだけでなく、今現在自分が取引に使っている株のレートを腕時計に送信する機能をつけ、授業中でも株価の上がり下がりをチェックできるようにしていた。
結果、叶湖はちゃくちゃくと自分の資産を増やし続けている。
「来年の今頃には私の城が完成し、再び網の目を張り巡らせることができるようになると思います」
自らの武器を手に入れつつある状況で、確実に生き生きとし始めた叶湖をほほえましく見つめつつ、黒依はわずかに胸の痛みを感じる。
「叶湖さん……」
叶湖が自らの能力を遺憾なく発揮できるようになれば……叶湖は黒依と出会う前、情報という力なき力を操り、アンダーグラウンドで見事に生き抜き、そして征服者として君臨していたようになれば。叶湖は実際、現実世界で危険に直面することが無い限り、危険をかなり早い段階で察知でき、それを回避することが可能なのである。
黒依は自分が叶湖にとって本当に役に立たない存在であるように感じ、心に押し込めていた黒いものが溢れそうになる。
「黒依……アナタは、私がアナタの能力をよほど欲していると思っているようですけれど……。そもそも、私はヒトを拾った覚えはありませんし、ただの拾得物だとか、ペットだとかに、曲芸レベル以上の何かを期待も望みもしていませんよ。アナタが多少身体能力に優れていたところで、それは副産物以外の何物でもありませんし、私はそれが目当てでアナタを拾ったのでもありません。……言いませんでした? 顔と声が好みだったので」
叶湖が回転いすを僅かに軋ませ、黒依を振り返った。
「それでもっ……僕は、アナタが傷つけられるかもしれない状況で、黙って指をくわえて見ていることなんて……。僕は力が欲しいんです……アナタのために使える力……」
黒依の言葉に、叶湖は浮かべた笑みを深くした。彼女が気分を害したことを知り、黒依が僅かに目を見張る。
「私の為、だなんて。押し付けられても困りますねぇ……。アナタはせいぜい、私のモノが傷つけられないように、アナタ自身のお守をしていれば十分ですよ。私は自分のことくらい、自分で面倒見られるつもりですので。むしろ。正当に報復できる機会に横やりを入れられては困りますよ、黒依」
叶湖の僅かに喜悦が入った笑みに黒依は2年ほど前、叶湖を泣かせた子供を思い浮かべる。あの日からひと月もしないうちに、父親の会社は倒産し、母親は詐欺にあい、夜逃げするように転校するハメになった、彼。転校した後のことは誰も知らないであろうし、黒依自身、知ろうとしなかった。なぜなら、精神的苦痛よりも肉体的苦痛を与えることに歓びを感じる人間である叶湖が、本人以外の親族の社会的地位の抹消程度で満足するはずがないことを知っているからである。
「……すみません」
いつも通りの叶湖の姿に、それでもいくらか心が安らぐのを感じながら、黒依は自分の頬に間もなく添えられた叶湖の白く細い腕をたどり、その顔を見つめる。
彼女は笑顔で黒依に告げるのだ。
「アナタは私のモノなんですから。……自覚なさい」
そして、それは黒依の存在証明となる。
黒依は確かに叶湖の掌から与えられるぬくもりに安堵していた。
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