幼稚園篇③ 恐怖
登場人物
彩藤叶湖:年少組(4歳)
桐原黒依:上に同じ
名無し:ガキ大将
「おまえ、いっつもムカツクんだよ! 先生困らせてばっかの、悪子のくせに!」
それは、一瞬だった。叶湖が、今の4歳児は言葉が思いのほか達者なのね、なんて普段会話をしないものだから気付かないくだらないことに気を取られている間に、目の前の“ガキ大将”然とした男の子が拙い蹴りを放つ。一応、犯罪者としてそれなりの反射神経や動体視力、身のこなしをもつ叶湖であるので、それは危なげなく避けた。
だが。
「っきゃっ。やぁぁぁ。ふぇぇぇぇえっっ」
泥だらけの靴が蹴りあげると同時に、地面の砂を巻き上げたのだ。風にのって叶湖へと迫るソレ。咄嗟に目を瞑った叶湖は、しかし間に合わなかった。
「叶湖さんっ!?」
目に砂が入った痛みで、まるで子供のように泣きわめく叶湖に、当の犯人は呆然とその様子を見つめる。まさか、いつも大人しく、気味悪いとすら思っていた少女が、この程度のことでここまで恥も外聞もなくおお泣きするとは思いもよらなかったのだろう。
だがしかし。叶湖の泣き声を聞いて一瞬と間をおかず、4歳の平均をはるかに超えた速度で、ガキ大将と叶湖の間に割って入った黒依には、叶湖が泣きわめく理由など悩むまでもなく明らかであった。
叶湖は、酷く『痛み』を恐れているのだ。
その恐怖心と、彼女の嗜虐趣味と、発症はどちらが先だか分からない。しかし、彼女は痛みが怖いだからこそ、他人を痛めつけ、その姿を目に焼き付けることで、自分の中の警戒心を刺激し、常に自己が痛みと離れたところにあるように、警戒心を養って来たという。逆に、彼女の他人に対する嗜虐心から、己に対する痛みに敏感になっとも言えよう。
もっとも、先か後かなど、どうでもいい。大事なところはそこではないのだ。
叶湖は、自己の中で発症し、そして自分で自分を追い詰める趣味の暁に、自分の精神を病ませていたのだ。彼女の中での『痛み』に対する恐怖心は、精神を刺激し、彼女が痛みを感じた瞬間、それは危険信号として体中を駆け廻る。
要するに。
彼女は己の性質から、人の数倍、痛みを感じる体質を持っているということであった。
「ふえぇぇ。痛いぃぃぃぃっ。とれなっ。黒依ぇっ」
出会った当初から、痛みを感じると、その恐怖のあまり子供返りするようで、普段の彼女では考えられないほど、黒依に泣いてすがりつく様子に、黒依は僅かに気分を高揚させながらも、叶湖の涙でぬれた顔を見れば、その気分などどこかへ吹き飛んでしまった。
「こすらないでください。今、取って差し上げますから」
「っふぇぇん。痛いよぉぉぉっ」
黒依の言葉など聞こえないように泣き続ける叶湖の顔を固定し、涙の分泌量がやけに多い、右目に唇を寄せる。叶湖が反応するより早く、軽く目を開かせると目の端の異物を舌で取り除いた。
「ふっ。ふぇっっ……」
「どうです?」
目に見えて落ち着きを取り戻した叶湖をもう1度、その顔全体が見渡せるまで距離をあけて問いかける。
「ん、大丈夫」
言いながら、泣きつかれたのか、身体を黒依に寄りかからせたままの叶湖を軽く抱きしめて、黒依は背後の少年を睨みつけた。
一瞬……ではなかった。黒依本来の速さを考えれば、新幹線と徒歩ほどの差があるかもしれない。それほど遅くではあったが、しかし、相手の子供にとっては追い付かない速度であった。
黒依は少年まで距離を詰め、そしてその両手を相手の首にかけた。
「っ、ぐっ……ぅ」
確実に主要の血管を止めるそれに、みるみるウチに少年の顔色が悪くなる。
「黒依、駄目です」
が、しかし、その殺人行為は叶湖の言葉で達成されることはなかった。
確実に血管を狙った犯行に、首周りに目立つ後が残らなかったのを確認すると、叶湖は地面に力なく座り込んで、恐れるように2人を見つめる少年に近寄り、その首の後ろへ手刀を落とした。途端、クタリと力が抜け、地面に倒れ込む少年。
「叶湖さん……っ」
「ここで、これを殺して、今の私たちにどれほどの処理ができると? 私は情報をコントロール術を持たず、アナタはアナタで死んだ彼を運ぶ筋力すらないのでは? バラすにしても、その方法は? 力はおろか、道具もない。アナタが捕まりたいなら自由ですが、私まで巻き込まれるのは激しく迷惑です。……私を害されて怒るのはともかく、それでアナタまでさらに私に被害を持ってこられては、鬱陶しいにもほどがある。役に立たないのを我慢しているだけでも感謝してほしいくらいなのに……これ以上面倒をかけるなら、捨てますよ?」
いつもの叶湖であるならば、機嫌が悪い時特有のそれはそれは綺麗な笑顔と共に、相手を追い詰めるような言葉を吐くハズであるのだが、今の叶湖にはその表情もない。未だ、泣いた後の倦怠感でも残っているのか、終始気だるげなまま、面倒臭そうな表情で黒依を見つめる。しかし、黒依にとってはいつもの笑顔よりも、まさに今、彼女の心情を表していると見える、その表情により、心を深くえぐられる気がした。
「申しわけ、ありません……」
呆然と呟く黒依に、叶湖はもういい、とばかりにため息をつき、その場から身を返す。
「帰ります。ソレについてはある程度の記憶障害を起こすよう殴っておきましたけど、まだ覚えているようならもう1回くらい落としておいてください。それから、今回の制裁などくだらないことは考えないよう。……今のアナタじゃ無理ですから。私が後始末をつけます。それでは」
叶湖は要件だけ告げると、本当にスタスタと立ち去ってしまった。その後ろ姿を何とも言えない表情で見つめる黒依が、ギリッと手を握りしめた。白い手のひらに僅かな赤がにじむ。
「力が、欲しい……なんて。こんなにも……。アナタを守る、力が。……人を、殺すすべが……。僕は、どうすれば……」
黒依の中で葛藤として荒れ狂っていた嵐が一段と大きくなる。叶湖に捨てられる。その事実を、決して彼が受け入れることはできなかった。
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