幼稚園篇② 葛藤
登場人物
彩藤叶湖:年少組(4歳)
桐原黒依:上に同じ
桐原香里:黒依の母
桐原茜:黒依の妹
その日、叶湖は幼稚園が終わると、桐原家へと訪れていた。理由は簡単。直が部活の合宿で家を空けざるを得ないため、まだ小学生の和樹では面倒が見きれないからだ。
「私、買い忘れを思い出しちゃって……ごめんなさいね。黒依と遊んでいてくれるかしら?」
エプロンの下の方で濡れた手を拭きつつ、香里はリビングに顔を出すと、黒依とならんでソファに腰かけ新聞を読んでいた叶湖に声をかけた。
もっとも、香里は叶湖がその内容を十二分に理解しているとは思いもよらないのか、特に気にすることもなく、エプロンを脱ぎながら部屋の片隅のベビーベッドに寄ると、そこで寝ていた赤子……桐原家の長女である、茜を抱き上げた。
「何かあっても困るから、茜は連れていくわね。今までお料理してたから、鍋が熱いの。火は消してあるけど、危ないからキッチンにあんまり近づいちゃだめよ」
「はい、香里さん」
「大丈夫だよ、母さん」
普段から大人しい2人に軽い注意をすると、返った返事に安心したのか、やがて香里は家を出て行った。
「……テレビ消して下さい。うるさいので」
料理の音と、別の人間の気配がなくなり、シンと静まり返る部屋の中で、黒依が今まで見ている風を装っていた教育番組が子供に笑いを提供しようと頑張っている。元々、ニュース番組以外に必要を感じていなかった叶湖は、黒依もそうであることを知っているため、すぐさまその騒音を消すことを命じる。
「えぇ……何か飲みますか?」
子供の短い手では、ソファに座ったままで届かない距離にあるリモコンを取るついでに立ちあがった黒依が、叶湖を振り返って尋ねた。
「私の水筒にコーヒーが入っています」
「分かりました」
元々、ジュースを始め、おおよその子供が好む飲み物は好まない叶湖が飲む飲料といえば、コーヒーか紅茶であった。黒依も同じく。とはいえ、桐原家は豆から挽くコーヒーを愛用していることもなければ、基本、インスタントかペットボトルや紙パックに入ったコーヒーが置いてあるだけ。かなりのカフェイン中毒な叶湖からすれば、そこがそもそも気に入らないし、何より子供2人のみがいる場面で冷蔵庫のコーヒーの量が減っていれば怪しまれてしまう。
実の家族や、幼稚園関係者の前では自らの特異性を隠そうともしない叶湖であるが、黒依の家族に対しては別であった。
リモコンでテレビを黙らせ終わった黒依が、叶湖のカバンから水筒を取り出し中身をそのコップに移せば、コーヒーのいい香りと魔法瓶にその温度を守られていた湯気が、黒依の鼻孔をくすぐる。
「……それにしても、めずらしいですね。叶湖さんが新聞を読まれるなんて」
新聞から視線をあげ、黒依に寄って注がれたコーヒーに満足そうに口をつけた叶湖に、問いかけながら、あらかた役目を終えた黒依はソファには座らず、それに腰かけた叶湖の足元に腰を下ろした。
前世ではいつの間にか定位置になってしまったその場所は、黒依の家族が居ないところでは今でも変わっていなかった。
「今の情報世界と、それを守る力。それから、経済のことには興味があるんです」
言外に、それ以外……平和と謳われる国で日々殺される罪のない人間のことや、他国で起こっている内乱や戦争はもちろん、著名人の恋愛関係などにはちっとも興味がないことを告げる。
「あぁ、否、あまりに治安が悪すぎるのは少し困りますね。今は網を張り巡らせていなければ、武器もないので、自衛もままなりませんし。何より……アナタはアナタで無能ですから」
叶湖が笑顔で言い放った事実に、ピクリ、と黒依が反応した。そう、その通りだ。
叶湖は自分と比べればあまりに脆すぎる、黒依の笑顔の仮面が崩れ去ったことに気分を良くしながら、その様子を見守る。
黒依は黒依で、そんな叶湖の様子に気づいていながらも、手を握りしめて顔をしかめた。前世で叶湖と出会った時、そして叶湖に堕ちた時。彼はすでに不本意ながらも身につけた暗殺技術で、その強さでは叶湖の情報を目的に集まるアングラを生きる者たち相手さえ、追従を許さなかった。暗殺者から足を洗って直、現役が集まってもその壁を越えられないほどの強さ。黒依はもちろん、叶湖も、黒依の強さは認めていた。その強さが決して自分を害しえないことも、その強さでもって彼が自分の敵をなぎ払うだろうことも、叶湖は理解しきっていた。
もっとも、彼女を敵に回そうとした途端、それを察知できる叶湖の情報収集能力を前に、本当に叶湖の前に立ちふさがるだろう相手など、皆無も同然だったのだが。
ところが。
今、現在。叶湖と黒依には、そのどちらもが欠けている。黒依の絶対的な強さも。叶湖の、支配的な情報収集能力も。黒依は身体的にはまだ5歳。成長期以前に、身体すべてが安定しきっていない状態で、能力を奮う以前に、強くなるための訓練すら満足に行えない。
万が一にも、叶湖を害そうとする者に遅れを取るかも知れない。その不甲斐なさは、日々、黒依を苦しめていた。もっとも、叶湖はそのことも分かり切った上で、黒依を追い詰めるような言葉を発したのではあるが。
「叶、湖さん……。ごめんなさい。すみません。……すぐに、必ず。すぐに、アナタをお守りするための力、を。必ず……」
グラグラと瞳を揺らし、その奥に闇を過らせる。出会った時と変わらない。闇の職業から足を洗ったところで、黒依の根本から抜けきらない、その特性。彼が傷ついたときに見せる癖だ。
「まぁ、特に今はアナタ以外の人間に興味はありませんし。この体で、別の人間を抱えるにも面倒が増えるだけですから。……もっとも、私が気まぐれなのはアナタもよく知っていることでしょうから、先がどうなるかなんて、分かりませんけれどね?」
「叶湖さんっ」
呼び声に僅かな悲痛を含ませた黒依を置いて、叶湖は静かにソファから降りる。どこかへ消えてしまうのか、と強い不安をにじませたままの黒依が自分も立ち上がろうとするのを、花を摘みに行くだけだ、と言い聞かせて1人、リビングを離れる。
パタン
静かにトイレのドアを閉め、叶湖は機嫌よく装っていた表情を消した。彼は彼で、表情を偽る黒依の瞳の色すら読めてしまう叶湖だが、黒依は黒依で他人の心の機微を読むのには長けている。暗殺者は暗殺者でも、ただ殺すだけではなく、拷問を利用した情報収集や、寝ることで相手を罠にかけること、それから……誘拐など、本当に『暗』殺かと疑いたくなるほど手広くやっていた大きな組織であったので、黒依の対人技術はかなり高かった。相手を観察し見抜くことに関しては、猟奇殺人者で、弱点を見抜く力や生死ギリギリを判別する力、決して意識を飛ばせず拷問し続ける力などを持つ叶湖が黒依に劣ることはなかったが、他は完敗。また、叶湖が前世の体質を引き継いだことを鑑みれば、黒依もそうであるのだろう。どういうことかと言えば、先ほど取り乱していた黒依であるから、叶湖の表情を読めなかったに違いないが、今、叶湖が心中のままに舌打ちなどをすれば、防音効果のない桐原の家のこと、黒依にははっきり聞こえてしまうに違いない。
身体能力……おもに筋肉の発達が必要不可欠である、戦闘能力でこそ、黒依は無能と言えるが、その他の体の成長を必要としない能力に関しては、黒依はすでに一般人を軽く凌駕しているに違いない。
昼と変わらず見える夜目、聴覚も嗅覚も獣並みに違いない。本能レベルの問題である、反射も、相当素早いに違いない。……もっとも、いかに素早く敵の存在を察知したとすれ、投げたナイフが届かない身体能力であれば、やはり無能には違いないのだが。
叶湖はそんな、とりとめのないことを考えながら、ぐしゃぐしゃと髪を掻きあげた。
前世のままの、ゆるく天然のパーマでうねる黒い髪。さらさらと、指通りのいい黒依の髪を何度か羨んだものだが、いつにも増して、指に絡むそれが自分をイラつかせる。
安易にため息できない状況で、自分を鎮めるのも大変だ。とくに用があるわけではないのに、トイレに引き篭もらざる得ない状況に、さらにイラつく。
それのそもそものきっかけが、あまりにも黒依が容易に口にだした『母さん』であるとは、おそらく黒依も気付いていないだろう。そして叶湖自身も内心で呆れてしまう。
叶湖はなんとはなしに、自分の家庭を思い浮かべた。おそらく、自分が帰るべきと周りが思っているその家は、今日は無人に違いない。母親と父親の都合など聞きもせずに、自分が家を空けると言うだけで、勝手に桐原家への話を付けてしまっていた直のこと。普段、どれほど両親が家に帰っていないのか、分かるというものだろう。
以前は手伝いが何人か出入りしていたが、あまりの叶湖の特異性に、まさか雇い主の娘を職場内で気味悪い、と罵ってしまう間抜けばかりだったので、それらも直の手によって追い出されてしまった。
その上、自分が世話をすると言い張られてしまえば、家庭内に興味のない父・賢司のこと、それ以来手伝いが家に入ることはなくなった。
そんな直でこそ、後妻であり、兄2人にとっては義母である麻里亜を母と呼ぶことこそないが、賢司のことは父と呼ぶ。二男の和樹も、直と同じで賢司のことは言葉は悪いが、父親を表す名詞で呼んでいる。
ところが。両親ともに血のつながりを持つ叶湖本人が、母と、父と、その呼称を使ったことは、『嘘々叶湖』の記憶が目覚めてから、1度もなかった。そして、自分を可愛がる、兄2人でさえも。
叶湖にとって家族は2番目の家族であり、他人である。その事実は揺らぐことはなかった。
そんな叶湖の前で、黒依はあまりにも母、という単語を口に出す。もちろん、表面上穏やかな黒依であるし、面倒回避のため、叶湖の関わりないところではその穏やかさを保っているわけで、叶湖も分かってはいた。事実、始めはぎこちなく発せられるその呼称を、何度か聞いたこともある。
それなのに。
黒依の妹の誕生を機に、叶湖の中で何かが危機感として現れてしまった。
黒依を誰にも渡したくはないと。その、独占欲と共に、彼に家族と過ごす普通の幸せを与えるべきとする、自分ですら信じられない、愛しさ故の気持ちが。
黒依の両親については、叶湖は何も知りえなかった。出会った当初、黒依について調べた時に出てこなかったことを考えれば、捨てられたか、亡くしたか。ともかく、それほど関わりは無かったに違いない。
しかし。
黒依の『妹』。そのファクターは、叶湖自身も印象深い。それほど、黒依にとって大きな存在であった。どれほどかと言えば、それこそ、彼が叶湖に出会うまでの、彼のすべてだったのだ。
なぜなら。彼は、彼の妹を誘拐した組織に脅され、妹の命の保障と引き換えに彼もまた、組織の1員となったのだから。もっとも、彼が組織の闇にどっぷり浸かる頃には、妹はあっさり殺され、やがてそれを知った彼は組織を抜けるわけであるが。叶湖は自分と出会った当初の黒依が、相当な自殺志願者だったことを思い出した。それも、妹に会いたいが故なのだから、彼の妹への執着は相当であるといえる。
そんな彼が。もう1度妹を手に入れた。もちろん、組織に誘拐され、利用され、殺された彼女ではないが。それでも。
叶湖はなんと面倒なことか、と嘆きたくなる。ジレンマなど、本能がままに生きる叶湖は久しく抱いた記憶がないというのに。
そのモヤモヤと、それからストレス故、普段より強く沸き起こる衝動の抑制に、叶湖は常に苛立っていた。
叶湖の内に沸き起こる衝動。……彼女の1番強い本能とも言えるだろう、嗜虐性であった。前世では、それの行き先として散々の拷問の末、猟奇的といわれる殺人を続けてきた叶湖だが、黒依と出会ってからは、叶湖が手をそれ以上汚すことに彼が拒否を表し、そして彼以外に叶湖の興味が向けられることを嫌がったため、その方向は常に黒依に定まっていた。
が、生まれ変わってからというもの、それも思うようにいかない。叶湖に対しては抵抗しない黒依を害すことなど、さすがの叶湖でも簡単である。前世と違い傷ひとつない身体を傷つけることに、白を汚す恍惚然とした期待を抱くのも事実だ。とはいえ、周りに一般人が多すぎるこの状況で、黒依に目立つ傷をつけるのは、さすがにまずいことくらい叶湖も分かっている。もちろん、黒依以外に危害を加えるのは、人体の弱点を知りつくした叶湖とはいえ5歳の身体では難しい。
いくつもの望みや、欲望に、これ以上ないほど心中を掻きまわされながら、叶湖はため息すらついていられない状況にまた1つ、眉間のしわを増やすのだった。
そんな叶湖が、ようやく表情の仮面を整え終わってトイレを出るのは、買い物を終えた第三者が帰った後で、結局長い不在の理由を黒依に問い詰める機会を与えぬまま、叶湖は飄々と桐原家の日常へもぐりこんで行った。
読了ありがとうございました。