中学生篇⑦ 兄妹
登場人物
彩藤叶湖:中学3年(15歳)
彩藤 直:叶湖の兄、脳外科医
彩藤和樹:叶湖の兄、数学教師
「家を……出たい!?」
直が似合わず大声をあげた。その隣で、和樹が身を乗り出している。
机を挟んで向かい側にすわる叶湖は、至極涼しい顔で頷くだけだった。
「えぇ」
冬休みが終わり、そろそろ、叶湖の中学生活も終わろうとした日。
叶湖は珍しく直を捕まえ、そして切り出したのであった。
高校生から、1人暮らしをすることを。
「お前はまだ高校生だぞ!?」
「そ、そうだ。まだ早いって!」
叶湖の目の前で兄2人がなんとか叶湖を思いとどまらせようとしている。そんな様子に、叶湖はクスッと微笑んで首をかしげた。
「そうかもしれません。が、私は直さんや和樹さんの許可を必要としているわけではありませんので。これは……ただの報告です。もう、住む部屋も借りましたし、引っ越しの準備も始めていますよ」
叶湖の告白に直は目を細める。
「……父さんを使ったのか……」
「えぇ、先日。サインをもらって、契約も結びました」
「お前、何勝手なこと!」
「勝手……ですか? 未成年である私の法定代理人は賢司さんでしょう? むしろ、直さんや和樹さんの意見に左右される方がおかしいとは思いませんか?」
叶湖の言っていることは正論である。しかし、それは叶湖の親代わりを務めていた……努めている気であった兄2人、特に直には痛い言葉であろう。叶湖はそれを知っていて、しかし言葉を紡ぐ。
「それはっ! でも、お前の面倒は……」
「待って、兄貴」
叶湖の言葉に言い募ろうとした直を和樹が止めた。和樹はふだん浮かべる軽薄そうな表情を消し、ただ真っすぐに叶湖を見つめる。
「別に俺たちはお前に感謝されたくて一緒に暮らしてるわけじゃない。俺たちがやりたくて、自己満足でお前と、こうしてきた。そのことを、お前に恩着せがましくするつもりはねぇよ。俺らにとって、お前は大事なたった1人の妹だ。……だけど、お前は? 俺たちのことをどう思っている?」
和樹のまっすぐな問いに叶湖は内心で眉を寄せる。
面倒くさいことにはしたくないのに。
……元より、1人暮らしをすると決め、兄に内緒で父親と2人で話を進めてしまっているから、多少の面倒は覚悟していたが、なぜ今ここで兄妹関係の話まで持ち出されているのか。
叶湖は内心で漏れそうになるため息を押し隠して、それでも微笑んでみせた。
「感謝はしていますよ。賢司さんと麻里亜さんのことですから、いかに私が要らず、また育てられないにしたって、体裁を気にして施設にいれることはしなかったでしょうから、まず、ハウスキーパーの手で育てられることになったでしょうね。そちらの方が、身の自由がきいた可能性はありますけれど、直さんが私の養育を引き受けて下さったおかげで、精神的にはそれより遥かに自由だったでしょう」
「お手伝いに育てられるよりかはマシだったろうから、感謝はしている。……それだけか? 俺たちは、お前を傷つけることしかしなかった、あのババァよりマシ……それだけなのか?」
さらに下手にでる和樹に叶湖は自らの髪に手を伸ばす。表情の笑顔は保ったままであるが、もう10年以上も付き合ってきた兄2人は確かに気がついた。叶湖が苛立ってきた、その事実に。
「私に良心を期待しないでくださいね。……私は麻里亜さんも、賢司さんも親であるとは認識していません。せいぜいが、二十歳になるまでの代理人。これは社会で決められていることですから、感情の問題ではありませんからね。でも、それは2人の育児放棄が原因ではありませんよ。私は彼ら2人の育児などそもそも望んではいなかった。育児など、私の生命が維持できる最小限があれば、後は自分でなんとかしました。彼らが私に対してした行動よりも、もっと別の段階で、彼らは私からして親ではなかった。ですから……同じ理由でアナタたち2人を兄や、家族としては認識してはいません。これは、血のつながりが半分であるか否かも、何ら関係はないです」
「ただの、赤の他人だっていうのか……?」
呆然と呟く直に、叶湖はゆるゆると首を横にふる。
「赤の他人だなどとは思っていませんよ。少なくとも、1人で買い物もできなかった頃については、本当に感謝しています。私1人ではどうしようもないことについて、たくさん助けられたでしょう。アナタ方が妹として愛情を向けてくれているのも、ありがたいとは思っています。他人のように、居なくてもいいと思ったことは1度もない」
それでも、居ないよりはマシ、という認識から変わることはなかったのだが。
「だったら、どうして……? お前の考えていることは、俺たちには難しいよ。お前が2才のころから、もう俺たちはお前の考えていることが分からなかった。俺も幼かったから、大きくなれば分かるのかと思ってたけれど、今だって、俺にはお前の考えていることなんか、分からないままだ」
「……私が家族を必要としていないんです」
この世界では。直が泣きそうな顔で叶湖に問いかけるのを聞いて、しかし叶湖は正直に言った。それで兄2人を傷つけることになったとしても。
結局、叶湖は傷つかない。そのことに対して、叶湖は内心で自嘲する。
「私にとって、家族は分からない」
「分からない……?」
「なぜ、愛情を持てるのか、分からない。不思議な存在で、分からないから、欲しくない」
前世では、確かに家族がいた。
それでも、やはり無償の愛などと言うものはよく分からない存在であったから、いつからか、家族は叶湖にとって重荷でしかなかった。
そして、叶湖の中で歪みが大きくなるにつれ、叶湖は自ら家族を離れた。
「俺たちはお前が元気でいる、それだけでうれしいんだ」
兄が紡ぐ真摯な言葉も、叶湖の胸に響くことはない。叶湖はわずかに首をかしげる。
「どうしてですか? 私は、無償の愛が分からない。信頼できない。アナタたちが、私の成長を見ることで自己満足を得るために私を養育したいというなら、それでいいのに」
「違う、そんなんじゃない」
「なら、どうしてですか? 妹だから無条件で私を慈しむなんて。それは、私が別の家に生まれていれば、アナタ達から愛される権利はなかったということ。それは要するに、アナタたちの愛は私個人には向けられていない。だから、私はアナタたちの妹を愛する気持ちが分からないし、家族の必要性も分からない。分からないから信じられないし、信じられないなら重荷でしかない」
叶湖の言葉に直と和樹は揃って目を見開いていた。
そんな様子に、叶湖はらしくなく、小さくため息をつくとそんな兄2人を安心させるように笑顔を見せる。
「いい機会でしょう? 和樹さんも社会人になるのですし、今より帰りが遅くなることが増えます。もちろん、直さんはお医者として忙しいでしょう? 私もずっと目をかけられる必要もないでしょうけれど、どうせこの家に私以外の居ることが少なくなるというのなら、それは私が1人で暮らすのと変わりませんし。それなら、私はもう少し小さい家でいいと思っただけのこと」
「お前は……お前が、俺たちの負担になるんじゃないかと、そう思ったわけではないんだな。お前にとって、俺たちが負担なのか?」
叶湖が苛立ちを隠すようにかぶせた嘘を、直が引き剥がそうとする。どこまでも真っすぐな人だと感心する半面。やはり、面倒だとも思ってしまう。
「私は今まで、直さんにも和樹さんにも、悪い感情を持ったことはありませんよ」
決して好きであるとは言わず、叶湖はそれだけ言うと、さっさと席を立って自室へ戻って行ってしまった。
悪い感情を持ったことがない、という点に関しては嘘がなかった。
小さい体躯では、物理的にも、周りからの目、という点でも、不可能が多かった。その時に兄2人の存在は確かに有難かった。
しかし、叶湖がもう1度、一般人との関わりを断って、日の当らない世界で生きようとするのには、正しく、兄2人は重荷でしかなかったのである。
そうして、叶湖が中学を卒業する1月前には、叶湖の引っ越しは完了していた。
叶湖が一人暮らしをするにあたっての費用がすべて、叶湖の懐から出たものと知った兄2人は、彼女の新居に驚愕することになる。
叶湖の新居は1フロア2室の高級マンションの最上階。
向かいの部屋にはマンションのオーナーも住んでおるほどで、セキュリティ面にも不安はない。
兄2人がいくら挨拶をしようと尋ねても、常に不在である向かいの部屋の所有者が、まさかその隣人と同一人物である、ということは、兄2人は結局知ることはないだろう。
知っているのは、マンションの前オーナーであり、現管理人である男と、あとは……そう、黒依のみ。
叶湖は自分だけの城でくすり、と笑みを漏らした。
読了ありがとうございました。
閑話のようなお話でしたが、これで中学生篇は終了です。
次回から、高校生篇へ入っていきます。
もちろん舞台は高校。
黒依や他のキャラも出てきますので、生温かい目で見守っていただけたら幸いです。
それでは。