2. 新しい家族
登場人物
彩藤叶湖:ヒロイン。3歳。
桐原黒依:幼馴染。
彩藤直:叶湖の兄。
彩藤和樹:叶湖の兄。
桐原香里:黒依の母。
「それでは」
叶湖は無言で朝食の食器を片づけると、ダイニングの出口から振り返ってつげた。
その時に、部屋の隅で上手くさかさまを向いて転がっているランドセルが目に入るが、気付かなかったことにして、視線をテーブルへ向ける。
「んー」
ダイニングに1人残った少年は、行儀悪くパンにかぶりつきながらヒラヒラと後ろ手に手を振る。整った顔と大きな瞳はテーブルを間に挟んだテレビへと向けられて、叶湖を振り返ることはなさそうだ。
叶湖はそんな少年の様子に間もなく視線を外すと、ダイニングの扉を後ろ手に締め、まっすぐに玄関へと向かった。
「っ叶湖!? ちょっと待って、送っていくから!」
と、玄関近くの階段を降りていた青年が、靴を履く叶湖の姿に目を見開いて声をかけた。よほど慌てたのか、普段の彼ではあり得ない大きな音をたてて、残りの段を駆けおりてくる。
「……ご飯、食べてないでしょう? 私は1人で行けますから、お気づかいなく」
「そういう問題じゃない!」
1言告げてドアノブに手をかけた叶湖に半ば怒鳴るように言い放つと、青年は廊下を足早に進み、先ほど叶湖が出て来たドアを開け放つ。
「和樹! 遅刻するからもう行くんだ」
「……もうちょっとゆっくりでも間に合うもんねー!」
室内に向かってかけた言葉に、小憎たらしい少年の声が返る。
「まったく、兄さんは心配症だなぁ。叶湖が1人で行けるって言ってんだから、行かせておけばいいんだよ。……幼稚園くらい。いってきまーす」
間もなく、先ほど部屋の隅に転がしてあったランドセルを背負って廊下へ出て来た少年が、叶湖の脇を通り扉から飛び出していく。
「そういうわけには行かないだろう。……叶湖、待つんだ」
その後ろを追おうとした叶湖に、ため息交じりの声をかけると、青年は自分もカバンを肩にかけて靴をはいた。青年のカバンは叶湖の家からは近いとも遠いとも言えない距離にある、高校学校の指定の物で、要するに私立校のもの。彼も今年入学であるから、使いふるされた感はなく、上品に光を弾いていた。
今の時間からでは、叶湖を幼稚園まで送っていては遅刻するだろうに、青年がそれを気にすることはなく、むしろ当然のように叶湖を振り返った。
「行くぞ」
「……」
叶湖のもみじのような手を握りしめ、玄関を出ようとする青年に、叶湖はわずかに家の中を振り返って、そうして結局何もせずに、自分の手を引く力に従って家を出た。
叶湖はため息をつきながら、12歳も年上の兄を見上げた。
自分の手を引く男の名は、彩藤直。そして先ほど叶湖が出かける際の言葉をかけたのが、7歳年上の彩藤和樹。双方とも、叶湖の2番目の家族だった。
とはいえ、叶湖が俗にいう『もらわれっこ』というわけではない。
叶湖が2歳の時に、自我と共に叶湖の1回目の人生の記憶がよみがえったのだ。
しかしその記憶によって、それまでの僅かながらの記憶はすっかり上書きされてしまい、結局残ったのは新しい家族に対する違和感だけ。
そんなわけで、叶湖にとっては今の家族は2番目でしかなかった。
もっとも、そんな家族に対するイメージでは、毎日息が詰まってしょうがないのかもしれないが、幸い叶湖の生まれた家庭は夫婦関係が冷え切っており、家族団欒の時間を過ごした記憶など全くなかった叶湖はそんなこともない。
詳しくは知らないが、叶湖の母・麻里亜は父・賢司の後妻で、賢司が亡くした前妻を今も忘れられないことが原因の一端のようである。
結局、麻里亜は自分を見ない賢司を避け、家に寄りつかなくなり、賢司は賢司で前妻を忘れるように仕事に打ち込んで帰ってこない……。
金はあるくせに、手伝いなどが雇われたことのない家で、実際に叶湖を育てているのは、年の離れた長兄のようなものだった。
叶湖と年の離れた兄2人、特に強い責任感を持つ直の方は、実の親2人に放置されている叶湖に対していろいろ思うことがあるのか、叶湖のあまりにも子供らしくない特異性を受け入れた上で世話を焼いてくれている。しかし叶湖は表面上はともかく、内心では特にありがたいと思うこともなければ、両親2人の様子を厭ったこともない。どちらかといえば、現状になんら不満はなかった。
「叶湖さん!」
交差点に差し掛かった時、信号待ちをしていた叶湖と同じ年くらいの男の子が、まるで自分に近づく叶湖を知っていたかのように振り返った。
「おはようございます、黒依、桐原さん」
知っていたかのよう、ではなく、知っていたのだ、と確信を持っている叶湖はそんな少年の様子に驚くこともなく、いたって普通に挨拶を返すと、その脇。少年を追うように叶湖とその兄を振り返った女性にも頭を下げた。
「おはよう、叶湖ちゃん。どう? 幼稚園は楽しみかしら?」
赤ん坊を抱えた女性が、危なげなく叶湖に視線を合わせるようにしゃがみ込むと笑顔を向ける。確か赤ん坊の方は、去年生まれたばかりの彼の妹だったか……。
頭では全く違うことを考えつつも、女性にはその質問に肯定するような笑顔を見せた叶湖に、しかし女性はうれしそうに頷くと立ちあがって、今度は直に視線を合わせた。
「おはようございます、桐原さん」
「おはよう、直くん。いっつも直くんは偉いわね」
「そんな……桐原さんにはいつもお世話になっていて……」
いつの間にか交差点への侵入を許す色に変わっていた信号がチカチカと点滅し出した。
もう1度待つことになるだろうな、とすっかり話しこんでいる兄と女性から少し距離をとる。女性の名前は桐原香里。叶湖の父親と知り合いで兄2人が居ない間、叶湖の面倒をよく見ている。
叶湖は今まで張り付けていた笑顔を深め、大事そうに赤子を抱く香里から視線をそらすと、案の定自分を追って2人から距離をとっていた黒依に視線を合わせた。
「幼稚園は楽しみかしら……ですって。黒依はどうです?」
漆黒の髪に瞳。幼稚園の制服まで黒だから、黒づくめである。もっとも、黒依は元々が黒を好んでいたので、本人にとっては光栄なのかもしれないが。自分の胸についているものと揃いのエンブレムを見つめ、華やかな笑顔を浮かべる叶湖に黒依は苦笑した。
理由は簡単。叶湖の笑顔が綺麗であればあるほど、彼女の機嫌は悪いのだということを知っているからだ。
「僕は……アナタが心配ですよ、叶湖さん。子供は無邪気ながら残酷です。そして、『違うこと』に敏感だ。問題が起きるのではないかと……」
叶湖をまっすぐ見つめたまま眉を寄せて苦しそうにする黒依に、叶湖はわずかに機嫌の直った笑顔で、風に遊ばれている自分の長い髪を片手で押さえつけた。
「行きましょう? 入園式に遅れてしまいそうです。初日から目立つなんて嫌ですからね」
叶湖は、横断歩道を渡り始めた子供2人に漸く気付いて、慌てた様子で追って来た香里と、その腕に抱かれた赤子を綺麗な笑顔で一度だけ振り返ると、あとは振り返ることなく黒依を伴って幼稚園へと向かった。
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