小学生篇⑦ 思惑
登場人物
彩藤叶湖:小学5年(11歳)
桐原黒依:上に同じ
桐原 茜:黒依の妹
大里ゆとり:叶湖の友人
「何処に行くの、お兄ちゃん?」
夕方、茜と一緒に自宅へ戻った黒依がカバンを置いてすぐに玄関へ向かうのを、茜が呼びとめた。
「夕食までには戻ります」
「そういうことを聞いてるんじゃないの!」
当たり障りのない返事でお茶を濁しつつ、玄関のドアに手をかけた黒依に、思いの他強く飛んできた怒声。それを聞いて黒依は静かに振り返った。
「茜?」
「お兄ちゃん、最近変だよ。……あの人と急に話さなくなったし……でも、それから変。私と一緒に帰る道も、みんなでご飯食べてる時も、杏里のお見舞い行く時も、ずっと私たちのことなんか考えてない!」
「……いってきます」
茜の言葉に僅かに目を伏せた黒依はその言葉に対する返事を返すことなく、茜に背を向けた。
「待ってよ!!」
なおも兄を呼びとめようと、その腕を掴もうとする茜を、黒依は至極自然に避けた。
それは、黒依だからできる芸当で。しかし、服の裾すら掠りもせずに宙をきった手の平を見つめ、茜はぐ、と唇をかんだ。
「お兄ちゃんのバカ!!」
常人より圧倒的に聞こえる耳に、閉じた扉の向うからの罵声を聞いて、黒依はしかし何も言わずにそのまま家を立ち去った。
黒依は迷っていた。
家からほど近い森林公園の林の中。まっすぐに延びる広葉樹の幹に背を預けるが、結局そのままズルズルと座り込んでしまう。
叶湖に絶縁宣言されてからというもの、茜の言う通り、黒依の心は宙に浮いたままだった。
叶湖がどうして自分を自由にしたのか、まったくもって、黒依には理解できていなかった。
彼女が裏切り行為だと、不快感をあらわにしたことについては、黒依は深く悔いている。結果的に、最初の連続猟奇殺人の犯人は彼女ではなかったようであるし、勝手な勘違いをした挙句、1人で焦って彼女のモノに傷をつけてしまったのも事実だ。
叶湖に見放されてもおかしくないほどのミスを重ねてしまったと、黒依自身も自覚があった。
しかし。
どうして叶湖が黒依を自由にしたのかその1点については黒依はまったく叶湖を理解することができていなかった。
本来の『嘘々叶湖』であれば、叶湖は迷わず黒依を殺したに違いない。にも拘らず、『彩藤叶湖』はそうしなかった。
自らの未来が続いていることに、自分が彼女の元へ戻れる可能性を見出そうとし、しかし黒依は自分から叶湖に歩み寄ることは決して自分に許そうとは思わなかった。
何度も何度も悔いたこと。自らの有用性が、彼女に近づくものとして、到底十分でないことがその大きな理由の1つで。
そんな二の足を踏みつつ、そもそも未来の自分は彼女の側にいられるのだろうかと、不確定な希望に自らを見失いそうにもなる。
叶湖が黒依と行動を共にしなくなってから、彼女は確実にクラスへ溶け込みつつあった。授業には出るようになり、登下校も集団登校の列に混ざる。そして何より、放課後を共に過ごす友人ができていた。
彼女が持つ本来の異質さを表に出さず、対他人用である笑顔と優しさで、その『友人』に接している現在の状況に、心のどこかで安堵を抱きつつ、しかし彼女から一切の興味関心さえ向けられていない自分の現状と比較してしまえば、たちどころに溢れだしてしまう醜い嫉妬心に、殺意まで沸いてくる。
そんな気持ちを抱えながら、黒依は思うのだ。彼女の、『彩藤叶湖』としての人生に、自分は邪魔なのではないか、と。
彼女は黒依とは違った。
物ごころついた時にはすでに妹以外の家族を亡くし、間もなく妹を奪われ、そして自由も奪われた自分。その証拠に、叶湖と距離と置いた今、以前よりも家族と過ごすことが多くなった黒依は、しかしどう家族の中に入ればいいのか分からず、空回ってばかりいる。
「……ホントに、バカ……ですよねぇ……」
家を出る寸前に茜に言われた言葉が胸に残り、後味の悪さを味わっていた。
そんな、家族との接し方すら分からぬ自分と、叶湖はやはり違うのだろう。
彼女がいつから常人の道を踏み外れたのかは知らないが、彼女が大学に進学するのに都市部へ下宿するまでは、何ひとつ普通と変わらぬ一般家庭で過ごしていた。
もちろん、高校卒業までの学生生活も問題なく一通り経験している。
大学在学中に実家が放火によって全焼、両親を亡くした際、戸籍を始め、彼女が生きている情報をすべて隠匿し、叶湖はアンダーグラウンドへもぐった。
いかに大人数が在籍する大学のこととはいえ、学籍を抹消しても人の記憶から情報を消すことはできない。しかし、叶湖が自らの行方をくらませることに成功しているところをみると、もしかすれば大学生活は人とのかかわりの極端に薄い、ものだったのかもしれないが、それでも黒依とは比べ物になるはずもなく、『まとも』な生活であったろう。
そんな彼女であるのだから、2度目の人生とて、要領を掴んでいるはずだ。
叶湖の両親の夫婦関係は冷え切っているようだが、兄2人は純粋な親愛で叶湖の成長を見守って来た。
そんな中で、まったく『普通』になじめない、叶湖の側にいて、彼女に示されることでしか生きる術すら分からない黒依は彼女が『普通』に生きるための邪魔でしかなかったのではないか。
黒依はそう思う。
自分といる所為で、彼女は両親を殺した従妹以外に血縁者のいない天涯孤独以上の孤独になることもなく、彼女を気にかける兄2人と至極普通な2度目の人生を、今まで受け入れることができなかったのではないか。
黒依という、闇の世界でしか生きられないファクターが、『普通』の中ででも生きていける彼女を、しかしそちらの世界へ戻そうとしなかったのではないか。
黒依は自分が彼女にとって役に立たない存在で、不必要である、という事実よりも、もしかすると、それ以上。彼女にとって邪魔な、負担でしかなかったのではないかという、その可能性に酷く苛立つ自分を見つけた。
そして、そうであるならば……と思うのだ。自分は、彼女の絶縁宣言を受け入れるしかないのだ、と。
「きょーちゃん、おはよ!!」
「おはようございます、ゆとり」
叶湖は校門付近で自分を見つけ駆け寄って来たゆとりに微笑んであいさつを返した。
「聞いて! 僕ね、この間のテストで満点とれたの。お母さんも喜んでくれた。……きょーちゃんのおかげだね!」
叶湖がゆとりに勉強を教え出して、しばらく経つ。当初はゆとりの成績が下がった理由が分からなかったが、結局、それはゆとりの理解スピードに原因があることが分かった。
つまり、授業のスピードにゆとりの理解が追いつかず、主に算数などの教科書を読むだけではどうしようもない教科が少しずつ遅れて行ったようだった。叶湖が持ち前の分析力で、理解の及んでいないところを的確に判断し、そこを補足的に説明してやれば、ゆとりの実力は面白いように伸びた。
スピードが遅いだけで、1度理解すれば応用にまで対応できる柔軟性をもち、また暗記力に優れているゆとりは、正直、想像していたよりもずっと、楽な生徒であった。
「そんなことありませんよ。アナタ自身の実力でしょう?」
叶湖は珍しく本心でものを言い、ゆったりと微笑むと、教室へ足を進めようと振り返る。
その拍子に、ふと視界に入った、毎朝の登校風景に内心でため息をついた。
いつまでたっても慣れない……。生徒たちが蟻のようにうじゃうじゃと、学び舎の中へと吸い込まれていく。その様が、酷く滑稽で……。しかし、自分もその中の1人であるという事実に不快感しか感じない。
いっそ、海外にでも渡って、手っ取り早く博士号でもとってしまおうか。叶湖が不登校になりでもすれば、体裁がどうのとヒステリーを起して家に飛んできそうな親を思い浮かべ、それならば問題ないだろう、と思う。
そもそも、今さら取り繕うべき体裁が、2歳の子供を小学6年生に預けて家に戻らなくなった両親のいるような家庭にあるとも思わないのだが。
とりあえず。
「なんて退屈なんでしょうね……」
「? きょーちゃん、なんか言った?」
「いいえ、何も?」
予定調和の普通色の世界に、間違いなく、叶湖は辟易していた。
読了ありがとうございました。