小学生篇⑥ 憂鬱
登場人物
彩藤叶湖:小学5年(11歳)
大里ゆとり:叶湖のクラスメート
注意)若干暴力表現入ります
一時、叶湖の住む町で連続猟奇殺人事件の恐怖に怯えた人々は、『犯人の自殺』という警察の発表を受け、1人、また1人と緊張感から解き放たれ、日々の変わらない生活の中へと埋没していく。
『犯人の自殺』。その情報にある種の疑いを持つものなど、警察内部の数人を除けば、ほとんどいないに違いない。あれやこれやと騒ぎ立てるマスコミの人間だって、自分たちが書きたてるスクープの看板をつけた嘘八百に、一縷の事実が紛れ込んでいるなんて、一体どれほどの人間が信じていることだろう。
叶湖は日に日に輝きを増す日光に、不快気に目を細めつつ手元の書物の頁をめくった。叶湖がよく読む学術書の類ではなく、異国の歴史書である。過去の出来事など、フィクションと変わりない評価を与えている叶湖は、娯楽のつもりでページを手にとった、のではあるが、生憎その内容は頭を通り過ぎていくだけだった。
その原因が、夏に向けて上がり続ける気温の所為だけではないことをよく知っている叶湖は、苛立たしげに髪を掻きあげて、ため息を飲み込んだ。
……。衝動のままに、再び手を赤に染めたことは後悔していなかった。そもそも、倫理観や道徳観念など欠けているどころか、存在すらしているか怪しい自分のこと、後悔に至る根拠がない。
それでも、うまい具合に自分の隠れ蓑になっていた真犯人を自殺に見せかけ処分したのは、自分がそれ以上衝動に流されるのを抑えるためでもあった。
真犯人が模倣犯の存在に恐れ、自首する可能性を考えなかったわけではないが、そもそもが単独で連続猟奇殺人を犯していた叶湖のこと、模倣犯の存在が警察にバレたところで特に自分に危険が迫るとの考えはない。
あえて言うのならば、やはり自分が今しばらくは情報世界から距離を置かなければならない立場にいるから、であろう。
あの兄2人が今の年齢の叶湖に一定以上の勝手を許すことはないだろう。と、すれば、あまりに深い闇に足を突っ込むのは、いらぬ面倒を増やすだけである。
前世で実の両親が殺害された時ですら、面倒を回避するために犯人の情報を隠蔽した叶湖である。兄2人の身が心配、というよりは、自分に掛かる面倒を回避するための手段であった。
だからこそ、叶湖は自らの隠れ蓑だった真犯人を処分した。生きたままに自らを分解させ、流れた血で遺書を書かせた。……自殺というにはあまりにも狂った、真犯人の末路をそれでも自殺と警察に判断させたのは、それまで彼が犯した犯行の猟奇性と、叶湖が自らの情報をことごとく隠すことに成功したからであった。
叶湖は静かに自分の手の平を見つめる。
そもそも自分は快楽殺人者ではなかったので、殺人に快楽を求めたことはなかった。あくまで、叶湖の動機の根底は、彼女自身の精神の病。
痛覚への恐怖心であり、他人の痛覚を刺激することで、叶湖が味わう可能性のある痛覚に対しての警戒心を養うことにあったのだ。
それでも、その手段と目的、方法と結果にいつしか意味など無くなり、結局残ったのはただの衝動であった。
だからこそ。叶湖は思う。
あの夜、叶湖が極度の苛立ちを発散するがごとく男を解体した時も、すべての可能性を消すために真犯人を処分した時にも。叶湖の衝動が解消されることはなかった。
叶湖の本能が望んでいるもの。その衝動の矛先など、考えるまでもない。……それにたどり着いた時、叶湖はいまさらどうしようもない感覚を抱いて、とてつもない憂鬱を感じているのだった。
「……あの」
高く、透き通った声が聞こえ、叶湖は顔をあげた。正直、例の呼びかけだけでは、それが一体誰におくられたものか、分かったものではないのだろうが、遊びたいさかりの小学生が放課後に図書室に籠もりきる例など叶湖以外になかったし、そもそも叶湖は入口から最も遠く、本棚の影で死角になる奥まった場所を陣取っているので、この辺りで声をかけられる人間など自分しかいないことを理解してしまっての行動だった。
「何か?」
視線の先には、案の定叶湖の陣取る机の横に立ち、一心に叶湖に視線を送る少年がいた。
長めの黒髪に隠された整った顔は少女のようで、成長しきっていない体格や、声変わり前のハスキーな声も相まって、性別を分からなくさせている。
それでも叶湖がそれが少年だと分かるのは、背負われたランドセルの色以外に、彼が叶湖のクラスメートであったから、であった。
「大里、ゆとり君……でした?」
一般的に、誰にでも優しい仮面をかぶっている叶湖に微笑まれ、ゆとりは小さく頷いた。
「うん……実は、お願いがあって……」
困ったように両の眉尻を下げ、情けない表情を浮かべる少年に、叶湖は首を僅かにかしげる動作で続きを促す。
「僕に、勉強を教えて欲しいんだ……」
きゅ、とズボンのすそを握りしめて頼み込む少年の姿にくつり、とバレないように喉を鳴らした叶湖は視線で向かいの席を指した。
「とりあえず、座ってはいかがです? それから……私の記憶が正しければ、アナタの学校の成績は随分と優秀では?」
叶湖は手元に開いたままだった本を閉じ脇へ避けると、促されるままに向かい側に座ったゆとりへ視線を向けた。大里ゆとりとは、2年と4年、そして今、5年のクラスが一緒であったハズだ。2年の頃は特に際立った印象も、優等生のイメージもなかったが、4年とそして5年で同じクラスになってからは、彼も教室に数人いる、テストで100点以外を採らない人種の1人であった。
都心に近いという小学校の立地条件も相まって、子供の教育に熱心な親や、金銭的な余裕のある家庭を持つ子供は、小学4年の頃から中学受験を視野に入れ、学校とは別の教育機関で学習を進めるようになる。ちなみに、中学受験では学校で扱われる数段ハイレベルなことを扱っていかなければならない、という性質柄、そういう生徒は学校のテストなど満点が当たり前、となっていくのであった。
いわゆるお受験組。大里ゆとりもその内の1人である。
「学校では……ね」
ゆとりの表情が曇る。叶湖は大体の根拠を察した。学校とは段違いの難易度の問題を扱う、ということは、学校で満点しかとらなくとも、塾でいい成績がとれることとはイコールで繋がらない。むしろ、そうでない場合の方が多い。
「今年に入って、また成績が下がって……。お母さんには言えてないけど、夏の終わりのテストで今と同じ点しか取れなかったら、塾のクラスを落とされちゃう……。そうなったら、僕……」
顔をくしゃくしゃにして、今にも泣きだしそうな情けない顔をするゆとりに、叶湖は内心の高揚を一切表に出さずに首をかしげた。
「それを、どうして私に? アナタは知っているようですけれど、私は放課後はずっと図書室で過ごしています。要するに、アナタと違って受験用の勉強はしていません。そんな私では勉強を教えるのに不十分では? 本当に志望校に行きたいなら、お母さんに相談して、家庭教師をつけてもらった方が確実でしょう?」
「……でも、きょーちゃんはずっと、頭が良かったでしょう? 今も……。だから……」
叶湖はゆとりが紡ぐ理由以前に、第一声で固まった。
「……失礼。今、私のこと、何て呼びました?」
「きょーちゃん、て……。駄目、だった……?」
聞き咎められて不安そうにするゆとりに、叶湖はわずかに逡巡する。
「私、名字とちゃん付け、嫌いなんですよね」
自分のものではない名字で呼ばれるのは違和感以外の何物でもないし、精神年齢三十路過ぎが、10を超えたばかりの子供にちゃんづけされる、というのも受け入れがたい。
「……ごめんなさい。……ねぇ、聞いてもいい?」
「どうぞ?」
ふと、気になったように顔をあげ、まっすぐに叶湖の瞳を見つめてくるゆとりに、叶湖は笑顔で頷いた。
「あのね、無理して笑うの、何で?」
「無理して……?」
「だって、今、僕が変な呼び方して嫌だったんでしょ? なのに、笑ってた。……無理しなくていいよ。怒った顔して……いいよ?」
ゆとりの言葉がす、と頭を巡る。
「ふっ、くすっ。ふふっ……」
それがやっと自分の心にストン、と落ち着いたとき、叶湖は笑わずには居られなかった。
「これだから子供は怖い……ふふっ」
叶湖が常に笑顔でいることに無理をしていた、という認識は一切なかった。ただ、それが叶湖にとって当たり前のことで、叶湖と近い場所にいる人間にとっても当たり前のことだった。
それでも、確かに叶湖は1人で居る時、黒依と2人で居る時、その仮面をはがしていた。
と、いうことは、やはり息苦しかったのだろうか? その仮面が。
通常の大人であれば、叶湖の笑顔が仮面であるということに気付くだろう。口先はストレートな叶湖であるので、表情と言葉が矛盾することなど多々あるからだ。しかし、それに気付いた大人は素直に叶湖にその事実を告げるなんてことはしない。
ただ、叶湖の底知れなさに恐れを抱くか、叶湖の捻くれた性格に興味を持つかの2通りである。
それゆえに、これほど素直に表情を偽るなと言われたのは、叶湖にとって初めての経験であった。
「……なんで笑うの? また怒った……?」
また、何かしたのか、とゆとりが叶湖の機嫌を伺うように、心配顔で叶湖を見つめる。
「いいえ。今のはうれしかったので笑ったんですよ。……そうですね……構いませんよ?」
「え?」
叶湖からの許可の言葉に、それが何を指すのか理解しきれなかったゆとりがきょとん、と首をかしげる。
「アナタの好きな呼び方で呼んでください。アナタになら、どう呼ばれても構いませんよ。それから、私でよければ、暇なときに勉強を見ても構いません。どうせ、最近読みたい本も尽きてきたことですし、ここにただ座っているのも暇ですから。それから……そうですね、アナタの前ではできるだけ、そのままの表情をしているようにしましょうか」
にっこりと、叶湖の機嫌がいいときの笑顔で微笑まれ、ゆとりはしばし驚きの表情で停止した後、ぶんぶんと首を縦に振った。
「ありがとう、きょーちゃん!」
笑顔で礼をいうゆとりに、叶湖は内心で苦笑する。
別に、叶湖がめずらしく仏心で面倒を引きうけたわけではなかった。大里ゆとりのよくも悪くも純粋な子供らしさが叶湖にとってプラスに働きかけたのは事実であったが、子供らしい純粋さは時として自分の癪に障ることもあるのだということを叶湖はしっかりと心得ている。
にも拘らず、今まで黒依以外の誰とも別段に親しい関係を築き上げたことのない叶湖が今になってその一線を踏み越えたのか。
それはやはり、自らの利益……もとい、面倒回避のためであることに違いはなかった。
黒依と絶縁してからというもの、叶湖はとにかく1人になるのを避けた。大人しく集団登校の列に並んだし、授業を抜け出すこともしなくなった。叶湖と黒依の仲が良かったことを知る兄たちは叶湖と黒依の間に何かがあったことを勘付いてはいるが、元々大人びた2人のこと、少し早い思春期でも来たのだろう、と口を挟むことはしなかった。
思春期といえば、反抗期が付随する。もしかしたら、あまりに口うるさくしすぎることで、叶湖が今まで以上に扱い辛くなる可能性を考慮したのかもしれないが。
とはいえ、放課後は叶湖は1人になる。彩藤の家に長い時間いるのはあまり好きではなかったが、あまりに自分の別宅に行きすぎても兄2人に問い詰められる可能性があるし、何より黒依しか場所の知らない別宅はしばらくの間鬼門になろう。
尤も、放課後は例の夜以後、今まで以上にブラコンになった茜が黒依を引っ張って帰っているらしいので、あまり性急に解決すべき問題ではなかったが、丁度良く、放課後を過ごす相手を見つけたのだ。ここは、上手く乗るのがいい、そう判断したまでだった。
素の表情を見せると言った舌の根乾かぬうちに、内心で表とは別の表情を浮かべながら、叶湖はうれしそうに机にテキストを広げ始めたゆとりを見つめた。
読了ありがとうございました。