小学生篇④ 先生
登場人物
彩藤叶湖:小4年(10歳)
桐原黒依:上に同じ
宮野先生:2人の担任
「彩藤さん」
夕暮れ時の学校。秋の近づくその頃、窓の外から真っ赤に照らされて、廊下が輝いている。
叶湖は自分を呼ぶ声に笑顔で振り返った。
「何か?」
最近の日課である図書室での自習を終え、帰宅しようかと廊下を歩いていた叶湖に声をかけたのは、彼女の担任である女教師、宮野であった。
「ちょっといいかしら?」
「えぇ、構いません」
叶湖は内心とは全く異なったことを言いながら、宮野に促されるままに空になった、自分のホームルームへと入り、席に着く。
「彩藤さん、来週、宿泊体験学習があるでしょう?」
「えぇ、お知らせはずっと前にもらいましたね」
叶湖の前の席の椅子を反転させ、叶湖と向かい合うように座った宮野が本題を切り出す。
「そう。それで、お泊まりの部屋を昨日決めたわね?」
「えぇ。生徒が、というよりも前もってアナタが決めたものを確認した、に過ぎませんけれどね」
叶湖はただ、笑顔で頷く。
「……そう、ね。それで、そう、アナタと同じ部屋割になった3人が揃って、今日、アナタをもっと友人のおおい部屋に移動させてはどうか、と私に言うの」
「それで?」
叶湖は静かに足を組むと、髪を掻きあげた。口の端が綺麗に持ち上げられ、テレビや雑誌で愛想を振りまく芸能人にも劣らないだろう、綺麗な笑顔。
「この体験学習は、いつもとは違ったお友達と活動することで、お友達を増やそう、というものだから、もちろんアナタが今のお友達とずっと一緒、というのも良くないのだけれど、1人では心細いかもしれないから、一応彩藤さんのお話も聞こうと思って……」
叶湖の機嫌が目に見えて悪化していることなど思いもよらない宮野が言葉を続ける。
「そうですか。……それで、わざわざ私にお話しを持ってきてくれたんですね。ありがとうございます」
叶湖は綺麗な笑顔のまま、宮野を見つめる。
「もしかして、宿泊体験学習とは名ばかりで、生徒に1人部屋を用意できる度胸がアナタにあるとは思いませんでした」
「え?」
宮野はたった今告げられた言葉の真意が理解できず、きょとん、と叶湖を見つめる。その素振りすら、目の前の教師を無能どころか、マイナスの評価をつけた叶湖をさらにイラつかせる原因となり、また、叶湖の笑みが深くなる。
「どこから説明すれば理解できますか? 1から? アナタが普段、どれほど自意識過剰な視点でクラスを見ているのか知りませんけれど、私はこのクラスでアナタのいう『お友達』を作った覚えはありませんよ。ここまで不快に感じた教師はアナタが初めてですので、記念に教えておきますね。まず、まだ10にも満たない子供の言い訳を鵜呑みにするのは止めた方がいいのでは? おせっかいかもしれませんけれど、自分の生徒に舐められた挙句、その内容を同じく10に満たない子供へ晒すアナタを、教師として尊敬なんて、できようハズがありませんので」
叶湖の言葉を聞いて数秒。漸く咀嚼できたのか、間抜けに口を空け、顔を蒼白にする。
「あぁ、まさかアナタの生徒じゃあるまいし、泣けば解決する、だなんて甘い考えは止めてくださいね? これ以上アナタに対して気分を害すことなどない、という程の不快をすでに味わっているんですから、さらにその上を目指そうだなんて。アナタはいいかもしれませんが、私は迷惑なので」
あくまで笑顔で言いつのる叶湖に、宮野は零れ堕ちそうになっていた涙をぐっ、と堪える。しかし、それは失敗に終わり、涙が一筋、頬を伝ったのをきっかけに、宮野の涙線が崩壊する。
「……あぁ、そう」
その様子を表情を変えずに、何事もないかのように眺めていた叶湖が、思い出したように口を開いた。
「例の宿泊体験学習ですか? 忘れていたんですけれど」
言いながら、席に座る際に机の横へ置いたままのランドセルから1枚の封筒を差し出す。
「主治医からドクターストップがかかっているんでした。……と、いうことで欠席しますね。……よかったですね? 何事も丸く収まって」
叶湖は医者の診断書の入った茶封筒を教師の目の前へ差し出すと、それでは、と席を立つ。
ガラ――、と、ちょうどその時、教室の扉が開けられ、1人の生徒が入って来た。
ハッ、と気付いた宮野が涙をぬぐいつつ、そちらを振り返る。
新たな人物に先に反応したのは叶湖であった。
「アナタも先生に用事ですか? ……黒依?」
「えぇ、まぁ」
叶湖の言葉に、ではなく、宮野の様子に苦笑を浮かべた黒依は、しかし何も見なかったかのように教室を進み、叶湖の横を通り過ぎ、宮野へ近づく。
「僕も伝えるのを忘れていたんですよ。すみません、宮野先生? 僕も、欠席します」
「あら、奇遇ですね」
口先だけの言葉を叶湖が紡ぐのに、今度こそ、彼女に対しての苦笑を浮かべた黒依が、もう用事は済んだとばかりに、宮野から視線を外す。
「杏里の次の入院がちょうどその日になってしまって。母が病院へ寝泊まりするんです。運悪く、父の出張が重なったので、どうしても茜1人じゃ家に置いておけなくて」
「そうですか」
この春から、入退院を繰り返す彼の妹を思い浮かべながら、叶湖は1つ頷く。
黒依はそう言うが、彼の母である香里が、9歳の息子に留守を預けるなどという無責任なことがするはずもない。おそらく、彼以外のお守の宛てはあるのだろう。叶湖は内心で見当をつけながら、叶湖の分までランドセルを抱えた黒依を一瞥し、教室を出る。
「それで?」
「それで、とは?」
「何を泣かせていらっしゃったんです?」
まるで叶湖が何かをしたのだと言わんばかりの言い回しに、さすがの叶湖も苦笑を浮かべて別に、と返す。
「私と同室になった生徒が、親を通して直談判したようですよ? 私を別の部屋に移すように、と。おそらく、ですが」
いかに無能といえど、子供3人ばかりの文句を鵜呑みにはしないだろう。
「とはいえ、担任としては汚点だろうその部分を、あぁも正直に私に告げるとは。……不快を通り越していっそ哀れだったもので。……教えて差し上げたんですよ。職業の向き、不向きというものを」
「それは、随分とお優しいことで。……精神的な攻撃は、アナタもお好きじゃないでしょうに。余程、サービス精神が沸いたんですかね?」
言外に、そこまでしなくとも、と呆れの感情を告げる黒依に、叶湖は笑ってさぁ、と首をかしげた。
「それにしても……今まで落ち着いていたのに、どんな風のふきまわしなんでしょうね」
「何の話ですか?」
思いついたように話始めながら苦い顔をする黒依に叶湖が振り返り、尋ねる。
「生徒の話です。アナタを廃する動きなんて今まで見られなかった……」
黒依の言葉に叶湖はなるほど、と1つ頷いて口を開く。
「ただ、そういう時期なのでしょう? 成長……ですよ。もっとも、私を前に、面倒事を押し付けようとする成長が、進化か劣化か、私は知りませんけれどね」
いっそ清々しいまでに直接的で。しかし、それを聞くべき者のいない場所で発された警告に、黒依は苦い顔を苦笑に変える。
「とはいえ、子供を相手にやり返したところで、こちらが大人げないだけ。と、いうよりむしろ、いらぬ面倒を増やすだけ、といいますか。せいぜい、私に直接的な害を及ぼさない程度であれば好きにすればいい。……でしょう?」
「えぇ、まぁ」
まるで他人事のように。しかし、叶湖を心配する黒依に対して、反撃許可のラインを示す叶湖。黒依は敵わない、と思いながら1つ頷くのだった。
「ところで、あの診断書。……まさか、本物ですか?」
「あら、本物かどうか疑うなんて、意外じゃないですか。……もちろん、偽物ですよ? 直さんはまだ研修医どころか大学生ですし、賢司さんは外科医。まだ小児外科に担当されるべき私を診る医者ではありませんね。それ以前に、私が通院している科は心療内科以外にありえないのですけれど。それにしたって、しばらく行っていませんしね」
叶湖のハッキング技術があれば、たかが印刷物に押印した程度の書類であればものの数分でねつ造できてしまう。
痛覚に対する執着は、彼女の恐怖心である一方で、嗜好でもあった。故に、彼女は最初、それを病気であると判定されるのに気分を害していたハズであるというのに。
痛みに対する恐怖心から、常日頃から常人では考えの及ばないほど、病気や怪我に気をつかう叶湖のこと。痛覚を人一倍感じることが表へ出てからは、予防接種ですら受けていないのが現状で、病院にはとことん縁がない。
とはいえ、すべてが今更の面倒事を回避するためには有効な手段であると学んだ叶湖はこれまでも何度か活用して来ていた。
「それにしても、アナタまで欠席するとは思いませんでした」
香里が黒依に留守番を任せるはずがない、ということは即ち、黒依はサボリである、ということだ。もっとも、その点は叶湖も同じであるが。
「アナタが行かれないのでしたら、僕が行く意味はないでしょう?」
まるで、1たす1の答えでも告げるかのように口に出された言葉に叶湖が苦笑を浮かべる。
「まぁ、どちらでも構いませんけれど……。ですが、アナタの両親はあなたがサボったなんて聞いたら怒るんじゃ?」
「バレなければ問題ないでしょう? 叶湖さんこそ。診断書をねつ造、だなんて直さんにバレたら面倒なことになるでしょう?」
黒依が面白そうに呟きながら叶湖に視線を合わせる。そんな様子に叶湖はふ、と軽く息を吐き出した。
「なら、2人でバレないように生活するしかないですね」
「よろしくお願いします」
そろって叶湖の隠れ家へ向かいながら、2人は来週の過ごし方に考えを巡らせていた。
読了ありがとうございました。