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私と犬(アナタ)の世界で  作者: 暁理
第三章 小学生篇
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小学生篇③ 妹Ⅱ

登場人物

彩藤叶湖:小学3年(8歳)

桐原黒依:上に同じ

彩藤 直:叶湖の兄

桐原香里:黒依の母

桐原杏里:黒依の妹

 叶湖は放課後、黒依と共に帝都大学附属病院を訪れていた。小学校を出たところで、叶湖の兄である直に呼び止められ、そのまま彼の車で駆けつけたのだ。

 今日は半日授業であった茜は、昼を過ぎたところで下校し、今は家に一人でいるのだろう。







 その病室は静かだった。

 本来なら、騒ぐ他の患者や、病院独特の喧騒で耳に煩わしい騒音も多いはずであるのに。

 理事長の知り合い、という特権で特別室を用意されていることはすぐに分かった。しかしその静けさが、沈痛な気持ちを抱える人間に対して良い働きをしているとは決して思えなかった。







「黒依……叶湖ちゃんも、来てくれたのね」

「母さん……っ」

 いつもの溌剌とした香里ではなく、ひどく疲れを滲ませた人間らしい顔がそこにあった。負の表情を人間らしいと捉える自分に、自分らしいと思いながら、叶湖はゆっくりとベッドへと近づく黒依を見つめた。







「心配しなくても大丈夫よ。……大丈夫、きっと……。きっと、よくなるから」

 黒依を安心させるため、というよりも、むしろ、自分自身を納得させるために紡がれた言葉のようだった。

「なんで……どうして……」

 黒依の足がベッドにたどり着く前に止まってしまう。その肩を、香里が優しく撫でた。

「杏里……」

 香里に肩を抱かれながら、ベッドに眠っているはずの少女の名前を呼ぶ。黒依は箍が外れたようにベッドに近寄り、転落防止の柵を覗き込んだ。







 そして、叶湖は目撃するのだ。力なく眠る少女を、彼の妹を瞳に入れたとたん。彼の瞳に闇が過った、その光景を。

 叶湖はバッと身を翻した。自分の心中に動揺が走ったことは気取られただろう。『嘘々叶湖』であれば、我関せずの笑顔であの場に堂々と居座らねばならなかった。

 音などいくら殺したところで、どうせ黒依には聞こえるのだ。ならばいっそ、堂々と病室から出て行こう。


 





 叶湖の様子に気付いた直が慌てて追ってきて叶湖を捕まえる。

「どうした、叶湖? 大丈夫だ。杏里ちゃんはすぐに良くなるから」

 そんなことは嘘だと知っていた。叶湖は直に車に乗せられてすぐに、病院の電子カルテへハッキングを仕掛けていたのだ。今回杏里に発見されたのは、慢性の心疾患。すぐ、以前に治かどうかすら、定かではない病気である。

 叶湖は苛立つ内心のままで、咄嗟に掴まれた腕を振り払った。


「気易く触れないでください」

 笑顔の仮面が剥がれおちそうになるのを、一瞬、手で覆い隠した隙になんとか修復する。

「すみませんが、ひと足先に戻ります。直さんは今日は遅くなりそうですし、和樹さんは今日はご友人宅へお泊りの予定。私も今日は自宅へ戻らないことにします」

「ちょっと……帰らないって、じゃぁ、どこへ!?」

 そう言ってロビーへと歩みを進める叶湖に、直が僅かの当惑の内に声を発する。

「明日の放課後は戻ります。それでは」

 叶湖は笑顔でそれだけつげると、さっさと廊下の先へ消えてしまう。







 その後ろ姿を見送るしかできない直は、彼女に振り払われた手を握りしめ、短く嘆息した。







 今の表情のままでは、人に会いたくもない。

 叶湖は直が追って来ていないのを確認すると、職員用の休憩室へもぐりこんでいた。

 自分の別荘へ帰るにしたって、タクシーを呼ばなくてはならない。交通の便がそこまで悪いわけではないが、どちらかといえば郊外に位置する場所だ。今の精神状態で何十分も電車に乗るなんて面倒は遠慮したかった。

 職員用の休憩室、には似合わない座り心地のよいソファ。休憩室、ではなく誰かの私室のように整えられた調度は叶湖の乱れた心を僅かに落ち着かせる。上品な調度は華美すぎず、好感が持てた。


 あれほどまでに自分が動揺したなんて、記憶にある限り、初めてではないか、と思うほどめずらしい。僅かの疲れを感じて、いっそしばらく眠ってしまおうか、なんて誘惑に駆られる。

 その場所で、誰か別の人間と出くわす危険性を、叶湖は考えていなかった。

 理由は簡単である。表向きは職員用の休憩室、となっているその場所は前理事長夫人の病院内の私室であったのだ。同じ大学の看護学部の生徒だった彼女は、そのまま叶湖の父、賢司と恋仲となり、看護師としての道へ進んだ。

 叶湖が今いる場所は、賢司がその権力を僅かに濫用し、何かと病院へ詰めている自分たち夫婦が病院内でも夫婦に戻れる場所として作り、妻に捧げた思い出の場所である。







 今現在その部屋は、室内は彼女が死んだ当時のままに、定期的に掃除の手が入る以外は静かに保管されている。思い出の場所に眠る甘酸っぱいはずのソレは、今の賢司にしてみれば、悲しい色をしているのかもしれない。

 結果、入口には賢司と業者以外は故人以外知りえない電子ロックがかけられ、表向きの使用権利者である病院職員にはどうやっても入室できない部屋となっていた。もっとも、権利濫用といえば違いないが、彼女が死んでからの賢司を知る人間が、たった一室に詰め込まれた彼の気持ちに文句をつけられるハズもないのだろう。



 叶湖自身、ハッキングの試しに病院の様々な情報を引き出した際に部屋の存在を知って以来、特に興味も持たず放置していた部屋である。どれほどの思い出があるのか知らないが、結局は叶湖が生まれるよりも先に死んだ人間のことだ。今を生きる叶湖の興味が向けられることはない。

 事実、パスワードすら特に調べもしていなかったのであるが、いかに権威ある病院の優秀な電子ロックとはいえ、叶湖の手にかかれば、僅か30秒のロスであった。







 叶湖は本格的に寝入ろうとするかのような体制で、心中を巡る動揺を落ち着けようとする。

 彼は確かにその瞳に闇色を宿した。今まで決して叶湖以外の理由で与えられることのなかったその色を。

 叶湖と出会った当時、彼のすべてが妹に向けられていた時のように。







 自分の中で鳴っていた警鐘はこれを示していたのだと、叶湖は納得する。彼にとってこの世の妹は、茜ではなく、杏里であったのだと。

 殺してしまいそうだ。叶湖は自嘲を浮かべる。部屋には誰もいないのだと、表情を取り繕ったりはしなかった。

 自分が、今までだって私欲のために殺してきたに違いなかったけれど、それでも。くだらない理由だ。まさか、嫉妬だなどと。そんな理由で殺したいだなんて。







 叶湖は髪を掻き撫でる。苛立った時は、普段から気に入らない髪がさらに気に入らなくなる。彼女の癖であった。

 黒依からすべてを奪ってしまいたい。家族をすべて惨殺すれば、彼は自分を恨むのだろうか。始めて手に入れた、暖かい家族を奪われて。この自分を、殺したいほどに、恨んで憎んで……想ってくれるだろうか。

 本当に殺されることがないのは今でも変わらないと、叶湖は知っていた。黒依の世界は叶湖の世界に比べてずっと広がったが、それでも、中心に叶湖が居るだろうことを疑ったことはなかった。

 彼が自分に狂い、まさに狂愛を抱いていることは知っていた。そして、叶湖自身、その狂気に自分も狂ったのだ。

 だから。







 例え、叶湖が黒依のすべてをもう1度。今度はこちらで奪ったとして。彼が本当に叶湖を恨み、憎んだとしても、その愛が冷めることなどあり得ないのを知っていた。

 だからこそ、彼は恨み、憎み、叶湖を想い、もう1度。叶湖に深く堕ちてくるのだろう。それを考えれば、叶湖の心中に甘い渇望が芽生える。そうしたいと。そうなる未来がなんと素晴らしいのだろうと、嘘偽りなくそう思う。

 もう何度も何度も考えた未来だった。







 叶湖は湧き上がる高揚を鎮めるように、体中の力を抜いて弛緩させた。

 結局、自分が未だ実際の行動に対して、ありえないためらいを抱いているのに変わりはなく、そしてそのブレーキの根拠こそが……。

「あぁ、愛とは何と面倒なことなんでしょうね……」

 その想い故だとは。

 彼を兄にするつもりはなかった。妹にやるだなんて、そんなつもりもない。

 黒依は黒依、叶湖の所有物で、犬でしかなく、叶湖だけのものである。けれど。

 彼がようやく掴んだそれを、自分が奪い、捨てる。壊す。それの、なんと哀れなことか。







 叶湖は模索していた。愛と、欲を、どうにかして両立させる方法を。……今は、まだ。

 そして叶湖は、そんな終わりの見えない葛藤から逃れるように、そのまま眠りに落ちるのだった。ある種の狂愛に包まれた、その部屋で。


読了ありがとうございました


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