小学生篇② 装備
登場人物
彩藤叶湖:小学2年(8歳)
桐原黒依:上に同じ
「ようこそ、私の城へ」
マンションの入り口のドアをくぐったところで、叶湖が黒依を振り返り、微笑んだ。
やっとのことで手に入れた、自分だけの城に大層満足しているようで、その笑顔にいつもの偽りは見られない。
「本当に、およそ1年で出来上がってしまうなんて」
黒依は目を見張りながらも、叶湖に促されるままに彼女の城を奥へと進む。
2人の通う小学校からも、それぞれの自宅からも、電車で5駅ほど離れた場所。交通の便は悪くないが、都心に比べるとずっと静かで、閑静な住宅街である。
その一角にある、高層マンションの最上階にほど近い部屋の一室。それが、叶湖曰く彼女の城である、新しく手に入れた彼女の別荘であった。
叶湖がディトレードを始めて1年と少し。ちゃくちゃくと貯め込んだ資産はその一室と、そして室内の装備を兼ね備えてまだ、余りあるものであった。
装備。それは彼女の私室として備えられた部屋のパソコンやその周辺機器である。
もちろん、普通であればそれほど大きな買い物を、まだ10にも満たない子供ができるわけがない。しかし、叶湖であればそれが可能であった。どうやったのかは知らないが、自分に纏わる情報の操作か、それとも手っ取り早く、オンラインでつながったコネクションでも利用したのか。
叶湖は両親はもちろん、普段保護者を努める兄2人に気付かれることなく、それだけのものを手に入れてしまったのだから、つくづく彼女の持つ力なき力の大きさを感じさせられるというものだろう。
「私の私室以外は、アナタの出入りは自由ですから、気にせずどうぞ」
一応、私室まで案内した叶湖が、黒依を連れてリビングまで戻る。室内の調度は、以前のマンションを真似たように、ひと揃えで、黒依に懐かしい気持ちを思い起こさせる。
「いいんですか……?」
叶湖が私室に誰も入れないのは黒依にとってよく知ったことではあった。彼女の武器が揃う、まさに彼女の心臓部といえるその場所を、彼女が誰にも晒したくないのは当然といえるだろう。
とはいえ、普通なら誰にも許されることのない彼女の私室への侵入を、黒依は何度か果たしている。
普段、黒依すらリビングのソファで寝起きしていた以前のマンションに、寝具があるのは叶湖の私室だけであったし、何より隠密行動を得意とする黒依がいかに叶湖が警戒したとしても、侵入に困らなかった、という理由もある。
もっとも、黒依と叶湖が1番長い時間を過ごしたのは、やはりリビングルームで。懐かしさ溢れるその場所で、叶湖はソファに腰掛け、黒依はその足元へ座る。所定の位置についた黒依へ、叶湖は柔らかい視線を向ける。
彼女の態度が、再び情報という防具を身にまとった余裕からであろうことは、黒依には容易に想像ができた。
それと同時に、ずっと先へ先へ、自分の望むものへ近づいていく叶湖に対し、自分の意思の通りにいかず、足踏みを続ける自分自身に、苦い気持ちがあふれそうになるのを抑え込む。
すでに、自分の見せる負の感情で、叶湖の手を煩わせている。面倒を嫌う叶湖に嫌われぬためには、自分を押し殺さなければならない。黒依のそんな様子に気づいてか否か、叶湖はわずかに目を瞬かせるが、口から何かを発することはなかった。
「それにしても、随分とネットの環境を整えましたね」
「……とはいえ、家族が近いので、面倒事に巻き込まれるわけにはいきませんしね。しばらく仕事をするのは控えるつもりですよ」
前世では両親を亡くし、遠い親戚しか血縁者の居なかった叶湖がこともなげに告げる。
「なんだかんだいって、叶湖さんもお兄さん2人が大切なんですね……」
黒依の言葉に、叶湖はわずかに目を見開く。
「意外、ですね。私は以前の家族に対しても大切に扱っていたつもりでしたけど? 両親にとって、私は普通の娘であったでしょうし、従妹はどれほど腹がたっても自分で殺すことはしなかった」
叶湖の言葉に黒依が苦笑する。確かに叶湖が口に出したことはその通りである。一見、腹が立てば、さっさと本能のままに行動してしまう叶湖にとって、やはり身内補正のかかった対応だと思えてしまうが、実際はそうでもない。
実の両親に関しては、その命が狙われているのに気づいたものの見殺しにし、その挙句、後処理が面倒だという理由だけで、叶湖は自らの戸籍を抜き取り、その死を弔ったことすらない。おまけに、その犯人は叶湖を病的に愛していた従妹であったが、身内である関係性やその動機から、自分が面倒を被ることを避けるために、従妹の情報を隠し警察の捜査をかく乱した。
結果、捕まらずに済んだ従妹であったが、その後、叶湖の後を追って来たことで、黒依と何度か衝突した。叶湖に言わせれば、その時の黒依の扱いに何度か腹を立てたようだが、結局彼女が何か行動を起こすことはなく、キレた黒依が自分で始末をつけようとするまで放置した。とはいえ、その後、キレていた黒依が殺す気を無くすほど、自分の従妹に精神的な攻撃を加え、ともすれば数瞬の後に自殺させるほどに追い詰めたことも忘れてはならないだろう。
そんな叶湖であるから、兄だから大事に扱う、といった公式が成り立つわけもない。
「まぁ、なんとでも。少なくとも、彼らはまだ私の周りで生きていますし、なにより、彼らの中で私は、非凡ではあるかもしれませんが、まだ一般人です」
「彼らの中では、なんて。この世界ではアナタはまだ一般人でしょう?」
「それならアナタも、では?」
ただの性格の問題を平凡と非凡に、犯罪経歴の有無を、一般人か否かに置き換える彼女らの言葉で言うなら、叶湖も黒依も非凡ではあるが、確かに一般人である、未だ。
「おかしいですね。僕の手がまだ汚れていないなんて」
無意識のように、呆然と自分の手を見つめる黒依に叶湖は内心で苦笑する。事実をいえば叶湖は、以前自分を泣かせた少年に対して、グレーゾーンどころか、思いっきり犯罪行為ど真ん中のことをやってのけているのだが、黒依にとってもそれは忘れたのか、黙認であるのか。
確かに、未だ2人は自分の手を直接汚したことはない。
なんて、まだ8歳の自分たちを思い、叶湖は自分も無意識に手の平へ向けていた視線を伏せると、僅かに唇で哂ったのだった。
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