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余命三か月を、悪魔と

作者: 小鈴


「それは、本当ですか?」

 主治医が気の毒そうな視線を私に向ける。

「ええ、奇病です。身体が石のように固まっていく奇病です。」

 主治医がさらに気の毒そうな視線を私に向けた。

「治す薬も治癒術もありません。余命はあと、三か月かと。」



 その日の午後、婚約者と会う約束をしていた。私は病のことを話すべきか迷って。迷って。

 そして話さないことに決めた。私の望みは、あと三か月のあいだ婚約者でいてくれて、時々一緒に過ごしててくれること。それでいいと思った。それで私は満足だと。

 それでも少し迷っていた。今後のことを考えれば、婚約者なら話しておくべき事柄かもしれなかったから。


 しかし午後には、悩む必要がなくなってしまった。

 彼にとっては政略結婚でしかないとわかっていた。それでも、友愛の気持ちはあると思っていたのに。

 違う、彼がどんな気持ちでも、私は好きだったのに。

 それなのに。あと三か月一緒にいてくれたら、それで良かったのに……!!


 彼が告げてきたのは婚約解消。侯爵家から正式なものにする前に、一言伝えたかったからと。本当に申し訳ないと謝罪し、私の幸せを祈るとそんな言葉まで付け加えて。

 私は呆然としてその言葉を聞いていた。ひとことも言えなかった。

 謝罪も私の幸せも、何の意味があるだろう。私は、あと三か月で死んでしまうというのに。

 私も、彼の幸せを祈ると言うべきだったかもしれない。けれど、そんな言葉は出てこなかった。

 だって、私が彼を前にしてひたすら思っていたことは。


 憎い。


 私はあと三か月で死ぬ。

 それまでの、もう少しの間、婚約者でいてくれたらそれで良かったのに。

 私はあと三か月で死んで。

 彼と、彼の新たな婚約者である男爵令嬢は幸せになる。

 そして私が死んだ後も幸せに暮らす、年老いるまで仲睦まじく。

 

 憎い。

 私にはもう、好きだった婚約者はいない。

 新たな婚約者に出会い、もしかしたら幸せな結婚ができるだけの時間もない。

 憎い。

 せめて三か月だけ、彼がそばにいてくれれば。それで、それだけで良かったのに。

 彼が憎い。彼と幸せになる男爵令嬢が憎い。

 どうしようもないほど、憎い。


 いっそ、私が死ぬように、二人を殺してしまおうか。

 男爵令嬢を私のお茶会に呼び出す、お祝いを言いたいからと。伯爵家の私が呼び出せば、彼女は来ざるを得ない。心配して彼も来るわ。

 にっこり笑って、お祝いの言葉を述べながら、お茶を振舞う、毒を入れて。

 男爵令嬢はやはり飲まざるを得ない。祝われたら彼も飲まざるを得ない、たとえ不審さを感じたとしても。

 無色透明、無味無臭、三滴で、あまり苦しむことなく死ねる毒。

 二人は私が毒を入れたのだと気づくかしら?

 死ぬ恐怖を味わうかしら?

 それとも、私の意図に気づいて後悔を感じるかしら?

 それとも、私を憎いと思うかしら?

 でも、毒を飲んでしまったら死ぬしかないわ。解毒剤はあるけれど、即効性の毒だから間に合わないもの。

 私はそれを見て、死んだ二人を見下ろして…………。


 ああ、ようやくわかった。そんなことをしても、空しいだけ。

 憎しみが少しはおさまるかもしれないけれど。少しだけ気は晴れるかもしれないけれど。

 結局、私は愛されないまま。

 誰にも、愛されないまま。

 私のそばにいてくれる人は、誰一人いない。

 二人を殺しても、殺したいほど憎んでも、私の空しさは埋まらない。

 孤独な童話の姫君のように。


 “ひとりぼっちの姫君は、大きな館にただひとり

 百のお部屋に広い庭、けれどそこには姫ひとり

 広いお庭の四阿で、姫はひとりで座ってる

 誰もいない大きな館、姫君だけが生きている”


 私もまた、ただ独り、広い牢獄のような館に残される。

 なぜなら伯爵家に残された唯一人の跡継ぎである私を、気づかう人はいないのだから。皆が気にするのはただ、爵位と財産の行方のみ。

 


 数日後、侍女たちが噂をしているのを聞いた。元婚約者が令嬢と馬車に乗っているのを見かけたと、仲睦まじそうに。婚約解消して天罰が下る、そんなこともなく。

 それどころか、二人にあるのは幸せ。幸せな今と、幸せな未来。

 それなのに私は、私だけ独り。私のそばには誰もいない。

 死ぬまで、私ひとりだけ。

 憎い。元婚約者が憎い。男爵令嬢が憎い。でも、それ以上に私は。


 私は、愛されたい。

 誰かに、そばにいてほしい。

 

 けれど、私を愛してくれる誰かはどこにもいない。死ぬまでの間、そばにいてくれる誰かもいない。

 むなしい。さみしい。独りでいることがこんなに苦しい。

 ああ、それくらいなら。

 身を焦がすような憎しみに、身を任せられたら良かったのかもしれない。死ぬまでそうしていれば、少なくとも暇じゃなくなるわ。憎むというやることがあるのだから。


 でも、それよりも私は、誰かを憎むより、空しさを抱え続けるより、さみしさに狂いそうになるより。

 私は愛されたい。

 愛されたくてたまらない。

 誰かにそばにいてほしくて、たまらない。


 なぜだろう。ふと思い出した。こんな恋愛小説が流行っていた。 

 誰にも愛されないどころか虐げられているヒロインが、イケメンでハイスペックついでに身分も高いヒーローに溺愛される、とかそんな話。

 今こんな話を思い出してどうしようというの、と可笑しくなった。

 でも、でも、なんてうらやましい。

 私にもそんな人が現われたらいいのに。本当にそうなったらいいのに。

 

 でも、そんな人はどこにもいない。

 現れてくれるのを、待つ時間もない。もし現れても、私が死んだら単なる悲恋。

 それなら、狙うのはむしろ転生のほうかしら。そんな恋愛小説もあった。今度生まれ変わったら、私を愛してくれる人と……。


 嫌。イヤだわ。

 私は、今がいいの。

 だって、さみしくて、さみしくて。

 今、愛してくれる人がほしいの。そばにいてくれる人がほしいの。

 死ぬまでの三か月でいいから。

 たとえ嘘でも、いいから。

 そう、嘘でも――。

 

 思いついた。我ながら突拍子もなかった。そう、悪魔召喚。

 もちろん禁じられている術だけど。誰それが召喚したとか、誰それが悪魔に取り憑かれたとか、噂は尽きない代物。妖しい媚薬のように、禁じられていても、意外にも手に入れる伝手は近くにあったりする代物。

 うちの書庫にも確かあった。それがまがい物かどうか、私に見分けるすべはないけれど。


 やはり可笑しくなった。さみし過ぎて、むなし過ぎて、私はこんな手段まで考えてしまった。悪魔と取引しようなどと。

 仮に上手く悪魔を召喚できたとして、その取引まで上手くいくとは限らない。いえ、取引が上手くいくことはまず、ない。

 出回る噂では、たいてい人間が不利。狡猾な悪魔は人間の欲望につけこみ陥れて、その魂を喰らうのだから。

 けれど。それでも。

 私は愛されたい。

 あと三か月の間、それが嘘でも、幻でも。


 だから私は、悪魔を呼び出すことにした。



 身体の動く今のうちにと、独り夜の図書室に入る。図書室の奥の奥、隠し扉を探し当て開く。

 古びた一冊の本があった。意外にもその本は薄かった。これ、本当に本物かしら?


 手に取り、埃を払う。払った埃に咳き込み、咳き込むことができるくらいまだ私は生きているのだと可笑しくなり、それから慎重に表紙をめくった。

 目次から探していく。始めから終わりまで、念のため二回読む。呪いだの暗殺だの物騒な言葉が多い。けれど私が探しているのはそんな面倒なものではなく、もっと単純な。そう、これでいい。

 願いを叶えてもらうために、悪魔を召喚する方法。


 そのページを開けば、魔法陣が載っていた。少しほっとする。これなら初級魔術をかじっただけの私でも、発動させられそうだった。

 有難いことに、満月とか新月とか、そんな天候条件は必要なかった。黒水晶とか、トカゲの何たらとか、手に入れるのに時間がかかりそうな術具も必要なかった。

 魔法陣と呪文、それだけで召喚できる。この本がまがい物でなく、本物ならね?


 図書室の隅に置いてあった魔法陣用の魔紙も抱え、私室に戻った。

 使用人が私を気にかけたりはしないけれど、念のためドアに鍵をかける。窓の鍵もかかっていることを確認する。

 カーテンを開けたら月の光が絨毯に落ちてきた。これはそのままにしておく。何だか、雰囲気が出て良いものね?

 

 まだ私の身体は動く。まだ痛みもない。それに感謝しながら、床に魔紙を広げた。指先に魔力を込め、本にある魔法陣を写してゆく。二重円を描く。そこに六芒星を組み合わせる。なぜかしら、何だか楽しいわ?

 続けて古代の魔術文字を描き入れていく。この文字が契約の一環になっているはずだけど、私には半分も読み解けない。魔界からの召喚と、それに伴う契約、その対価、そして注意事項。対価と注意事項こそが人間にとって重要なのだけど、私にはどちらも分からなかった。


 それでも魔法陣は完成し、次に唱える呪文を確認しようと本を手に取る。

 そこで私の手は止まってしまった。

 こんなことをしている自分の馬鹿馬鹿しさに可笑しくなり、同時に召喚が叶わなかったときにどれほどがっかりするか、想像できてしまった。残るのはきっと、絶望だけ。

 

 それでも、もし結果が絶望しかなかったとしても、今、私は少しだけ楽しかった。久しぶりに楽しいと感じられた。

 だから、それで良い。

 もし何も起こらなかったら、明日また試してみたらいい。これが楽しいことを理由にして、残りの日々、身体が動くまで、何度でも。

 もしかしたら、うっかり召喚されてしまう悪魔がいるかもしれないものね?


 再び本と向き合う。呪文を指でたどる。大丈夫、ちゃんと読める。念のため口の中で三度唱えてみる。

 そして、口に出すことをためらった。

 もし、この術に何の意味もなければ……。

 本を握り締め、私はうつむく。想像した絶望が襲いかかってくるようだった。

 ああ、それでも。

 それでも、身体の動く今のうちに私は。

 私を愛してくれる誰かが現れる可能性に、賭けずにはいられない。結果その先が、絶望でも。


 膝立ちのまま、震える指先でもう一度呪文をなぞる。呪文を唱える。 

「ラ・ヴァル・アンテ・セブラン・シル・ディール。」


 意味は簡単。我が望みのため悪魔を召喚す、契約に応えよ。けれど。

 部屋は静かだった。

 待っても、待ってみても、部屋はただ静かだった。

 私はぺたんと床に座り込む。やはり、駄目だったのかと。

 

 その時、月光がゆれた。閉めたはずの窓を見れば、なぜかカーテンも揺れていた。

 そして視線を戻せば、驚くほど静かに、そこに、魔法陣の上に何かがいた。


 ……まあ、本当に。

 私は床に座り込んだまま見上げる。

 禍々しい漆黒の翼、山羊のような角に流れる黒髪、切れ長の目には深紅の瞳。

 ……まあ、とっても悪魔的。

 しかも美形。しかもと、呆然としたまま私は思う。うっかり召喚されてしまった悪魔の見た目が、元婚約者より好みとは。


 深紅の瞳が面白がるように私を見下ろした。

「召喚に応えてみれば、これほど美味しそうな魂だとは。」

 まあ、素敵なお声。まるで弦楽器の音色ような。

 緊張の糸が切れた私は怖さを感じなかった。むしろ楽しくなってしまい、思わず話しかけてしまった。

「私の魂は、美味しそうなの?」

 悪魔が軽く首をふる。

「わかっていないようだね。悪魔から見ると、実に美味しそうな匂いを放っているのだよ。」

 私はその悪魔的な言い回しに、また楽しくなってしまった。

「人間の私には、どんなふうに美味しそうなのかわからないわ。良かったら、教えてくださる?」


 悪魔が笑った。それだけで私は、どういうわけか魅せられたようにどきどきしてしまった。

 悪魔が口を開く。

「きみは怖くないのかな?」

「怖いというより、さみしいの。死ぬまでの間、誰も私のそばにいてくれないことが。」

 ああ、また私は考えもせず思ったままを口に出してしまった。さすが悪魔、もう私に魔法でもかけてしまったのかもしれない。


 再び悪魔が笑う。

「少々不審そうだね。悪魔が何か良からぬ術でも使ったと思ったかな?

 だが、それは心外だ。高位の悪魔に、そんなものは必要ない。」

 私は魔法にかけられてはいないの?しかも、このヒトは高位の悪魔だというの?

 悪魔がくすりと笑う。

「おや、今度は目が丸くなった。

 だが、これは少々魔法を使うよ。」

 

 私の体がふわりと浮き上がった。運ばれたところはソファの上。そして、ふわりと降ろされる。

 驚いたものの、私はやはり楽しくなってしまった。死ぬまでにこんな体験ができるなんて!

「わざわざソファに座らせてくださって、ありがとう。」

「高位の悪魔は紳士的なのだよ。」

と悪魔は私の前に立ち、笑みを浮かべて見下ろした。

「さて、きみの望みを聞こうか。」


 私は思わず笑ってしまった。なぜなら悪魔の出現で、願いを叶えてもらうことなどすっかり忘れていたのだから。

「願いを叶えてくださるの?」

「おや、そのために召喚したのではないのかな?」

 ……先ほどまでの楽しかった気分がしぼむ。さみしさと空しさを思い出して。絶望的なほどの願いを思い出して。

 私は悪魔を見上げる。叶えてくれるというのなら、私は願わずにはいられない。

「死ぬまでの間、そばにいてほしい。私を愛してほしいの。」


 悪魔の唇がニヤリと上がる。

「実に迂闊だね。美味しそうな魂のきみが、悪魔にそんなことを願うとは。」

「あら、迂闊だなんておっしゃってよろしいの?言わなければ、私は気づかなかったのに。」

 思わず私は言い返し、そんな自分に驚いた。元婚約者とだって、こんなふうに会話したことなどなかったのに。

「高位の悪魔は紳士的なのだよ。」

 悪魔が堂々とそう言う。悪魔が紳士的だなんて、聞いたことがないけれど。


「詳しい事情を聞かせてくれるかな?」

 すっと悪魔が私の隣に座り足を組んだ。

 夜中に私室で悪魔とおしゃべり、その荒唐無稽さにやはり私は楽しくなってしまった。本当なら、悪魔と不利な契約をしないよう見抜かなければならないところなのに。いえ、そんなことはどうでもいいわ。いずれ私は死ぬのだし。


「私のおしゃべりを聞いてくださるの?」

「そばにいてほしい、愛してほしいというのは、少々抽象的だ。願いを叶えるにあたって、具体的なところが知りたいのだよ。高位の悪魔は紳士的かつ親切なのでね。」

 悪魔が親切だなんて聞いたこともないけれど。私は今ここに、悪魔でも誰でもそばにいてくれることが嬉しかった。

 だから話してしまった、病を宣告されてからの出来事に、問われるまま名前まで、何の警戒もせず。


 話し終えれば、悪魔の眉がひそめられた。その大きな手がそっと私の指先に触れる。

「きみの身体に異常を感じていたが、確かに石化病のようだ。」

と、悪魔がくるりと手のひらを返した。そこに現れたのは、小さな硝子の器に入った透きとおる青の液体。

「まず、これを飲みなさい。」

 有無を言わせない口調だった。私は差し出されたそれを手に取り、やはり何の警戒もせず飲んでしまった。のどで小さな泡がはじける、さわやかな味だった。

「望みを叶えてほしければ、毎日これを飲むのだよ?」

「それが条件なの?これを飲むことで私の魂が奪いやすくなるの?」

 思わず聞いてしまった。悪魔が正直に答えるとも思えないけれど。

 しかし隣の悪魔は笑っていた、実に悪魔みたいに口角を上げて。

「まったく、高位の悪魔だと言っただろう?そんな手段は使わない。」

 

 そして悪魔はこう言った。

「賭けをしようか。」


「まあ、悪魔がわざわざ人間と賭けをするの?」

「おや、きみは知らないのかな?人間に希望を持たせて、絶望に落とすのが悪魔の手口だよ。」

 そんなふうに言われても、私はあまり怖くなかった。

「あら、あなたは私をさらなる絶望に落とそうというの?

 余命三か月で、私を心配する人など誰もいない、婚約者すら去った私に?

 ええ、そうね。今すぐあなたが帰ってしまったら、私はとても残念。

 でも、絶望にはならないわ。だって、こうやって召喚に応じて、私とのおしゃべりに付き合ってくださったでしょう?それだけで今、とても嬉しい気分なの。」


「本当に、きみは私が見込んだとおりの人間だ、実に美味しそうな。」

 悪魔の唇がニヤリと弧を描く。

「きみの望みは、死ぬまでの三か月間、悪魔に愛してほしいということだな?」

「そうよ。」

「もう少し具体的な行動で言えば、そばにいて、話し相手になり、食事を共にし、一緒に過ごしてほしいということだな?」

「そんなにしてくださるの?嬉しいわ。」

「時に冗談を言い合い、共に過ごすことを楽しみ、優しい言葉をかけ、きみをいたわり、恋人のように愛情を注ぐということだな?」

「あら、そこまでしてくださるの?」

 私は驚く。ずいぶんと親切な悪魔。でも、遠慮はしないことにした。くれるというならば、私は本当にそれが欲しいのだから。

「ええ、そのとおり。私はそれが欲しい。」


 悪魔の笑みが深くなる。そして発せられた言葉は。

「ではその間、もし、きみが私のことを好きにならなければ。」

「ならなければ?」

「その奇病を治してあげよう。」

「そんなことができるの?」

「高位の悪魔だぞ、無論できるとも。オプションで、元婚約者の気持ちを変えてやってもいい。」

「それは要らないわ。」

 口から出た言葉に自分で驚く。私、要らないのかしら?

「ほう、なぜ?」

 悪魔がゆったりと首をかしげる。なぜって、それは、気づいてしまったから。

「あなたと話すほうが、あなたと過ごしている今この時間のほうが、楽しいのだもの、元婚約者よりずっと。だから、もう要らないの。

 死ぬまで一緒にいてくれるなら、あなたがいいわ。」

 悪魔があきれた表情を見せる。

「きみは本当に迂闊だね。」

「あら、それよりここを確認しておきたいわ。」

「何かな?」

「もし私があなたのことを好きになったら、どうなるの?」


「クローディア、きみの魂をもらう。」

 悪魔の深紅の瞳がぞくりとするほどの輝きを放った。私は魅入られたように目が離せなくなって……。


 けれど悪魔は目を細めてくすりと笑った。

「安心するといい。魅了やそれに類する術は使わない。紳士的な高位の悪魔だからな。」

 それが本当かどうかなど、私にはどうでも良かった。

 気になるとすれば、私の魂にそこまでの価値があるとは思えないこと。けれど、悪魔には悪魔の好みがあるのかもしれない。この悪魔が美味しそうというのなら、食べたら美味なのかもしれない。


 何より、私は悪魔の契約の話を知っている。一見フェアなように見えても、実はからくりがあって人間に不利にできている。悪魔は人間がどうあらがおうとも、契約した人間の魂を奪っていく。

 だから、結末は見えている。私がどんな行動をしようと、結果は同じ。賭けだのなんだの言っても、死ぬ間際にこの悪魔は私の魂を奪っていく。私は死に、魂は悪魔のものとなる。

 でも、そんなことはどうでも良かった。

 悪魔がいてくれる。私のそばにいてくれる。死ぬまでの三か月間。

 それでいい。それが私の望み。それが叶うのだから。

 そして――。



「おはよう、クローディア。朝食を一緒にとろうか。」

 そんな会話から朝が始まった。

「あら、悪魔も朝食を食べるの?」

「いったいきみは、悪魔を何だと思っているのかな?」

「悪魔というからには、不健康そうな生活を送っていると思ったわ?」

「まったくきみは、悪魔を何だと思っているのかな?」

「あら、朝食は食べるのね。健康的だわ。羊の血のジュースに、黒トカゲの丸焼き、黒水晶の粉末をふりかけて?」

 悪魔が楽しそうに笑った。

「本当にきみは、私を何だと思っているのかな?」


 そして悪魔が用意してくれたのは。ふわとろのスクランブルエッグに香ばしいソーセージ、甘味の増した焼きトマトにころんとマッシュルーム、そして甘辛ソースのベイクドビーンズ。かりっと焼かれた薄切りトーストにはバターとマーマレードがそえられて。そばには紅茶のポットとミルクまで。

「美味しそう!でも、悪魔も食べるの?」

「高位の悪魔は食事にこだわるのだよ。」

 うなずいた悪魔が堂々と胸をはる。

 本当かしら?でも、どちらでも良いわ。こうやって私と会話をしてくれて、一緒に食事をしてくれることが嬉しいのだから。

 でもこの朝食、どうやって用意したのかしら?その疑問を問いかける前に悪魔が私に差し出した、昨夜も渡された青い液体を。

 私は素直に受け取りそれを飲む。やはり、さわやかな味だった。



 朝食のあとは悪魔が誘ってくれて、館の庭を散歩することになった。そして悪魔が言うことは。

「これは何という花なのかな?」

 私は可笑しくなった。私と会話するためとはいえ、悪魔がこんなことを聞いてくるなんて。

「あら、悪魔が花の名前を知りたいの?」

「高位の悪魔は教養豊かでね。とはいえ知らないことというのはあるものだ、人間界の花の名などは。きみが教えてくれるかな?」

 私と話したい、悪魔からそんな気持ちが感じられて、やはり私は可笑しくなった。それが嘘でも、私には嬉しかったから。

 歩きながら指さしていく。

「もちろん、お話しするわ。クロッカスにスイセン、こちらはムスカリ、そしてチューリップ。

 チューリップは色もだけど、模様や花びらの形がいろいろあるの。悪魔にチューリップの好みはあるかしら?」

 そこで私の足は止まってしまった。


「どうした、クローディア?」

 悪魔の声は優しかった、たとえそれが嘘だとしても。

 私は悪魔を見上げる。この悪魔は全部知っている。取り繕ったところで、誰かに愛されたいという私の願いまで知っている。ならば、隠したところで無駄だわ。

「私はこの花が一番好きなの。」

 すでに咲き終わり緑の葉だけになったそれを指さす。

「スノードロップ。早春に咲く花だから、私がもう一度見ることは叶わない。少し、残念だわ。」


 すっと、悪魔が手を伸ばした。指先がその葉に触れる。

 と、見る間につぼみが現れて、一輪のスノードロップが咲いていた。


 摘み取ったそれを悪魔が硝子の花器に差し入れる。

「しばらくの間、楽しむといい。」

 渡された、滴のような白い花をじっと見つめる。もう、嘘でも何でも良かった。

「ありがとう。嬉しいわ。」

 ぽつりと言えば、悪魔の指が私の頬に触れた。こぼれた涙は悪魔に奪われてしまった。



「一口サイズのサンドイッチが三種類。みずみずしいキュウリに、スモークサーモンとクリームチーズ、あとは卵サラダにハーブを合わせてあるわね。それからピクルスとサラダ。スコーンにはクロテッドクリームとストロベリージャム。そしてケーキが二種類、ドライフルーツのパウンドケーキに、ストロベリーとカスタードクリームのタルトかしら。

 なぜ悪魔が、アフタヌーンティーまで知っているの?」

 用意されたものに、私は思わず聞いてしまった。

「言っただろう?高位の悪魔は食にこだわるのだよ。」

 やはり悪魔は堂々とそう言った。本当かしら?本当でも嘘でもどちらでもいいけれど、私はさらに聞いてみたくなった。

「悪魔がわざわざ食にこだわるの?」

 にやりと悪魔が笑う。

「きみが悪魔の食生活を知りたいというのなら、ぜひ教えてあげよう。魔界の暮らしにも、興味があるかな?」

「教えてくださるの?ぜひ、知りたいわ!」

 私は思わずそう答えていた。


 悪魔の話はおもしろかった。悪魔がこんなに話し上手とは知らなかったけれど。

 人間の食事は興味深いので、高位の悪魔は取り寄せて楽しんでいること。人間界に食べに行くこともあること。魔界の料理人にも作らせていること。

 羊の血のジュースや黒トカゲを焼いたものも食べられるけれど、自分の好みではないこと。それよりスクランブルエッグやカスタードクリームのタルトが好きなこと。

「きみは何が好きかな?」

 悪魔が問う。悪魔は私の話も聞いてくれる。

 私は答える。スクランブルエッグは私も好きなこと。ジャムはアプリコットが好きで、ケーキならドライフルーツのほう。

 ……こんなふうに私の好きなものを話したのは、久しぶりだわ。



 悪魔は使用人が来ると姿を消すものの、しばらくするとまた現れる。

 いつの間にか、ソファーに座っていたり。窓辺でぼんやりしている私の隣に、静かに立っていたり。宙に浮いて私を見下ろしていたり――。

「……今、すごく驚きましたわ。」

 すっと悪魔が私のそばに降り立った。

「おや、驚かせすぎたかな?ちょっとした冗談だったのだが。」

 昼間なら冗談で笑ったと思う。でも、今、夜だし。


「あなたが冗談でしたことなのはわかりましたけれど、怖すぎました!」

 ああ、私はまた感情のままに話してしまった。しかも怒ってしまうなんて、悪魔相手に。

 すると悪魔はすっとソファに座ってしまった。そして、ふわりと私を浮かせると隣に座らせてしまった。

「すまなかった。きみの驚いた可愛い顔を見られるかと、思ったのだが。」

 ……可愛い。本当かしら?いえ、きっとこれは嘘ね。恋人みたいに、そんなお願いを私がしたからだわ。

 でも、たとえ嘘でも、そんな願いまで悪魔が叶えようとすることに嬉しくなった。たとえ魂を奪うためだとしても。


 それに、怒ってしまい気まずいのはむしろ私のほうだった。それなのに、悪魔が謝るなんて思わなかった。

「悪魔が謝罪してもよろしいの?」

 堂々と悪魔がうなずいた。

「もちろんだとも。高位の悪魔は紳士的で誠実なのだよ。」

 本当かしら、悪魔が誠実だなんて。

「きみの気分を害してしまったおわびに、魔界のことを話そうか。まずは天気の話から。」

 私は思わず笑ってしまった。悪魔がおわびをしようとするなんて、しかも天気の話で。


「魔界というからには、ずっと夜かと思っていたわ?」

「きみは魔界をいったい何だと思っているのかな?」

「ずっと夜ではないのね。けれど、不健康そうなイメージだわ?」

「この国の王都は霧と雨が多い。ここも不健康ではないかな?」

 私はまた笑ってしまった。

「悪魔がそれを知っているとは思わなかったわ。わざわざ人間界の天気に興味を示すなんて。」

「まったく、きみは悪魔を何だと思っているのか。悪魔も天気の話をするに決まっているだろう。人間界より天気のバリエーションが豊富でね。」

 そう言った悪魔によれば、小さいものから大きいものまで、何やらいろいろ降ってくるようだった。そんな荒れた日や嵐の日も多いけれど、晴れて穏やかな日もあるらしい。

 私はあれこれ質問しながら聞いてしまった。でも、本当かしら?

 でも、どちらでもいいわ。悪魔が私を楽しませようとしていることは、わかるから。

 そして悪魔は、私が眠くなるまでおしゃべりをしてくれた。



 美味しい食事を悪魔と共に楽しみ、庭を散歩、お茶の時間、眠くなるまでおしゃべり。

 しばらくそんな日々が続いた。私はただ嬉しかった。幸せだとすら思った。

 まだ私の身体は動く。痛みもない。いずれ痛みと共に私の身体は動かなくなるけれど、その日まで悪魔とこんなふうに過ごせたらと。

 そうね、悪魔は最期までそばにいてくれるかしら?

 いてくれそうな気がした。私の魂を美味しそうと言った悪魔なら、きっと奪うまでそばにいてくれる。そう考えて嬉しくなった。


 そんなある日、唐突に悪魔が言った。

「どこかに出かけようか。館にいるばかりでは、きみもつまらなくなるだろう。

 話題のティールームでも、観劇でも、どこでも悪魔が連れて行こう。」

 やはり私は可笑しくなった。

「悪魔がティールームや観劇を知っているの?」

「もちろんだとも。人間の暮らしは興味深いのでね。」

「あら、もしかして、人間にまぎれて楽しんだりするの?」

 悪魔がニヤリと笑った。

「こちらは堂々と姿を見せても構わないのだが、人間が騒ぐと騒々しいのでね。」

 それはそうかもしれない。噂では悪魔ハンターという職種の方もいるようだし。そこで私はさらに聞いてみることにした。

「ではどうするの?姿を消すの?それとも、人間の姿に変身するの?」

「おや、きみにも悪魔のことがわかってきたようだ。

 姿を人間に似せ、かつ誰も気に留めぬよう術を使うのだよ。」

「それなら悪魔も人間界を楽しめるわね。」

「そのとおりだ。だからきみを、どこにでも連れていけるぞ?」


 本気かしら?悪魔は本当に私の望む場所に連れて行ってくれるというのかしら?

 今まで私に、そんなことを言ってくれた人はいなかった。そう、いなかったのに。

「さあ、どこがいい?」

 悪魔が聞く。ただ私に聞いてくれる。


「海が見たいわ。」

 気づけば私はそう答えていた。


 ティールームにも行ってみたかった。隣には人間に姿を変えた悪魔、それを知っているのは私だけ。そして悪魔と一緒にお茶を楽しむ、なんて素敵じゃない?

 悪魔と一緒なら観劇も行ってみたかった。悪魔が舞台を見て、私にあれは何かと聞いてくるかもしれない。もしかしたら悪魔のほうがよく知っていて、私が教えてもらうことになるかもしれない。それも楽しそうじゃない?


 けれど、真っ先に思い浮かんだのは海だった。

 王都には海がない。伯爵家の領地にも海はない。旅行に連れて行ってくれる人もいなかった。私は海を見たことがない。


「では、行ってみようか。」

 悪魔がいきなりそう言った。さすがに驚いて、困ってしまった。

「もう、夜だけど?」

「だから、ちょうど良いのだよ。さあ。」

 悪魔が手を差し出す。私は少し迷ったものの、その手を取った。

 次の瞬間、すっと景色が変わって――。


 満月だった。

 夜空と、目の前に暗くどこまでも広がるものを、明るい月が照らしていた。

 その光が、ひと筋の道のように波に浮かぶ。遠く、遥か向こうまで。

 ……それとも、遥か向こうからこちらへと、光の道が届いているのかしら。


 私は言葉もなくそれを見つめた。繰り返す波の音と共に、それが消えるまで見つめていた。

「冷えてきた、そろそろ戻ろうか。」

 悪魔がそう言うまで。



 翌朝、昨夜の出来事が夢なのか本当だったのか分からなくなったところで、悪魔が誘いにきた。

「さあ、海に行こうか。」


 移動はやはり一瞬だった。驚く間もなく、それが現れた。

 誰もいない白い砂浜、その向こうには青が広がる。

 その広さに目を瞠る。空と海の境目をぐるりとたどってみる。

 途切れることなく寄せては返す波が、ただ不思議だった。

 悪魔が木陰に椅子を出してくれた。座って、大きな青を見つめる。ただ繰り返す波の音を聞く。


 それから、誘われて悪魔と砂浜を歩いてみた。

 砂は歩きにくいからと、悪魔が差し出してくれた手に私の手を乗せる。けれど言われたとおり砂に足を取られて、よろけてしまった。そんな私を、悪魔が支えてくれた。


「海に行こうか。」

 今日もまた、悪魔が誘ってくれる。

「嬉しいわ。」

 私はそう答える。


 行くごとに私の行動は大胆になっていった。

 悪魔にすすめられて、裸足になって砂浜を歩いてみる。

 きれいな貝殻を見つけたので、拾ってみる。

 きれいな色のガラス片もみつけたので、拾ってみる。

 拾ったものを悪魔に見せれば、悪魔が桜色の貝殻をひとつ、私の手のひらに落としてくれた。


 波打ち際を歩いてみる。

 寄せてきた波が素足にかかる。

 ドレスのスカートの裾を持ち上げて、もっと波打ち際を歩いてみる。

 そんなことをしていたら、予期せぬ波にスカートがびしょ濡れになってしまって。

 これ、どうしましょと首をかしげていたら、笑いながら悪魔が乾かしてくれた。



 病の進行はゆるやかだった。

 主治医から聞いた話では、すでに脚や腕が動かなくなっているはずだったけれど、まだ動いた。歩くこともできた。

 指先が強張っているけれど、眠る時間が長くなったり、食事の量が減ったりしているけれど。私はまだ、悪魔との毎日を楽しむことができた。痛みもほどんとなく、処方された痛み止めを飲む必要もなかった。

 それでも、少しずつ少しずつ、症状が悪化しているのはわかった。

  

 今日も海から戻ってきた後、私は疲れてしまった。そう、ここのところ、かなり疲れやすくなっていた。そんな私の身体を悪魔が抱き上げてベッドに運ぶ。もう、何度目だろう。すっかり慣れて、悪魔に身体をあずけてしまうまでになってしまった。

 そうしてベッドに寝かされた私は、今日もこう言う。

「ありがとう、海に連れて行ってくれて。」


 そう言えば、いつも悪魔はうなずき返してくれる。けれど今日は違った。

「そんなに満足そうな笑顔を、また悪魔に見せるとは。これでは簡単に魂を奪われるぞ?」

 そう言った悪魔はあきれているようだった。

「あら、わざわざ忠告してくれるの?」

「高位の悪魔は誠実だと言っただろう?」

 私は可笑しくなった。悪魔との賭けは、私にはあまり意味がない。なぜなら私が好きになろうとなるまいと、悪魔はきっと私の魂を奪っていくから。

 それよりも、私はこれを聞き返したくなった。


「私は今、そんなに笑っていたかしら?」

 なぜか悪魔があきれていた。

「また、と言っただろう?きみは楽しそうな顔も、嬉しそうな笑顔もたくさんしているよ。」

 少し驚いてしまった。私はそんなに笑っていたかしら。

 でも、悪魔が言うならそうなのかもしれない。でも、私は気づかなかった。だって。


 そもそも、この館で暮らしていて私は笑っていたかしら?

 いいえ。私を気に掛ける人など誰もいないこの館で、私は独りだった。笑うことも、なかった。

 ふと思った。私は元婚約者に笑っていたかしら?それとも笑顔を見せたりはしなかったのかしら? 

 嫌われることを怖れて、元婚約者には言いたいことを言えなかった、ちょっとした会話ですら。そんな私が笑えるはずもなかった。


 でも、それはもう、どうでも良いこと。

 だって言いたいことを言えない私が、この悪魔なら言えた。笑えない私が、この悪魔と一緒に居たら笑えた。

 不思議だけど、そうなの。この悪魔といるから、私は笑顔になれる。


 もう一つ、私は気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ、私の魂は本当に美味しそうなの?」

 悪魔が笑う。

「もちろんだとも。初めて会った時より、さらに美味しそうな匂いを放っているよ。」

 それなら、これも聞いておこうかしら。

「どんなふうに、私の魂を食べるの?」

 悪魔が笑った。

「おや、きみはそんなことが気になるのかい?」

「気になるわ。だって、悪魔は魂を奪うとか、喰らうとかいうけれど、それって結局どういうことなの?死んだあと、楽園だという天上界には行けないでしょうけれど。」


 悪魔がおどけたように笑った。

「怖ろしいことを聞かされたら、どうするんだい?」

「なるほど、死ぬよりも怖いということね。聞くのは先延ばしにしておくわ。」

 悪魔が優しく笑って、頬に落ちてきた私の髪をそっと耳にかけた。

「まったく、そんなことは言ってないだろうに。怖いかどうかは、きみしだいだよ。」

 答えは、はぐらかされてしまった。

 でも良いわ。こんな会話ですら私は嬉しいのだから。悪魔の眼差しが、声が、触れる指が、いたわりと優しさと愛情に満ちていて。たとえ、嘘だったとしても。



 

 一日、また一日と、悪魔と共に過ごす。けれど悪魔の言葉が嘘か本当か、私には分からなかった。嘘か本当か見分けがつかないくらい、私には本物に感じられた。

 そんな日々がどのくらい続いたか。けれど砂時計の砂が落ちるように、私はそれに向かっていた。

 疲れて座っている時間が多くなった。そんな私の隣にただ悪魔はいてくれた。

 寝ている時間のほうが多くなった。そんな私のそばに悪魔はいてくれた。


 砂時計の砂は、あとどれほど残っているのだろう。

 さすがに、あちこち身体が動かなくなった。指も腕も半透明に固まって、当然歩くこともできなくなった。

 髪が老婆のように白くなる。使用人は気味悪そうにそれを見る。

 けれど悪魔は言った。

「美しいね。」

 その一言で、私は十分だった。それなのに。

 悪魔は真っ白な髪をひとふさ手に取ると、それに口づけた。

 言葉に込められた称賛も、私の髪に触れるときの大切なものを扱う手つきも、まるで童話の王子様のような口づけも、私には嘘か本当か見分けがつかなかった。私には本当に感じられた。

 それくらい、この悪魔は私を愛しているかのように振舞ってくれた。たとえそれが極上の嘘でも。

 でも。それよりも。嘘とか本当とか、そんなことより。何より。


 私はこの悪魔が好きだわ。

 好きで、愛しくて、そんな気持ちで私の胸はいっぱいなの。

 むなしさも、憎しみも感じないくらい、この悪魔が好き。

 そんな温かな気持ちで、いっぱいなの。


 だから私はもう、さみしくない。



 それから数日後、私の病状は急激に悪化した。

 手の指すら少ししか動かなくなった。それでも何とか悪魔に指先を向ければ、しっかりと大きな手のひらに包まれた。


「きっと、もう、最期ね。だから。

 ありがとう、三か月のあいだ、ずっと。

 私とおしゃべり、してくれて。海に、連れて行ってくれて。

 私と一緒に、すごして、くれて……。」

 たくさんの愛情をくれて。

 ああ、もう声も出なくなるのね。それでもあと少し、これだけは伝えられますように。


「私は、あなたが好きよ。だい、すき。」


 もう体は動かない。声も出ない。

 視界もぼんやりとするなか、悪魔がニヤリと笑った。

「賭けは私の勝ちだ。その魂、もらうぞ。」


 悪魔が笑う、私の頬に手を添えて。 

「きみは魂をどうするのか気にしていたな。

 こんな極上の魂は、ずっとそばに捕らえて愛でるに決まっているだろう?」


 また悪魔が笑った。

「おや、まだわからないのかな?

 私は最初からきみが気に入っていたよ。でなければ、呼びかけに応えたりはしない。この三か月、わざわざ共に過ごしたりはしない。

 まったく、きみは私を何だと思っているんだ、高位の悪魔だぞ。当然だろう?」


 戸惑う私を感じたのか、心底愉快そうに悪魔が笑った。

「まあいい。悪魔の寿命は長い、魂を私に奪われたきみも同じく。

 人間のきみには少しばかり永く感じられるかもしれないが、もちろん私が退屈などさせない。


 体は辛い思いをさせたな。だが魔界では薬で治る。

 それでも辛い思いはさせたくなかったが、魔界と人間界ではことわりが違うため、こうでもしなければきみを連れて行けなかった。そこは許せ。

 きみが望んだのは、病を治すことではなかったのでね。

 飲ませた青い薬でできる限り進行を遅らせ、痛みも抑えたが、それでも苦しかっただろう。よく耐えたな。もちろん恨みごとを言いたいならば後で聞くぞ。私は誠実な悪魔だからな。


 ああ、魔界で暮らすのに多少不安を感じるかもしれないが、きみの希望に沿うようにしよう。もちろん高位の悪魔である私には、それくらい簡単に叶えられる。

 人間界に遊びに行きたいというならそれも可能だ、もちろん私と共にだが。」


 私はかすむ視界のなか、この悪魔は何を言っているのだろうとぼんやり考えた。

 体が動くのなら首をかしげたかったくらいに。けれど。


 悪魔が私を抱き上げる、極上の笑みと共に。

「さて、時が来た。魔界への道が開く。

 悪魔との賭けに負けたきみの魂は、このルードヴィクラーシュリクに捕らわれた。

 きみは私に捕らわれ愛され続けなければならない、その寿命が尽きるまで。」


 悪魔が私に口づける、契約の証のように。

 そして、囁いた。


「さあ、共に行こうか、我が妻クローディア。」





 *****


 三か月後。

 悪魔が住むという魔界の王都の一角、広い広い敷地内のお屋敷のその庭で、私は夫の帰りを待ちながら、アフタヌーンティーをいただいていた。

 三種類のサンドイッチ、スコーンとクリームとジャム、それからケーキと紅茶に似た何かは、美味しかった。食材は未だ謎だけれど。


 魔界という名称からして不健康そうな場所を想像していたけれど、来てみればそこまでではなかった。

 確かに嵐の日は多いし。妙なものが降ってくる日も多いし。いつぞやは夜空にオーロラなるものまで出ていたし。けれど今日のように、庭に花が咲き乱れる麗らかな春の午後、そんな日もあって。


 私の体は三か月かけて薬で症状が改善された。しかも大幅に改善されて、起き上がることも歩くことも、もちろん話すこともできるようになった。指先やつま先がまだ強張っているけれど、後三か月、薬を飲み続ければ完全に治るらしい。


 そして私は、婚約という段階も飛ばして、悪魔の妻になっている。

 私には山羊のような角は生えなかった。禍々しい翼も生えなかった。ただ、茶色だった瞳が深紅に変わった。夫となった悪魔と同じ色に。


 不意に影が横切った。続いて翼の音。

 見上げれば、空から悪魔が降りてくる。

「ルード様、お帰りなさい。」

 そう言ってゆっくりと立ち上がれば、静かに降り立った悪魔が、頬を包むようにして私の顔を上げさせる。そして私の瞳を見つめ、その色に満足そうに笑った。そして、

「ただいま、クローディア。」

と唇を重ね合わせた。

 その眼差しも、頬に触れる手も、背中を支える腕も、私の名を呼ぶその声も、慣れない私に合わせて手加減されている唇も、ただ愛されているのだとそう感じられて。

 

 それ以上に、私の胸にあふれるものを言葉にしたくなって、夫にぎゅっと腕を回した。

「だいすき。」





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