拍動
時は流れ、翌月。華佗からの課題である目を瞑っての繕い物の山から華佗は直近で仕上がったものを取り出すと
「うむ、大分上達したな。では次の段階に入ろう。」
と、頷きながら言った。
「ありがとうございます。次の段階とは如何なるものにございますか?」
凌瑛がそのように問うと、華佗は真剣な面持ちで
「今までのは麻や葛の布地だったろう。次からは実際に獣を使う。」
と、言った。
「獣を……。」
凌瑛は固唾を呑んだ。医術である以上、布地だけの練習では済まない。わかってはいたが、冷や汗が流れた。
「本来ならば西方みたいに死刑囚の遺体を使えれば良いのだがな、ここでは禁止されておる。だから主に人間に体の大きさが近い豚や、皮膚の縫合練習には犬を使う。」
「わかりました。」
そう言って凌瑛は両の拳が白くなるほど力を込めた。
「慈玉や、わかってるとは思うが獣であっても生命は生命。心してかかれ。」
「はい。」
凌瑛の力強い双眸には覚悟を決めた星空が浮かんでいた。
「よろしい。では肉屋には豚一頭丸ごと生きたまま融通してくれと話をつけよう。」
***
数日後。
「いよいよね……」
凌瑛は実験用の天幕を見てそう漏らすと
「こちらも準備できたぞ。」
肉屋の男が連れてきたのは一頭の豚であった。肉屋の男は凌瑛を見て
「お、女が?」
と、一瞬声を上げたものの、華佗の冷たい視線で無言で頭を下げて立ち去った。
「ではこれより豚の解剖実験を行う。」
「よろしくお願いします。」
凌瑛は華佗に深く頭を下げた。
「最初は何をすべきか、その理由も含めてわかっておるな?」
「はい、手洗いです。血や肉、内臓からの瘴気を防ぎ、病を防ぐために手洗いが有効にございます。」
「うむ。よろしい。」
凌瑛は灰汁に肘までつけると指の股や爪の中まで丹念に洗い、煮沸した水で濯いだ。そして、蒸留酒(※1)を手に取り、これまた肘まで摺り込んだ。
実験用の天幕の中に、豚を横にして乗せるための作業台、大量の灰汁と煮沸した水、蒸留酒、秤、鋭利な刃先の庖丁……。凌瑛はそれらを蒸留酒で拭き清めながら、華佗は実の父と同じ医師であってもこうも必要なものが変わってくるのかと驚いた。座学では習っていたが、こうもたくさんの器具が実際に目の前にあるとやはりまじまじと見てしまう。
「それでは……」
華佗は豚を作業台へ横に乗せると、その豚の頚椎の間を大きな庖丁で一突きした。一瞬、豚は断末魔の悲鳴を上げた。豚は目を見開くと虫の息となった。続けて華佗は豚を仰向きにさせ、首から正中線に沿って皮を切り開いていった。それに沿って赤黒い血が流れ続け、鉄臭いにおいが天幕を包んでいった。刃の進み具合が脂でいくらか遅くなる。
「良いか慈玉。生き物の体はまず皮膚、その次に脂、筋肉……となっているのは話したとおりだ。よく見なさい。」
「はい。」
鉄臭いにおいが充満する中、凌瑛の眼に映るは、華佗の手によって皮膚が剥がれ、白い脂肪、赤黒い血に塗れた肉、そして白い骨であった。
「死に至る出血量の計量について問う。慈玉、この豚は先ほど計量したら二百斤(=50kg。一斤250g)であった。何斤の血を流したら生命が危なくなり始める?」
「五斤弱(=1250g)です!」
「そうだ、人間は体重の三割の血を失うと生命が危うくなる。よく覚えておくように。」
そう言って華佗は更に刃を進める。
「慈玉、この肋骨の中心にあるものこそ心の臓だ。触ってみよ。」
促されるまま、凌瑛は豚の心臓に触れた。瀕死ではあるがまだ生きており、熱を帯びて拍動している。
「これが、生命……。」
ふと、徐州大虐殺のときの記憶が蘇る。うるさいくらい鳴り響く自らの鼓動を耳にしながら父の傷ついた首の大きな血管を押さえ、必死に止血しようとしたが段々と父の体温が消えていったこと。
自らの顔からも血の気が引く思いの中、母までも曹操軍によって玄き滝と共にただの肉塊になってしまったこと。あの無力感。
そして自らも今、学びのために師と共に豚とはいえ生命を奪っている。生命とはいとも容易く消えるものなのかと凌瑛は苦すぎる記憶と共に痛感した。
「儚いものですね……。」
凌瑛が無意識に呟くと
「ああ、そうだ。そして、絶対に喪ってはならぬものである。今日という日のことをよく覚えておきなさい。」
そう諭して華佗は解剖を続けた。豚の心臓の拍動が止まり、体温が失われていった。
※1……当時の中国には蒸留酒はありませんでしたが、紀元前5000年前の古代メソポタミア文明では蒸留技術がありました。華佗はそのことを西方へ留学していた際に知りました。