養母
華佗と養父娘になった凌瑛。養母となる華佗の妻との初めての出会い。
翌日。
「よいか慈玉よ、かつて母親の腹を剖きて赤子を取り出したという話は洋の東西を問わずあると話したな?だがその多くの場合、母親は助からなかったが何故だと思う?」
「え?それは人に限らず生き物は腹を剖かれたら死んでしまうものだからではないですか?」
「普通に考えればそうだな。しかしながらその普通を疑うことこそ肝要。血が出過ぎてしまうこと、痛みに心身が耐えられないこと、瘴気に当てられてしまうこと……様々な原因で人は死ぬ。逆を言えば、それらに打ち克つ医術を我々が身につければ患者は死なずに済む。それこそ、例えば赤子の向きが逆さだとか横向きの場合でも母子共に救えるやもしれぬのだ。」
それを聞いて、凌瑛は雷に打たれたような心地になった。
「例えば同じ腹の外傷であったとし、深さも同じくらいであったとする。傷口の大きさが小さい方と大きい方、どちらがより血が出る?」
「小さい方ですね。」
「さよう。だから治療に際して腹を剖くにしてもできるだけ小さくせねばならん。しかしあまりにも小さすぎたら腹の中も手元が見えぬであろう。故に視覚に頼りすぎてはならぬ。」
「と、おっしゃいますと?」
「目を閉じた状態で傷口を縫合できるようにならねばならぬということだ。そこでだ、まず慈玉には目を閉じた状態で繕い物をできるようになってもらう。ちょうどそろそろ妻の元に帰る頃合いであるから、一緒に帰って汝のことを紹介せねばならん。紹介したら早速鍛錬に入るぞ。」
「ただいま帰ったぞ。」
華佗が家の扉を開けてそのように言うと、凌瑛は戸惑いながら会釈した。義理の親子の契りを交わしたと言っても、凌瑛にとって初めての華佗の自宅である。それまでは野宿であったり適当な宿屋であったりしたから、どの言葉が適切かわからなかった。
「まあまあ、お帰りなさいませ元化(注1)さま。」
家の奥からぱたぱたと駆け足で華佗の妻・周芍が出てきた。医師の妻というだけあって、民と同じ粗末な身なりをしていてもどこか凛とした雰囲気を醸し出している。華佗は周芍に向かって微笑んで
「芍や、息災であったか?しばらくは家にいるからよろしく頼む。」
と、言った。周芍も周芍で嬉しそうに頷き、
「わかりました。時に元化さま、そちらの方は……?」
と、答えると周芍が凌瑛の方に視線を向けた。華佗は
「ああ、知り合いの医者の娘であったのだが先の徐州で孤児になってしまってな。これも何かの縁であろうと養女であり弟子として迎えることにした。慈玉や、挨拶なさい。」
「はじめまして、凌瑛、字を慈玉と申します。此度のことは華佗様には感謝してもしきれません。どうぞよろしくお願いいたします。」
凌瑛は左手を右手で包み込むようにして頭を下げると、周芍はあたたかく優しい手で凌瑛の肩に触れた。
「まあまあ、そんな大変な身の上だったのね。これからは何の心配もせず、私達を父母と思いなさい。もう一人分の食事も、女の子の着物も用意しないとね。」
そうやって、華佗に向けるのとはまた違った微笑みを向けた。凌瑛の心がまたあたたかさに包まれた瞬間であった。
そこから華佗の指導に変化が見られた。今まで西方の医術は理論だけであったが、手術の練習も始まった。練習の内容は、まず目を閉じた状態で完璧に繕いものをするというものであった。凌瑛は女であるからにして生家でも炊事のほかに裁縫を習ったとはいえ、裁縫は不得手であったし、目を閉じてやることなど考えたことすらなかった。しかしながら、不得手であっても傷口を小さくするためと聞いて奮起した。
「目を開けていてもどうしても不揃いになっちゃうのよね。」
わざとぼろぼろにした着物の山に目を向けると、そう自らを嘲り笑った。
そこから凌瑛の特訓が始まった。麻や葛のボロ着を繕おうとしても縫い目が不揃いなだけでなく明後日の方向に縫い目が行ってしまったり、針を左手の人差し指や中指に誤って刺してしまったことは一度や二度ではなかった。
「あああ!!もう!!なんで私はこんな不器用なのよーーー!!!」
何度指が傷だらけになってもなお練習を続け、それでも失敗してしまい思わず叫び声をあげた。
「あらあら、大丈夫?」
凌瑛の叫び声を聞いて、初めて会った日のように周芍が駆け寄ってきた。
「あ、養母上!うるさくしてしまって申し訳ございません。」
慌てて周芍に頭を下げるも、周芍は軽く笑って
「いいのいいの。それより阿瑛、少しは休憩したらどうかしら?」
「お気遣いありがとうございます。でも私は一刻でも早く養父上のような立派な医者になりたくて……」
それを聞くと周芍は苦笑いして
「まったくあの人ったら。」
と、今ここにいない夫を思い浮かべて呆れるやら笑うやら何とも言えない表情をした。
「え?養父上がどうなさいましたか?」
てっきり自分のことを言われるかと思った凌瑛は目を丸くした。
「あの人ってば心のどこかで自分ができることは他の人も普通にできるはず、という考えを持っちゃう節があるのよ。だからたまに誤解されちゃうこともあったりしてね。だからこんな厳しくなっちゃうこともあるのよ。阿瑛ももちろん頑張り屋だけど、あの人自身もとても努力の人でもあるし。それに頑張りすぎて身を壊したら元も子も無いでしょう?」
そう言う周芍の目はとても優しかった。
「さて、そういうわけで休憩しましょうか。ちょうどこの間、昔嫁いだ娘のお古を虫干ししたから、それも渡したいのよ。ちょっとこっちにいらっしゃい。」
手招きされて促されるまま移動した部屋には、茜や紫草の根で染めた状態の良い着物や腰紐などがあった。
「割と綺麗なものだけ選りすぐったつもりだけど気に入ってもらえたかしら?」
「気に入るも何も、私なんかこんなにしてもらえて良いのですか……?」
凌瑛は華佗夫妻の養女になったとはいえ、実質華佗の独断で決めたようなものであった。それに生家がそうだったように、町医者や産婆の仕事はそんな儲かる仕事ではない。急に現れた養女など穀潰しだと思われても仕方ない身分であるのに。
「迷惑じゃないかとか遠慮とか、子どもがそんなこと考えるものじゃないのよ。そういうのは大人の仕事なの。」
まるで凌瑛の心の内を見透かしたかのように玉芍が言った。
「養母上には敵いません。」
そうして、凌瑛はあどけない笑顔で笑った。
「そういえば阿瑛、あなた年はいくつ?」
茜色の着物や赤い腰紐を別によけながら周芍が問う。
「十三です。」
そう凌瑛が答えると、周芍は少し考えてから
「じゃあ月のものはまだと言ったところかしら?私や嫁いだ娘は十五とか十六で来たし。」
「ええ、産婆であった私の産みの母や、養父上からの講義でそうしたものがあることは習いましたが、実際に来ていないので今ひとつ想像ができないところではありますね。」
そのように言葉を紡ぐと、凌瑛の瞳が曇った。
もしあんな非道いことがなかったら、今頃は父上も母上も生きていて、それで母上から月のものに関して詳しいことを教わった未来があったはず。凌瑛は下唇をきゅっと噛んだ。
「嫌なことを思い出させてしまってごめんなさいね、阿瑛。でもね、これからする話は女子として生きるのであれば大事なことだから、養母である私が話しておかないとだめなことなの。」
凌瑛は無言で頷くと、周芍は話を続けた。
「月のものが来た時は股に使い古した麻布を折りたたんで、怪我したときみたいに傷口に当てるようにするの。そして当ててるだけじゃ落ちてきてしまうから、腰紐で固定しなくちゃだめ。あと我が家では漏れないように折りたたんだものの中に草木の灰を入れているわ。そしてそれを日に何回か交換して、灰汁をかけて洗ってるわね。」
そのように話を続けると、茜色の着物と濃い茜色の腰紐を凌瑛に更に近づける。
「ほらこれ、腰紐もだし、着物の袖口も濃い茜色になっているでしょう?これは月のもので汚れてしまったとしても見た目に分かりづらくするためなのよ。」
「そうだったんですね。」
母や近所の女性がたまに茜色の着物を着ているのはこのことだったのかと凌瑛は合点がいった。すると、ずっと柔和な表情を浮かべていた周芍が厳しい顔になった。凌瑛は思わず背筋を正した。
「あとね阿瑛。産婆ですらない私がこんなことを言ったら殿方に怒られてしまうかもしれないけれど、月のものがあるからと言って女の人は不浄とか穢れではないのよ。月のものは女の人が赤ちゃんを産むための大切なことなの。阿瑛は養女であってあの人のお弟子さんでもあるからこれからの人生、大変なものになるかもしれないわ。でもね、自分が女子だからといって決して卑屈になってはだめ。」
「養母上……。ありがとうございます!」
凌瑛は目を丸くして周芍を見、また頭を垂れた。まさかそんなことを言われるとは思っても見なかったからだ。
——華佗の弟子になった翌日、凌瑛は父の医者としての服装のまま華佗の往診に付き合った。患者はその村の役人で、ゆくゆくはその患者の息子が後を継ぐ予定という家であった。
往診自体は特に何もなかったものの、帰り際、その息子からすれ違いざまに
「女子が医術を学ぶなど天道に反するぞ」
と凌瑛にしか聞こえないほどの小声で言われた。凌瑛はその場ではそれを聞こえないふりをして流したが、心の奥底で父母を失ったときとはまた別の痛みを覚えた。時代が時代である。班昭の『女誡』の「女徳」にあるように、女子は機織りなど家のことに専念すべし、という風潮であった。いかに医者の社会的地位が低く、また養父であり師でもある華佗が凌瑛が医術を学ぶことを許可しても、養母が許可するとは限らず普通の娘のように生きろと言うだろう。そのように凌瑛は考えていたのである。だからこそ凌瑛は驚いたのだ。
周芍はまた先程のような柔和な表情に戻ると、
「そうそう、さっき阿瑛は繕い物失敗したと言うけれど、どのように失敗してしまったの?お裁縫だったら私でも助言できるから教えてくれる?」
と、尋ねた。凌瑛は気まずそうに苦笑いして頬を人差し指で掻くと
「恥ずかしながら、目を開けていても真っ直ぐ縫えないんです。真っ直ぐ縫えていたかと思えば間隔がバラバラだったり、あるいは絡まっちゃったりして結局一からやり直しということが何回もありまして……。玉結びや玉止めだったら得意なんですが。」
と、答えた。すると周芍はすぐさま
「であれば、こまめに玉止めしてしまえば良いだけの話よ。細切れになっちゃうことは気にしなくても良いの。そしたら失敗しちゃったところだけ糸を切ってやり直せば良いだけの話だし、こまめに玉止めすることで糸が絡まる心配も減るわね。」
と、答えた。
——まさかこの発想が、後に術野縫合で役立つことになろうとは、凌瑛も周芍も予想だにしなかった。
注1…華佗の字