新たな星空
時は中国後漢末期、外科医の祖・華佗の養女であり女弟子である凌瑛が女性として医師を志すまでの物語。
悲劇を乗り越え、『女誡』の「女徳」に記された当時の女性の規範に抗って運命を切り拓いていくまでの姿を描く。
光和三年(注1)、徐州。鶏鳴をかき消すくらい村中にひときわ大きな産声を響き渡らせ、ひとりの女児が産まれた。未の刻(注2)から始まった陣痛はやっと終わった。卯の刻(注3)の日の出と共に、産室に飾られた桃の枝と五色の糸が柔らかな朝日に照らされきらきらと輝き、まるで新たな生命の誕生を祝福しているようであった。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ。」
産婆はそう慈愛に満ちた微笑みで告げた。産婆は臍帯を砭石(注4)で断つと、艾灸で素早く止血した。そして女児を産湯で清めると、麻布に包み母・田菊の顔の横に寝かせた。
「可愛い……やっと会えたわね。」
待ち望んだ我が子を見て、目を細めて笑う母の姿はとても美しいものであった。
「今までの赤ちゃんを取り上げてきたお母さん達の気持ちが今心からわかった気がするわ。」
田菊は産まれたばかりの娘を愛おしそうに撫でながらそっと呟く。
「無事に産まれたか!」
産婆によって産室に招き入れられたのは、笑いながら泣くこの家の主であり、今さっき初めて父親になったばかりの町医者・凌仁である。凌仁も産婆と共にいざ妻の出産を手伝おうとしていた。
だが、身内相手として当惑してしまい、何も無いところで転んで手に持っていた麻布を床に落としてしまったり、産婆にぶつかって懐の竹簡をばらまいたりして余計な仕事を増やす羽目になったりしたため、産婆と田菊によって産室から追い出されていたのである。それでも産室の前をずっと意味も無くそわそわと歩き回ったり、かと思えば座り込んでずっと北斗星君(注5)と南斗星君(注6)、太上老君(注7)に母子共に無事であることを祈ったりしていた。
「初産なのに二人ともよく頑張ってくれたな、本当にありがとう。」
そう言うと凌仁は二人を愛しそうに抱きしめ、更に涙を零した。
「瑛。凌瑛。この子の名はそうしよう。瑛は我が家の宝物だ。」
かくしてこの娘は凌瑛と名付けられた。
——十三年後
「阿瑛!あなただけでも逃げなさい!生きなさい!」
それが凌瑛が聞いた母の最期の声であった。
「でもまだ父上が助かるかもしれません!」
薬草畑の農具小屋の中。凌瑛は薬草畑で突然首を切りつけられて倒れた父の首をずっと圧迫しながら答えた。だが母の手で父から無理に引き剥がされた。次の瞬間、軍馬の嘶きと共に家族で隠れていた農具小屋が破壊された。凌瑛は咄嗟に血塗れの手で頭を庇った。瓦礫は寸でのところで頭上をかすめ、凌瑛だけを避けるように落ちてきた。
なんとか助かった。そう安堵したのも束の間、今度は鈍い音と共に鉄臭いにおいが一気に充満し、鼻を刺した。玄き滝と共に目の前に母だったものの肉塊が降ってきた。
「は、母、上……?」
男達の怒号、女達の悲鳴、子どもたちの泣き喚く声、鶏や犬の鳴き声、肉や骨を切る重い音、家が燃やされ崩壊する音……。阿鼻叫喚の地獄絵図。そうとした表現できないほどの状況の中、凌瑛は頭だけでなく臓腑の奥底までも一気に凍てつくような感覚に襲われた。目を瞑りながら
「なんで、こんなことに……」
「私たちは薬草畑の手入れをしていただけなのに」
と消え入るような声で呟いた。ただ凶悪な嵐が過ぎ去ることを瓦礫の下でじっと座って待つしかできなかった。
——後の徐州大虐殺。曹操の父である曹嵩が徐州牧・陶謙の部下によって殺されたことによる報復である。それによって凌瑛の故郷の村で生きている者は凌瑛を除いていなくなった。
無音の世界になってから凌瑛が瓦礫の隙間を縫って出てみたら、故郷であって故郷でない光景が凌瑛の前に広がっていた。
軍馬に轢かれたのであろう近所の子ども達の亡骸。首を刎ねられた近所の農家のおじさんの亡骸。いつも母と買いに行っていた馴染みの塩屋の看板娘の亡骸に至っては、着衣も髪も乱れ、はだけた胸元に剣が突き刺さっていた。犬も鶏も皆殺されていた。村の皆達の亡骸の大半は河にまるでただの物のように投げ込まれていた。そこには、生命の尊厳など微塵も感じられなかった。
凌瑛は鼻を突く焦げ臭さが混じった鉄臭さとその光景に耐えられず吐いた。吐くものが無くなっても、尚吐いた。泣きながら吐いた。吐瀉物の酸味が口腔内を満たした。
「苦しい。」
なぜ村の中で自分だけが生き残ってしまったのか。両親の血で塗れた自らの服の重さも相まって、恐怖と悲しみと罪悪感で意識がいっぱいになりそうだった。しかし、それらを追い払うように凌瑛は自らの頬を叩いた。母の最期の言葉を思い出し、少しでも生き延びられるようにと、ある物を取りに我が家に向かった。父の医官としての服。村を襲った連中に自分が女だと気付かれたら塩屋の看板娘の二の舞になる。幸いにも半壊で済んだ家の瓦礫の下から父の仕事着を見つけた。父と母が凌瑛を慈しんで産み育ててくれた思い出の家。もうここには住めない。仮に住んだところでつらいだけであることは頭ではわかっている。それでも涙が止まらなかった。
とにかく逃げなければ。凌瑛は父の匂いと薬草の香りが入り混じる父の仕事着を六尺半(注8)ほどしかない小さな身に纏い、髪を少年のようにまとめ上げると、とにかく走り出した。
「そういえば、近くに父上の知り合いのお医者さまがいらしたはず……!」
凌瑛の脳裏に浮かんだのは、先日両親と盃を酌み交わしながら鍼や生薬の話をしていた医師・華佗である。凌瑛は父親から医書の講義を受けていると言ってもまだ十三歳の身には難しかった。それでも両親や華佗がとても大変だが尊い仕事をしているというのはよくわかり、誇らしく憧れた。
今はその人を頼ろう。確か琅琊山の向こうに行くと言っていたはず。凌瑛はそう決意し、走る速さを早めた。
あれからどれくらい走ったであろうか。琅琊山に入ってからも、日が暮れてからもずっと走ってきた。
「とりあえずあの渓谷で休まないと。」
凶悪な嵐から逃れて以降、初めて足を止めて座り込んだ。普段からよく父や母について回って仕事の手伝いをしていたとは言っても、こんなにも長い時間走ったのは初めてである。気付くと喉は張り付くほど渇いていた。手指も震えるだけでなく、脚ももう棒切れのようで、ふくらはぎは経験したこと無いほど痙攣している。足の裏には血肉刺や擦り傷がたくさんできていた。草鞋に至っては既に原型をとどめていない。
「痛いしお腹空いた……。」
こんな時、両親が生きていてくれたら父は手当をしてくれ、母は食事を用意してくれたはずなのに。在りし日の両親を思い出すも、もう2人ともこの世にいないことを改めて痛感した。唇を噛み締め、木にもたれかかるとそのまま瞳を閉じた。
どれくらい眠っていただろうか。幼い頃母に抱かれて桃の花を見たこと。父の股ぐらにおさまり一緒に『黄帝内経』(注9)を読んだこと。母の産婆の仕事について行って初めて赤ちゃんを抱いた日のこと。薬草畑で父に肩車で遊んでもらったこと。そのどれもがとてもあたたかく感じられた。
「凌瑛、凌瑛!しっかりしなさい!」
小鳥の囀りと共に名前を呼ばれながら肩を叩かれ、鉛のように重たい瞼を何とか開けると、ぼんやりとした人影が映った。そこには父母のどちらでもなく、探し望んでいた人の困惑した顔があった。
「夢……?」
「しっかりしなさい!薬草を採りに来たら、まさか汝がこんな状態でいたとは。」
「華佗さま……?」
「そうだ、私は華佗だ。汝は男の格好こそしているが、凌仁が娘の凌瑛だろう?」
「ええ、私は凌瑛でございます。」
「そうかそうか。とりあえず足の手当てをするからな、ちと痛むかもしれんが辛抱しなさい。」
そう華佗が声を掛けた途端、凌瑛の目には一瞬父の姿が見えた。幼い頃、転んで擦りむいた膝を微笑みながら手当てしてくれた優しい顔。しかしその顔は二度と見ることができない。安心感と虚無感とで、先日から張り詰めた糸が切れる音がした気がし、堰を切ったように泣き出した。
「ち、ちちう、え……!父上!母上!ごめんなさ、い。ごめんなさい!涙が、勝手に、止まらなくて……」
「ああ、良い良い。どうして汝を責められようか。」
幼子のように嗚咽混じりに泣きじゃくり、洟までも袖で拭う凌瑛の姿。それを見て、華佗は処置の手を止め、凌瑛の頭を優しく撫でた。
無言で俯く凌瑛の傷だらけの足に、華佗は煮沸した酒と黄連(注10)の粉をかけた後包帯を巻き終わると、凌瑛はポツリポツリと事の顛末を華佗に話した。
「なんと酷い……。つらかったな。」
凌瑛にそう華佗が話しかけると続けて
「なあ凌瑛、汝さえ良ければ私の養女にならないか?汝の父上や母上との仲であるし、汝は汝で昨夜父上や母上のようになりたいと言っていただろう。私の養女になれば女子であっても医術を授けることができるが、どうする?」
と、訊いた。
「はい、ぜひよろしくお願いします。養父上。」
こうして、華佗と凌瑛は義父娘の契りを結んだ。が、しかし凌瑛の表情は完全には晴れない。
「時に養父上、その、私が養女になると言うことは私の姓はやはり凌から華になるのでしょうか……?」
おずおずと凌瑛が訊くと、華佗は顎髭を少し弄りながら
「一般的にはそうなるな。だが、汝は父上のことも母上のことも大切に思っているだろう。だから別に無理に改姓しないで良い。それよりも汝に字を授けよう。そうだな……慈玉。慈愛で輝く医術を持つ者となれ。汝の字は慈玉だ。」
と、答えた。
「ありがとうございます!養父上!」
勢いよく顔を上げた凌瑛の双眸に満点の星空が輝いた瞬間であった。
それからというもの、凌瑛は目の前で誰も死なせたくない一心で華佗から学んだ。華佗は鍼灸や生薬のみならず、西方の医術の知識もあったから凌瑛がついていくのは尚更大変であった。だが、だからといって学ぶのをやめようと思うことは一度も無かった。むしろ、最初はわからないからこそ面白く、悩みに悩み抜いてわかったときの喜びが快感であった。何より、自分が苦労して身につけた医術で将来沢山の人々を救えるかもしれないという希望が凌瑛を生かしていた。
ある夜、夕餉を共に食べながら華佗は凌瑛に言った。
「慈玉よ、汝は女子だ。養父として訊くが、普通の女子のような幸せが欲しくば産婆止まりにして、その上で誰か良い男の下に嫁すという途もあるが、汝はどうしたい?」
華佗の突然の問いに困惑しつつも、凌瑛は答えた。
「そう……ですね。正直なところ、迷っているところです。世の習いに従えば、私はあと二、三年で誰かの下に娶られるでしょう。そこで母上みたいに産婆をやりながら自らもその人の下で子を産み育てるのが幸せなのだと思います。」
それを聞いた華佗は、落胆したような、でも安堵もしたような表情で
「やはりそうか。ならば……」
と、言葉を紡いだが、凌瑛はそれを遮るように
「ですが、私はまだまだ学び足りないですし、妊産婦だけでなく色々な人を救いたいのです。しかしながら世の殿方は医術を学ぶ妻など嫌がるでしょうから、おそらく私は良縁には恵まれないでしょうね。」
と、はっきりとした口調で、でも自嘲混じりに答えた。
注1…西暦180年
注2…午後1〜3時頃。
注3…午前3〜5時頃。
注4…石製のメス。
注5…道教の神。死を司る。
注6…道教の神。生を司る。
注7…道教の最高神のひとり。
注8…後漢末期の1尺は約23cm。6尺半は約150cm。
注9…中国最古の医学書。
注10…生薬の一種。外用薬としては黄色ブドウ球菌などに対して増殖阻止作用・抗炎症効果等がある。