事故物件 後編
松ヶ丘の改札で、対峙する御坂と桂。いや、駅を行きかう人々の眼中に、スーツで只立っているだけの桂の姿は入るまい。ジャンパーを羽織った下駄ばき巫女服の女が、急におかしなことを始めた方に、どうしも目がいってしまうのだろうから。
こうしている間にもザワザワと騒ぐ声が、周囲のあちこちから聞こえてくる。
バッ!
御坂が合わせた両手を解いて、右構えに体を傾ける。両手共に人差し指と中指は依然伸ばしたままだが、左手は腰に、右手は左肩に据えられている。
「臨!」
掛け声と共に右手を前方に向かって振るう。
「兵!」
今度は右手を上に掲げ、前に振り下ろす。
「闘!」
再び、右手を左肩から前に振るう。
「者!」
また上から前に右手を振り下ろし、以下繰り返し……
「皆! 陣! 烈! 在! 前! 鋭っ!!」
最後に上から前に右手を振り下ろし、御坂は呪法を完成させた。これは九字切り(くじぎり)と呼ばれる修験者に伝わるものであり、この呪法と共に桂晴美の姿は掻き消えるかのように霧散していく。
「まさか、離れた駅にまで幻術を飛ばしてくるとはな……」
最後に、まだ人差し指と中指を伸ばしたままの左手を腰から胸の前に持って来て、その下に右手をしまい、それから御坂はゆっくりと印を解いた。
「あの、どうかなされたのですか?」
どこか腰の引けた駅員が、御坂に話しかけてくる。同僚の駅員達が2人も後ろに着いてきているところをみると、イザとなれば3人がかりで御坂を取り押さえるつもりなのだろう。
桂晴美が幻影ならば、その姿は御坂以外には見えていなかったであろうから、彼等からすれば当然の対処といえるだろう。
「実はわしは祓い屋でな、ここに悪霊が漂っておったため、呪術で祓っておったのじゃ。
仔細が知りたければ、こちらの会社に聞いてみてくれ。わしの雇い主じゃ」
まだ事態を飲み込めぬ様子の駅員に佐々木の名刺を握らせると、御坂はゆうゆうと駅の出口へと向かった。
後ろの改札からは、”おかしいぞあの女、精神病じゃないのか?”、”一人でいきなり奇声をあげ始めたのよ……どうしたのかしら……”などと、御坂の人格を疑う声が次々と聞こえてくる。
が、御坂はそれが耳に入ったところで、恥ずかしそうに頬を赤らめるどころか、満足げに笑っていた。
「いや、これはまた大恥をかいてしまったようじゃ。ふふ、今日もついておるのう」
繰り返しになるが、御坂の持つ哲学の一つは”恥をかけばかくほど幸せになる”であるのだから。
※ ※ ※
壁親父が出るというビルは、松ヶ丘の駅正面の公園沿いに歩いて数分の場所にあった。
周囲は鉄板の壁で覆われ、正面は”工事関係者意外立ち入り禁止”の看板と、腰の高さのバリケードフェンスで塞がれている。”ビル取り壊し工事期間延長”の張り紙がしてあるのは、工事関係者が壁親父の被害に遭った影響なのだろう。
(ビル周囲の建物まで不自然に寂れ初めておるのぅ。もしこれが壁親父の呪いだとすれば、ふざけた名とは裏腹に大した怪異もあったのものじゃ)
昼だというのに、このビルの周辺は静まり返っている。
御坂はバリケードフェンスをまたいで、ビルの敷地に侵入した。今、工事関係者が一人もここにいないのは、壁親父の被害を恐れ工事を一時中止しているからだ。
御坂はジャンパーを脱いで、肩に背負う。たすき掛けで袖を纏めた白い着物ごしに御坂の胸のふくらみが露わになる。
「なんじゃ、マスターキーなど必要なかったではないか」
ドアが外れたビル正面の入口に盛り塩をした御坂は、そのまま廃ビルの中へと歩を進めた。
(どうやら上の階のようじゃな……)
既に電気は止まっているため、御坂は階段を探して登り始める。
御坂が昼前に来たのは、やはり正解だった。窓から入る日差しが無ければ、このビルの中は真っ暗闇だったに違いないのだ。こんな床に何が転がっているかも分からない廃ビルを、懐中電灯片手に除霊に行くとなったら、どんなに面倒だった事だろう。
カンッ、コロンと階段を蹴って登る御坂の下駄の音が、……田……事務所と書かれた扉の前で止まった。文字の半分は、ペイントが剥がれていてもう読む事ができない。
「やはり4階か……なんじゃ、ここは鍵が掛かっとるじゃないか」
マスターキーで鍵を開け、御坂が辿り着いた目的地は、ガランとしたホールになっていた。この広いスペースを仕切っていたであろうパーテーションの薄い壁が、今はそこら中に散乱している。
「っ!!」
何やら気配を感じて振り向いた御坂は驚愕する。階段へと続くドアが消え、白い壁に変っていたからだった。
(予想はしていたが、もうこの世とあの世の境を歪めよったか)
あの世との境が歪めば、霊体しか持たない怪異であっても直接肉体を持つ人間や物質に干渉する事ができる。しかし、いきなりフロアを分断するほど大きな壁を出現させるなどという、とんでもない怪異に出会ったのは、御坂も初めてのことであった。しかも……
「まさか、こうも簡単に包囲されようとは」
壁親父のデタラメさに、御坂は呆れていた。なんと後ろだけでなく他の三方にも、壁が浮かび上がるように出現し、御坂に向かってゆっくりと迫って来ていたのだ。
御坂は覚悟を決めたかのように、肩に背負っていたジャンパーを足元に放り投げた。
「ありがとうありがとうありがとう……、と。ふむ、やはり効果なしか……」
壁親父を追い払える筈の言葉を唱えてみるも、御坂に迫る壁は止まらない。
プッ
腰に下げた徳利から御神酒を口に含んだ御坂は、これを霧状にして壁に吹きかけるも、やはり効果はみられない。
ガンッ!
続いて神木で作った下駄で壁を蹴りつけるも、あっさり弾き返されて足が痺れただけであった。
「気が触れてしまったとはいえ、ここから生還した霊能者というのは、さぞ優秀な人物だったのじゃろうな……これでは黒蛇でも効果あるまい」
右足を両手で押さえてケンケンしながら、御坂は呻いた。
(どうやらこのまま続けても、余計に壁親父を喜ばせるだけのようじゃな)
やがて足の痺れが取れた御坂は、袴の脇の隙間をポケットの代わりにして手を突っ込むと、まるで観念したかのように直立不動で迫る壁を眺めた。もう、御坂に残されたスペースは、1メートル四方しかない。
「ありがとう」
数秒後、御坂が笑顔で放ったのは、先ほどと同じ”ありがとう”という言葉。が、今度はその一言でピタリと壁が止まる。
御坂はフゥと一息ついて、正面の壁を見据えたまま語り始める。
「壁親父よ、あいにくわしは心得ておるよ、今ここに自分が生きている事のありがたさを。
五体満足な身体も、日々照らしてくれる太陽も、そして空気も皆ありがたく、当たり前のものなど何もない。全てが奇跡のようなものじゃ。わしは、その全てに日々感謝して生きておる」
途端に目の前の壁が歪みだす。
「お主が苦手なのは、その感謝の心。”ありがとう”という言葉の上辺ではなく、その裏に隠れた感謝の心にお主は弱いのじゃろう?
怒り・憎しみ・悲劇・惨劇・そしてなにより血みどろの争いを好むお主の様な怪異には、感謝など到底受け入れる余地もないのじゃろうからなっ!」
歪みは益々激しくなり、まるで壁がのたうつように動いている。
(そこかっ!)
御坂は右手のみを袴から引き抜いて懐からお札を取り出すと、それをひと際激しく歪む壁の中に腕ごと突っ込んだ。ズボッっと壁に埋まった右手から確かな手ごたえが伝わると共に、四方の壁が溶けるようにしてズブズブと消えてゆく。そして壁の中から最後に現れたのは、額にお札を押付けられた用務員服の男だった。
「お主にも感謝しておるよ壁親父。お主のような怪異に出会った事で、わしはお祓い屋としてまた一つ学ぶことができた。
真昼間から人前でタヌキに化かされるような経験は、お主がはじめてじゃったよ。ありがとう……」
怪異に向かって微笑み、頭を僅かに下げる御坂。
「ぐ……がはぅ……」
壁親父はうめき声だけを残し、その姿は霞の様に御坂の前から消えてゆく。御坂は手応えのなくなった右手を下ろし、何を思ってか壁親父の消えた空間を縛らく眺めていた。
「それにしても、人とは全く難儀なものじゃ。己が空想でとんでもない怪物を生み出し、それを言霊に乗せて恐怖を広め、自覚せぬまま皆で邪鬼を呼び集めて遂には本当に具現化させてしまう。
ようもまぁ、面白半分のくだらぬ噂話一つで、壁親父などという出鱈目な化け物を作り上げたものよ」
御坂は足元のジャンパーを拾い上げると、再びその肩に担ぎ、昼でも薄暗い廃ビルの階段を下り始めた。
※ ※ ※
「なんだよ、東京行くなら俺も連れていけよな智巳」
夕日差す弥福神社の境内で、土産袋を抱えて帰った御坂に向かい山中省吾が口を尖らせた。彼のトレードマークの浅黄色の袴が僅かに汚れているのは、まだ神社の掃除中だったからであろう。
「遊びに行ったんじゃないんじゃぞ。お主を連れていっても、お祓いの役になどたつまいが」
「まーたそんなこと言って、東京で思いっきり羽を伸ばして贅沢してきたんだろ?」
「役得じゃろうよ、それくらいは。
わしだって、羽の一つも伸ばしたいわ」
「ほら、これだよ。まったく羨ましい限りだぜ」
「……」
御坂は黙って省吾の後ろを指さし、省吾は慌てて飛び石の間に放り出していたホウキを拾い上げる。
「また掃除をサボっていたのか、省吾!?」
省吾の後ろから歩いて来たのは、省吾の父、宮司の山中誠二だった。
「御坂! おまえもいつ帰って来るのか連絡はよこせ!
おまえも一応は、この弥福神社の巫女であることを忘れるなよ」
「まいったのぅ。ちゃんと土産に大吟醸も買ってきたから、機嫌を直しておくれよ宮司様」
御坂はばつが悪そうに、この神社の主の前へ土産袋を差し出していた。