事故物件 前編
「なんだ、お客じゃなかったのか省吾?」
ここは、弥福神社の境内。朝日差す廊下で、宮司(神社の責任者)の山中誠二は息子の省吾に尋ねた。
「客は客でも、親父じゃなくて御坂さんのお客だよ」
振り向いた省吾の袴は浅黄色。これは神職として、まだ駆け出しなのだと示す色ではあるが無理もない。ここで働き始めて、彼はまだ一年ちょいなのだから。
「まーた、アイツの客か」
一方、口をへの字に曲げる父誠二の袴は最高位を示す白紋付きの白。もっとも最近では、歳のせいで頭の方までも少し白くなりはじめている。
「いいじゃないか、御坂さんは働いた分うちにもお金入れてくれてるし。変り者だけどさ」
「金の問題じゃない! この弥福神社は縁起がいいことで有名なのに、あの巫女が来た途端しけた面の客ばかり訪れるようになって、まるで厄が一緒にまとわり付いてきたみたいじゃないか!」
「だったらなんで雇ったのさ、あの人を?」
「巫女になった商売敵の寺の娘が、うちの神社で働きたいと言ってきたんだぞ。”それじゃあ面白そうだから雇ってみよう”という気にもなる。
あの寺への嫌がらせにもなるしな!」
「くっだらねーー。
その歳になってもまーだ喧嘩してんのかよ、傘郭寺の和尚と。確か中学からの腐れ縁だっけ?」
「幼稚園からだっ!
さ、もう御坂のことは放っておいて、朝のお勤めを始めるぞ!」
「へーい」
その日、依頼人と連れ立った御坂が郊外の弥福神社を後にしたのは、この親子が丁度神饌(しんぜん(神様のお食事))を捧げている最中のことであった。
※ ※ ※
「事故物件?」
御坂を神社から連れ出したのは、不動産屋の男とその部下の女だった。彼等は御坂を後部座席に乗せ、都内へ向けて自動車を走らせている。女の方は30代前半、男はそれより二回りほど歳が上のようだ。
一方御坂は、いつもの巫女装束の上にジャンパーを羽織り、窓の外を流れる景色をのんびりと眺めている。
「ええ、まぁ、告知義務もありますし、しっかり処置してお客様に安心して入って頂くように我が社では心がけているのですが、一つ困った物件がありましてね。
年始も明けたばかりでお疲れのところ、急な依頼で申し訳ないんですが……」
運転席に座る男が一応の説明を終えると、助手席に座る女性がファイルを後部座席に向かって差し出してきた。御坂はそれを手に取り、鼻で笑う。
「なんじゃこれは?」
「203号室です。そこで自殺した女性が……」
「本命はこの物件ではないのじゃろう? お主等にまとわりついとる気配は、そんなものとはかけ離れとる」
助手席の女はぎょっとしたように目を見開いて、頬を右手で押さえた。
「流石ですね。凄腕と評判なだけのことはある。
が、しかしこちらもそんな評判の霊能者を2名ほど使い、失敗しているんです。
一人は建物に入った途端にギブアップして依頼を投げ、もう一人は……」
男は、赤信号の前で車を止めた。周囲の街はもう大きなビルが目立ち、畑だらけの弥福神社の辺りとは比べるべくもない。カラッと晴れた冬空が、黒い自動車に日差しを反射させ、少し眩しかった。
「……除霊中に気が触れましたよ」
男は一息ついてから、そう付け足した。
「わ、我が社としても、そういう経緯がありましたので、その……先生の実力を疑う訳ではないのですが、一応お祓いの様子を拝見させて頂いてから……」
遠慮しがちに、女がその続きを語ろうとするも……
「つまり、手頃な事故物件でわしを試そうという訳じゃな」
「て、手頃って……、はい、まぁ、そう受け取って頂いても構いませんが……」
御坂の言葉で、しどろもどろになってしまう。
「しかし、お祓いするところを間近に見たとして、霊力を持たぬお主等がどうやってわしの力を測ろうというのじゃ? 何もわかるまいよ」
「まぁ、そうおっしゃらずに。一応、先生の手際だけでも確かめておきたいのです」
「その”先生”ってのはよしてくれんか、”御坂”でいい」
運転席に向かって、頭を掻きながら御坂が頼む。
「あ、では御坂さんよろしくお願いします。
そのファイルにあるアパートには佐々木を付けますので、何かあったら彼女にお申し付けください」
(確か、佐々木裕子さんじゃったか?)
懐に入れた名刺を確認しながら、助手席から会釈する女性に向かって、御坂も無意識に会釈を返していた。
※ ※ ※
不動産屋の事務所から御坂が借りたのは、ホウキとバケツだけだった。
「なぜこんな掃除道具を?」
マンションに向かう道すがら、隣を歩く佐々木が尋ねてくる。相変わらず御坂は、下駄ばきジャンパーの巫女装束、おまけに今はバケツを引っ掛けたホウキを肩に担いでいるため、通行人がイチイチ物珍しそうにこちらを見ながら通り過ぎて行く。
佐々木はそんなすれ違う人々の好奇の視線が気になるのか、質問してる最中もキョロキョロと周囲を見回して、なんだか落ち着きのない様子だった。正直なところ、佐々木のキョドる有様は、ピシッとスーツを着こなした彼女の出で立ちとは不釣り合いで、少々滑稽ですらある。
「神道における祓い清めとは、対象の人や物に付いた汚れ(けがれ)を落とし、元の綺麗な状態に戻すことが本質じゃ。さすれば、おかしなものは寄って来ん。
ま、早い話が掃除じゃよ」
「はぁ……」
怪訝な顔で気のない返事をする佐々木を見て、御坂はふっと笑みを浮かべる。こちらは周囲の視線など、おかまいなしだ。
「その自殺したって人の部屋は、綺麗に片付いておったのか?」
「いえ、ひどく散らかっていました。もう清掃業者に頼んで片づけてありますけど」
「つまり、そういう事じゃよ。ゴミ屋敷に住んで、幸せになれる人など決しておらん」
「じゃあ御坂さんは、これから自殺現場にただお掃除をしに行くつもりなのですか?」
「そうじゃよ。
だから、お祓いしているところを見ても、わしの力量をお主等が測る事はできぬと言ったじゃろうが。そもそも、大層なお祓いが必要な場所ではないのじゃからな」
二人が話してる間に現場である5階建てのマンションには到着したが、佐々木はすっかり肩を落としてしまっている。ただ掃除するだけと聞いては、上司にどう報告していいのかも分からず、途方に暮れたのだろう。
背を丸め、マンションのマスターキーをカバンから取り出す佐々木は、ため息まで漏らしていた。
「……ほぅ、だいぶ汚れが溜まっておるようじゃな、この部屋は」
203号室のドアを開けた途端、御坂は呟く。
「わかりますか?」
部屋の電灯のスイッチを入れながら佐々木が尋ねた。既に清掃業者も入り、この1LDKの自殺現場には家具一つなく、ガランとしている。当然、自殺の形跡などどこにも残ってはいない。
「ご老人の孤独死……といったところか……」
答えを聞かずとも、ポカンと口を開けて振り返った佐々木をみれば、その推測が的外れでないことはすぐに分かる。
御坂はまず、二枚の小さな皿を懐から取り出し、玄関とトイレに盛り塩をした。次に部屋中に塩を撒くと、玄関で待つ佐々木の方を振り返る。
「そろそろ昼じゃ、飯にしよう。
ここいらに美味い店はあるかの?」
「あ、はい、いくつか知ってますけど、もういいんですか?」
「ああ、本格的な掃除は、塩が邪鬼の動きを封じてからじゃ。
それから、ここいらにスーパーはないか? できれば安売りショップがあると助かるんじゃが」
「スーパーなら駅前にありますし、確か100円ショップもその周辺ですけど、何を買うおつもりですか?」
「まだ足りない掃除道具があるから、昼飯のついでに揃えときたいんじゃよ」
隣の住人の視線をしきりに気にする佐々木に向かって、まだ玄関の御坂は下駄を履きながらそう大きな声で答えた。
※ ※ ※
佐々木が会社に戻ったのは、その日の夕方だった。
「では、そのままずっと掃除をしてたのか? 清掃業者が入った直後で、あの部屋は塵一つない状態だった筈だが……」
今は御坂をロビーに待たせ、この狭い会議室には上司の男と佐々木の二人きりだ。小さな机を挟んで、二人は向かい合っている。
「ええ、まぁそうなんです。特別な事といえば盛り塩をしたことと、塩を撒いてからホウキで掃いたことと、酒を雑巾がけするバケツの水に混ぜたことと、あとは風呂場と台所の排水溝とトイレにも酒を数滴垂らしてました。その時の様子はちゃんとスマホに録画しときましたけど、見てみますか?」
佐々木は自分のスマホを上司の前に差し出した。
「雑巾がけは私も手伝いましたから、そこだけうまく撮れていませんけど……あ、雑巾は100円ショップで買ったもので、特別なものではありませんでしたよ」
「こちらが話す前に自殺者を当てたところをみると、確かに本物ではあるが……さて、どうすべきか……」
男は腕組みをしたまま、椅子の背もたれに思い切り身を預ける。佐々木のスマホには手を伸ばそうともしないとこをみると、見たところで時間の無駄だと悟っているようだ。
「では、203号室の今後の扱い方について直接話したいとも言ってましたから、それを聞いてから判断してみてはいかがでしょう?」
「そうだな、ここに呼んでくれ」
「はい」
立ち上がった佐々木がキビキビとした動作で部屋を出て行くのを見送りながら、男は机にだらしなく頬杖をつく。
「……去年もいろいろと大変な1年だったが、今年はもっと大変な年になりそうだ……」
ブラインドが下りた窓から差し込む夕日が、男の背中に赤い縞模様を描いていた。