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呪物 其之捌

 老婆と共に蕎麦屋に入った御坂は絶望していた。老婆の背が右前に向かって曲がっていたのだ。それは、御坂が老婆の正面の席に座り、初めて分かった事だった。


(長い間、手押しカートを杖代わりにして歩き回っていたせいか……)


 背骨が曲がっているせいで、老婆の首は常に右へと傾いたままで、見るからに苦しそうだ。目の前の老婆をなんとか治してやりたいが、治しようがない、癒しようがない。それがこの老婆を前にして、御坂が抱いた絶望だった。


「よければ使こうてくれ」


「大丈夫よ」


 注文した鍋焼きうどんの熱にやられ鼻水を垂らす老婆に、御坂がハンカチを差し出すも、老婆はよたよたとカートからチリ紙を取り出そうとする。だが言葉とは裏腹に、背骨が斜め前を向いたままの姿勢でカートを開けようとしているため、老婆は思うようにチリ紙すら取り出せずに四苦八苦していた。


(やはり、わしの助けは借りたくないのじゃろうか……)


 御坂は老人を助ける事を諦め、目の前のざるそばをすする。自身で注文するのであれば、天ざるにサイドメニューの一つも注文するのだが、老婆は自分が驕ると言って譲らなかった。

 老婆の貯金がいくらあるにせよ、体がこの状態では今後医療費がどのくらい必要になるか見当もつかない。そんな老婆の金を、御坂は少しでも減らしたくはなかったのだ。

 結局老婆は、注文した鍋焼きうどんを殆ど残していた。顔が斜めに傾いているため、箸を運びにくいというのもあるのだが、それ以上に咀嚼力が落ちていた。

 エビの天ぷらを食べる時等はそれが顕著で、老婆がいくら噛んでも衣を剥すばかりで身を噛み切ることはできなかった。

 恐らく自分でも、物が食べれない身体になっている事に、気づいていなかったのだろう。昔を懐かしんでわざわざ尋ねた蕎麦屋で、それを思い知らされた老婆の気持ちを思うと、御坂はいたたまれなかった。


「今日は、ありがとうね。また会いに来て頂戴」


 帰って来た家の前で頭を下げた老婆の肩を、御坂は抱いていた。


(この人に、雪崩のように全ての良い事が起きますように……)


 御坂は心の中で、そう祈らずにはおれなかった。



         ※      ※      ※



「収穫はなかったのかい?」


 屋敷に戻り、省吾の泊まる部屋に入ると、怪訝そうな顔をした部屋の主がベッドの上から御坂を出迎えた。


「いや、問題ないぞ。あの犬については、いろいろと聞けたからのぅ」


 御坂はそのまま部屋の奥へと歩を進め、窓際のテーブルの椅子に腰をかけた。目の前のテーブルには、なぜか見慣れぬ段ボール箱が乗っている。


「なんだ、浮かない顔してるから、何も聞けなかったのかと思ったよ」


 老婆の前では絶やさなかった笑顔が、いつの間にか解けていた事に気づき、御坂は思わず自身の頬を撫でた。


「じゃあ俺の方から、使用人の人達に聞いて分かった事を話すよ。

 まず、敦彦さんが亡くなった次の日の晩。つまり、岡野さんが金庫の鍵がない事に気づいた日の晩に、もう鍵の捜索が始まってたらしいんだ」


「岡野殿の話では、鍵の紛失に気づいた翌日から探し始めた、という事じゃったが?」


「屋敷中を探し回ったのは、岡野さんが言った通り翌日からだけど、敦彦さんの部屋だけはその日の内に探してたんだってさ。たぶんあの人、鍵の行方より犯人捜しに夢中みたいだから、説明が雑になったんじゃないかな?

 岡野さんが犬の鳴き声を聞いたのも、敦彦さんの部屋みたいだね。一緒に敦彦さんの部屋を捜索してた人が教えてくれたよ」


(あ、この段ボール、わし宛の荷物じゃ。親父の速達が、もう届いたようじゃな)


 省吾の話を聞きながら、御坂は机上の段ボールに目を走らせている。


「で、こっからが重要なんだけど!」


 御坂が話に集中していない事に気づき、省吾がムッとした顔でこちらを見ている。御坂は慌てて、荷物から目を離した。


「その日、犬を追い払ったのが誰なのか分からないんだ。

 いつもは手すきの使用人が犬を追い回しているんだけど、その日はただでさえ忙しかったのに、敦彦さんの部屋の家探しのために人手を裂いちゃったからね。

 だから誰も犬を追い出しに行かなかったっていうんだよ」


「この屋敷の塀には、監視カメラがあった筈じゃが?」


「庭の内側はカメラの死角が多くて、犬しか映ってなかったそうだよ。俺が集められた情報はそんだけ。

 あと、その荷物は傘郭寺からさっき届いたばかりだよ。とりあえず俺が預かっていたんだけど、何が入ってんの?」


「呪物を封印する箱じゃよ。裸のまま持ち帰るには、危険過ぎる代物のようじゃからな」


 バリバリとガムテープを剥して、段ボールから御坂が取り出したのは、一面に経の書かれた木箱だった。


「お祓いの準備は、これで万全って訳だね。

 で、智巳の方は、何が聞けたの?」


「ええっと、孝則殿があの犬の世話の手伝いをしに度々来ていた事と、あの犬が人の物を奪って逃げる癖があることと、まぁそんくらいじゃな」


「それだけで十分だよ、智巳! あと、あのお婆さんはスマホ持ってた?」


「持ってる訳がないじゃろう。仮に持っていたとしても、あの有様ではロクに使えぬよ」


「よし!」


 省吾はベッドから勢いよく立ち上がった。


「上手くすれば、今夜中に全部解決できるぞ! すぐに孝則さんに会いに行こう!」



         ※      ※      ※



コンコン


「誰だい?」


 ドアの向こうから孝則の声が聞こえる。どうやら在室中のようだ。


「省吾です、ちょっとお尋ねしたい事がありまして」


「俺にかい? 鍵は開いてるから入っておいでよ」


 御坂と省吾が部屋に入ると、孝則は奥の机でパソコンに向かっていた。筋トレグッズが部屋の隅に置かれている反面、本棚には分厚い英語の本が目立ち、博識ぶりをうかがわせる。

 広いベッドにしわになった上着が放り出されているところをみると、少々ガサツな面もあるようだ。

 部屋の手前には軽食を取るための机があり、封の開けられた菓子の箱が置かれている。この部屋は少なく見積もっても4メートル四方以上の広さがあり、スペースにはかなりの余裕があった。


「ひょっとして、お仕事中じゃったか?」


「ニュースを見ていただけだよ。適当にかけてくれ」


 孝則は椅子を回転させてこちらを振り向き、御坂達は菓子箱の置かれた机の前の椅子に座る。


「孝則さん、念のために左手の甲をみせてくれませんか?」


「え? なに?」


 省吾の声が聞き取れず、孝則が聞き返す。部屋の手前の椅子に座る御坂達と、奥の机の前に坐したままの孝則とは距離が離れすぎていて、声が届かなかったのだろう。普通の会話距離なら問題のない声量だった筈だ。


「念のために左手の甲をみせてくれませんか!? 敦彦さんの次に呪われる可能性があるのは、孝則さんですので!」


 少し大きな声で、省吾がもう一度訪ねる。


「ああ、なんだそんな事か。

 また岡野に詰まらない言われて、ここに来たのかと思ったよ」


 孝則がこちらに向ける左手の甲には、染み一つない。


「ほら、綺麗なもんだろ」


「ありがとうございます。

 安心しました、じゃあ僕等はこれで」


 いつになく丁寧に省吾は頭を下げると、そのまま御坂と一緒に孝則の部屋から退室した。


「金庫の鍵がどこにあるかわかったよ、智巳」


 部屋のドアを閉じると、省吾は満面の笑みを御坂に向けた。


「やれやれ、ようやくお祓いができるのじゃな」


「ああ、岡野さんを探そう」


 2人は早足で、孝則の部屋から離れた。



         ※      ※      ※



「お二人共探しましたよ」


 2人が岡野を見つけたのは、御坂の部屋の前だった。岡野はいつになく興奮した様子で、鼻息が荒い。


「実は、五十嵐宗太が1年前に自殺していた事が分かったんです。やはり五十嵐宗太は我々の目を欺くために名前を利用されてただけで、やはり真犯人は田宮家の中にいるようです!」


「五十嵐宗太の家族については、調べてみたのかの?」


 ため息交じりに、御坂が問う。


「それも只今調査中ですが、未だ行方は掴めていません」


「じゃろうなぁ、もうそれ以上調べても何も出てこぬよ」


「では、やはり真犯人は田宮家の中に……」


「それより金庫の鍵の隠し場所が分かったんだよ、岡野さん!」


 岡野と御坂の間に、省吾が割って入った。


「本当ですか!?」


 岡野が安堵の笑みを浮かべる。


「ええ、ですから夕食後、真くんが寝た後にみんなを食堂に集めて下さい。

 そこで、金庫の鍵を隠した人物をお教えします。

 あと犯人にバレたくないので、呪いを防ぐためのお呪い(おまじない)をするって事にしておいてください」


「わかりました、そのように手配します」


 岡野は2人に会釈して、軽い足取りで廊下を戻って行った。


「なぁ、やはり岡野殿は、田宮家内部の犯行に拘っておるように見えるのじゃが」


 遠ざかる岡野の背が小さくなるのを待って、御坂が口を開く。


「まぁ、岡野さんの立場だと、この機会に孝則さんを追い出さないとピンチだからね」


「どういうことじゃ?」


「岡野さんってさ、剛三に取り入る事で地位を築いたんでしょ、みるからに。

 だから剛三に嫌われていた孝則さんには、ずっと冷たくしてた筈なんだよ。孝則さんと仲良くしてたら、剛三に嫌われちゃうからね」


「ああなるほど、滅茶苦茶恨まれとるから、田宮家内で孝則さんの発言力が増すと、岡野さんは失脚するというわけじゃな。

 金庫を開けられるのを恐れる訳じゃ。孝則が鍵を持ってたら遺言状を燃やされかねんし、中の呪物で呪いにかかったとしても、今ならわしが命を助けてしまうかもしれん、と」


「孝則さんがこの家に留まるとすれば、岡野さんにとって最後の希望が遺言状だからね。もっとも遺言状の内容が岡野さんの読み通りならば、という話ではあるのだけど」


「まっ、田宮家の事情がどうあれ、わしはお祓いをするだけじゃ」


 御坂は1人玄関に向かって歩き始めた、神木の下駄をいよいよこのお屋敷に持ち込むために。

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