エノの苦悩
いつの間にか 星が夜空を覆っていた。
「!?」
エノは泉のほとりに気配を感じた。
「誰?」
村の人ならば、何か声を掛けてくるハズだ。
ここは村の敷地内であるし、『傭兵村』自体 あまり一般の人が近づいてくることはない。
エノは静かに泉の中央付近に立ち、気配がするほうに意識を集中した。
すると薄暗い中に、かすかに人影を見つけた。
「誰なの? 村の人じゃないね?」
エノが少し強めに言うと、とうとうこの人影が口を開いた。
「来るつもりじゃなかったんだ……」
「!!」
その声はシンのものだった。
「な……何故ここに!?」
エノは泉の中へカラダを沈めた。
なにしろ、今は全裸の状態なのだ。
「ご、ごめん! ……見てないから……服を、着てくれ!」
シンは木の陰に隠れるとそこで待った。
エノは素早く泉から出ると、急いで衣服を身に着けた。
「シン様…… 何故……?」
「会いたかった……」
シンはゆっくりと木陰から姿を現した。
「今度、いつ会えるのかも分からないし……」
「舞踏会で会えます」
エノは少しぶっきら棒に言った。
いくらお仕えしている人とはいえ、そこまで寛大にはなれなかった。
「お……怒ってる?」
泉を撫でてくる風が心地よかった。
少し離れて座った二人の間を、沈黙が包んでいた。
エノの濡れた髪からは、まだ雫が滴っている。
最初に口を開いたのはシンだった。
「突然尋ねたりして、すまなかった。 ……でも、居ても立ってもいられなかったんだ…… 君の家も分からないし、遠回りに歩いていたらここにたどり着いて……」
「……? 何かあったのですか?」
「……」
シンがうつむいてしまったので、エノは心配になってしまった。
「シン様?」
シンは、大きく息を吸い込むと、エノを見ずに一気に吐き出した。
「エノ、君を愛している」
「えっ?」
エノは思わず立ち上がってしまった。
そして、体中が熱くなるのを感じた。
シンはその一言を出したことで、もう全てをエノに伝えようと思っていた。
そうでなければ、家の者たちの目を盗んで出てきたりはしない。
シンは真っ直ぐにエノを見つめた。
「すまない、エノ。 でも……もう隠すことは出来ない……」
真っ直ぐな瞳で話すシンを、エノは見つめ返すことが出来なかった。
「シン様……」
エノはもはや、どう答えたらいいのか分からなかった。
完全に頭の中は真っ白になっていたのだ。
だが、これだけはしっかりと意識の根底にあった。
『受け入れてはいけない!』
シンはエノに近づくと、立ち尽くしているエノの手を引いた。
「エノ……」
その体を引き寄せると、ギュッと抱きしめた。
細身の体が、泉に冷やされて少し冷たく感じた。
シンの腕の中で、エノは抗えずにいた。
何故かその温もりに身を預けたかった。
どこか……両親やガラたち、知っている人たちには無い暖かさを感じたのだった。
でも……
『受け入れては……いけない……』
これだけは曲げてはいけないと、必死で守ろうと、思い切って顔を上げた。
目の前に、シンの顔があった。
「シ……ン様……」
何も言えなかった。
目の前のシンの瞳が、エノの全てを吸い込んでいた。
静かな森の中。
2人だけの泉。
時折生まれる波が、密かに陰口を叩いていた。
エノは、何も言えなかった。
2人は、再び並んで座っていた。
シンは落ち着いた口調で話した。
「キツネ狩りに、母も来ていただろう? あの時、父も私の事を感づいていた。だからあの後、色々な知り合いを呼んでは、私を見合いをさせようとしているんだ」
シンは悔しそうに言った。
「私は、エノがいい」
「シン様……」
「エノと一緒になりたい」
シンは正直に話していた。それがあまりにストレートすぎるので、エノは戸惑っていた。
その真っ直ぐな瞳で、エノに尋ねた。
「君は、私の事をどう思っている?」
「え……私……は……」
エノはうつむいた。
少し気持ちが落ち着いてきたとはいえ、動悸が治まらなかった。
唾を飲み込み、静かに答えた。
「私は……やはり、お受けすることはできません」
シンは黙って聞いていた。
その彼を見ることもできず、エノは必死で続けた。
「決して、シン様の事を嫌っているのではありません。 むしろ、お慕いしています。 でも……私は兵士として、あなたにお仕えする身なのです。 本当なら、こうして並んで話すことなど……」
「エノ……」
シンは彼女の言葉を優しく遮った。
「それは……身分が違うからか?」
エノは苦しくうなづいた。
「……はい」
シンはハァッとため息をついた。
「私はそんなこと、関係ないと思っている。 職業が違うだけだ。 身分など、あって無いようなものだ。 エノ、そんな見えないものにこだわる事はないんだよ」
「シン様。 私は、身分の違いは必要だと思っています。 そうでなければ、世の中は回っていきません。 主従関係があってこそ、社会が出来上がるのです。 私はあまり教養がありませんが……それだけは、分かります」
シンは少し微笑んで答えた。
「エノ、それは間違っていないと私も思う。 でも、それとこれとは別だ。 愛に身分など関係ない。 君は、ソレのために、自分を失くすというのか?」
「……」
エノには、シンの考えが容易に理解できた。
でも、越えられないモノがあると、信じていた。
「君の『本当の気持ち』を聞かせてくれ」
「!」
エノは振り切るように立ち上がると、その場を離れようとした。
「エノ!」
声を掛け立ち上がるシンの声に振り返ると、後ずさりしながら、振り絞るように言った。
「シン様…… もうここへ来てはいけません!」
そして、彼を残したまま森の中へと走り去った。
エノはそう言うしか出来なかった。
逃げられたと思われても仕方ない……
こうするしか、なかったの……
シンは追うことはせず、彼女が消えた森の方を見つめていた。
その腕には、まだ彼女の居た感触が残っていた。